【二世・西川鯉三郎】について…、(名古屋をどりNEO傾奇者2024を前にして。)
鯉三郎百話より(昭和52年発行)
『二代目を継ぐということ』
昭和11年5月28日、近藤静子と結婚し名古屋の、また西川の人間になったが、すぐさまこの土地になれ親しんだというわけにはいかなかった。
とあります。
西川では、師弟がしっかりしていて、高弟のおばあちゃん連中も、師匠の私には、尽くしてくれるのですが、「東京恋し」の気持ちは容易に消えるものではなかった。
結婚の条件として、1カ月のうち、15日間づつ東京と名古屋に住み両方で舞踊活動を続けていた。
師匠として、弟子の指導はしていても、西川の名前はまだもらえず、結婚のまだ後のことでした。
西川の名前をもらうには、」名取試験を受けなければならず、数えの27歳に」ならなければ、受験資格もない。
初代鯉三郎が亡くなっても、高弟の合議性でやってきた西川流がこんな厳しい資格を設けていたのも当然のこと。
このため、1年にやっと2,3人の合格者が出るだけでした。
自分が試験を受けたのは、昭和12年2月25日。試験官がずらりと並ぶ前で、「北州」を踊ったそうです。
一応、その場で、合格かどうかはわかるのですが、すぐに名前をもらえるわけではなく、
1年間の据え置き。この間、しきたりとして当人の素行を見る。
✴︎「この厳しい試験内容は、私たちが子供の時にはすでに変更されていたのですが、いつもこのことは聞かされていました」✴︎
素行の点が合格して、やっと西川流の「苗字内」になりましたが、まだ、家元・鯉三郎ではなく、西川茂の名を許されました。この西川茂を名乗り、文字通り、名取になってから3年。今度は、【家元】という話が出ました。
初代が亡くなり、40年にわたっての家元の空白を続けてきた西川流。ここでやっと西川流二代目西川鯉三郎になり、家元を継ぐということになりました。
六代目菊五郎師匠の元・芝居を離れて「踊り一筋」と心に決めていたとはいえ、まだまだ30歳になったばかりの若さで、家元と言う言葉の響きが、なんとなく年寄り臭く感じられたこともあり、すんなりとその気持ちになれなかった・・・と言うような文章が書いてあります。
西川陽子
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