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【短編小説】ネフィリム 冷笑する神

 その星の大地は“腫瘍”に覆われていた。
 土も草木も見当たらない。コンクリート等の人工物も一片とて存在しない。
 病んで膿み切った内臓を地平の果てまで広げたとしか思えぬ醜悪な世界は、それを俯瞰する者に、超巨大な生物に自身が呑み込まれてしまったような錯覚を抱かせるだろう。もっとも、これが本当に何かしらの生物の体内だとしたら、その生き物は想像を絶する苦悶と苦痛の真っ只中にいるのだろうが。
 地面の至る所が不気味に、しかし有機体であることを主張するようにドクドクと脈打ち、カリフラワー状に盛り上がった腫瘍の数々が大地に汚猥な起伏を刻んでいる。数限りない腫瘍は膨張と収縮を繰り返し、鋼鉄をも一瞬で腐食させる奇怪なガスを噴出していた。河川を流れるのは粘性の強い濃黄色の汚液であり、生命の太母たる海洋もまた、醜怪な液体だけを湛えてこの星を覆っている。
 腫瘍の中でも巨大な物は、一か所に集まることで森林のようなものを形成していた。“肉腫の森”だ。森の中には謎めいた生態系が構築されていた。言語に絶する異形の生物が、互いに喰い喰われを繰り返す弱肉強食の世界だ。この悪夢が具現化したような世界でも、あらゆる生命を貫く自然の大原則は変わらないらしい。
 そんな腫瘍の大地に、悠然と屹立する二体の巨人がいた。双方とも雲海に頭頂が届くほどの超巨躯を有するが、その外見に秘められた美醜には天壌の開きがあった。
 一方の巨人は美しい結晶の集合体を思わせた。翠玉エメラルドを思わせる透き通った緑色の鉱物が幾つも積み重なり、凄まじい大きさの人型を形作っている。どうやら体内に光源があるらしく、全身を構成する結晶によって乱反射された緑の光が辺り一面を染めている。
 その神々しい姿は天に座する絶対者、あるいはその御使いを連想させる圧倒的な神威を伴っていた。生ある者ならば平伏せずにはおれぬ、魂に直接訴え掛けてくるような端倪すべからざる神性の発露。もしここにその降臨を目にした者がいたならば、醜く変わり果てた地上を救済すべく天界より降り立った、慈悲深き救世の主と見紛うに相違ないだろう。
 しかしもう一方の巨人はといえば、知性ある生物なら嫌悪感を催さずにはおれぬ、途轍もない厭わしさの塊であった。
 辛うじて人型を保っているものの、その全身はほとんど溶け崩れていると言って差し支えはあるまい。腐敗していくのが秒毎に窺えるその巨躯は、屍が腐り果てていく様を早送りで眺めているかのようだ。その足元には、既に腐り落ちた肉片が幾重にも積み重なっている。しかし天頂にも届かんというその巨体は、いくら溶け崩れても倒れるまでにはかなりの時間を要するだろう。その上、巨人は腐り落ちた傍から肉体を自己再生しているようだ。肉片が腐り落ちるとすぐさま肉が盛り上がって欠損部を埋め合わせ、また幾瞬かの間に腐り落ちる。その不愉快極まる腐敗と再生の連鎖が、巨人の全身をおぞましくも波立たせていた。
 しかし徐々にではあるが、腐敗が再生の速度を上回りつつあるようである。時間は掛かるだろうが、このまま放っておけば巨人はいつか完全にドロドロの肉汁と成り果ててしまうだろう。
 向かい合う二体の巨人。その極端過ぎる美醜の乖離は、聖と邪、善と悪、光と闇、神と悪魔の相剋を意味するのか。
 やがて二体の巨人はどちらからともなく相手に向かって歩み始めた。一歩ごとに腫瘍の大地が震え、足元に蔓延る異形の獣の群れが虫けらのように踏み潰されていく。
 星全体が叫喚しているような地響きを轟かせ、今二体の巨人は、互いの頬に全力で拳をめり込ませた。
 空気が、空間が、世界そのものが、二つの超質量の激突によって強烈な振動に襲われていた。巨星同士が衝突したような凄烈極まる衝撃波は、それ自体が天災となって大地を震撼させる
 相手の猛然とした正拳によって互いに倒れ伏す両巨人。あまりに巨大ゆえその落下はゆったりとして見えるだろうが、実際は音速をも凌ぐ速さで地面に向かっているのだ。
 だがここで、早くも両巨人の闘争に差が付き始めた。そのまま運動エネルギーの導きに従って地面に倒れ伏す醜い巨人に比べ、美しい巨人はなんとかその場に踏み止まったのである。
 美しい巨人は倒れた醜い巨人を高みから一瞥すると、王者の如き荘厳な光輝を振り撒きながら上に圧し掛かり、首を絞めに掛かった。頸椎を折る算段なのであろう。最も、この巨人に人間の頸椎に相当する器官があればの話だが。
 勝利を確信したのか、万力を込める巨人の面貌は、表情の浮かばぬ結晶の集合体であるにもかかわらず、どこか愉悦に歪んでいるようにも見える。

――神の威光に楯突く愚鈍な悪鬼よ、疾く冥府へと堕ちるが良い。

 そんな巨人の心中が窺えるような、聖なる暴威に満ちた処断者の如き威風を帯びている。
 腐敗と再生を繰り返す汚肉に結晶の指をめり込ませながら、すでに必勝を予感しているであろう翠玉の巨人。無様に倒れ伏し、首を絞められるがままにされている醜い巨人は、しかし口端を吊り上げた三日月の笑みを浮かべていた。だが翠玉の巨人は相手の表情など意に介さず、止めを刺そうと相手の首に込めた万力の行使に意識を傾注している。
 醜い巨人が口蓋を露わにした時には、既に遅かった。醜い巨人の腹中からせり上がってくる凄まじい熱量を感じた翠玉の巨人は離れようとするも、両腕を相手に掴まれて身動きが取れなくなる。
 口内に集束していく途轍もない熱量。自ら発した熱で己の肉体を焼き焦がしつつも、醜い巨人の口蓋から放たれた一撃は、敵巨人を滅却するに足る灼熱の劫火であった。
 それは一種の熱線兵器だった。腹中で練り上げられた桁違いの熱量を口内で集束、熱線として体外に撃ち出す強力な攻撃手段だ。
 それを顔面からまともに受けた翠玉の巨人はひとたまりもない。一瞬で首から上は蒸発し、残った胴体も醜い巨人の腕力で千々に引き裂かれてしまった。
 緩慢な動作でむっくりと起き上がり、勝利の雄叫びを上げる巨人。その凱歌は天に轟き、地に轟く。邪悪の権現としか思えぬその巨人の咆哮は、天地の全てを舐め尽くすように傲然と響き渡っていった。


 超巨大人型生体兵器『ネフィリム』は戦闘行動を終えると、地下深くの調整用培養槽に収容された。薄緑色の培養液で満たされたガラス張りのケースに身を沈めると、絶え間のない腐食と再生の連鎖が終息する。この培養槽の中こそ、醜い巨人――ネフィリムが安定して肉体を維持できる唯一の空間なのである。
 粘性の強いドロリとした培養液に全身を浸すと、ネフィリムは未だ昂り続ける闘争本能を静められて、休眠状態に移行した。もっとも、眠りに付いたとはいえその双眸が閉じられることは無い。目蓋がないのだ。同様に、唇の無い口元は常に歯茎が剥き出しであり、常に不気味な笑みを浮かべているようにも見える。今にも飛び出してきそうな眼球の迫力と相まって、猛悪な鬼面をその相貌に刻んでいた。山のような巨体の人型がそのような恐ろしい表情を浮かべているとなれば、大抵の者は一目見ただけで発狂するに違いない。
 やがてネフィリムが完全に沈黙すると、培養槽内の四方八方から極太のチューブのようなものが巨体に突き刺さり始めた。貪欲な吸血虫のように巨人の全身を穿つそれらは、やはりこの不安定過ぎる生体兵器を維持・調整するための装置の一部なのか。チューブを通して得体の知れぬ何かがネフィリムの肉体に注入されると、巨体は二度三度痙攣したが、すぐにまた沈黙した。両目と歯茎が剥き出しになっている巨人の肉体に、数百本はあろうかという無機質なチューブの群れが突き刺さっている様は、どこか前衛芸術めいた奇妙な景観を作り出している。
 変化はこれで終わりではなかった。ネフィリムの痙攣も止まると、今度は培養槽の直上から機械仕掛けの腕マシーンアームが降りてきた。培養槽の中に侵入したそれは、ネフィリムの下腹部――人間の女性の子宮に相当する部位に先を潜らせると、中から明らかに人工物と思われる物体を取り出した。それは人間大の大きな銀色の卵に見えた。滑らかな曲線を描く楕円形のそれはすぐさま持ち上げられ、培養槽の外へと運ばれる。
 培養槽の外には、地平の彼方まで続いていそうな広大な空間が広がっていた。そのあちこちに、素人目には用途不明の機械が雑然と居並び、大小様々なそれらの上を通過した機械仕掛けの腕は、その空間でも特別開けた一角に銀の卵を降ろした。
 その周囲には白衣を身に纏った理知的な風貌の集団と、使い古しの作業着に身を包んだ無骨な男たちが集まっていた。彼らはこの作業に慣れているのか、降ろされてきた銀の卵を見るとすぐさまその直下に駆け付け、楕円の側面にある取っ手のようなものを握り締めると、男数人掛かりで引き始めた。身を引き裂かれる痛みに叫喚するかのような悲痛な旋律と共に、銀の卵の中身が外界へと曝け出されていく。
 ドロッとした赤黒い粘液と共にそこから吐き出されてきたのは、“肉塊”としか形容できぬおぞましい何かだった。無秩序に膨張した生肉の集合体である。地上を覆う腫瘍の一部にも見えるが、それは明らかに生命の証――呼吸を行っていた。大地を埋め尽くす肉腫の一片かと思われたそれは、確かに意識を持つ一個の生命体なのだ。
 それが完全に外気と接触する寸前、周りの人間たちはすぐにマスクを装着した。“肉塊”は強烈な悪臭を放っているのだ。周辺の空気そのものが腐り落ちそうな猛烈極まりない腐敗臭を振り撒きながら、“肉塊”は床へ倒れ込むように外へと這い出てきた。作業着を着た男たちはその“肉塊”をタイヤ付の水槽に入れると、神妙な面持ちで何事かを囁き合っている白衣姿の集団と共にその場を後にした。
 水槽に収納された“肉塊”は、迷宮のように入り組んだ廊下を右へ左へと進んでいた。“肉塊”を運ぶ者達の会話が、幽かな照明だけが灯る薄暗い廊下に反響する。

「こいつも使い物にならんな。もう少しは役立つと思っていたんだが」

 そう口にしたのは、白衣を着た集団の中でも一際年老いた年輩の男だった。およそ人間性というものが感じられ冷淡な声音も、生命の息吹が感じられぬこの無機質な空間には相応しいのかもしれない。実際、他の者らも彼と似たり寄ったりだった。

「No.8は比較的長く戦い抜いた方だと思いますよ。これで通算6回の出撃です。5回以上の戦闘に耐えた者さえ稀ですから」

 年輩の男の言に答えたのは若い白衣の女だった。メガネ姿が様になった知的な風貌は間違いなく美人の類いだが、酷薄な印象を与える冷たい眼差しが近寄り難い雰囲気を醸し出している。彼女に何食わぬ顔で話し掛けられるのは同じ属性の人間か、あるいは底抜けに陽気かつ全く空気の読めないお調子者に限られるだろう。

「10回でも100回でも戦ってもらわねば困る。“やつら”の能力も依然として未知数だというのに、唯一の対抗手段が斯様に不安定なままでは、先が思いやられるというものだ」

 年輩の男は女の返答へそのように切り返した。この男はどうやら、白衣の集団を纏める立場にいるらしい。血の通った者達とは思えぬ集団の長に相応しい、凍土を心象とするような氷の精神を備えている。

「有象無象にも限りというものはある。これから必要になってくるのは、替えを必要としない、半永久的な活動を可能とする優秀な生体ユニットというわけだ」

 その後も彼らは二言三言口を開いたが、目的の場所に到着するより前に、年輩の男の懐が緩く震動していた。彼は白衣の下から激しく震えている携帯端末を取り出すと、通話ボタンに人差し指を押し付ける。

「ふむ……ふむ……ほう、また例の手合いか。どいつもこいつもずいぶんと見上げた根性だが、あれを見せてやれば嫌でも逃げ帰るだろうよ」

 男は通話を切って端末を懐にしまい直すと、他の者全員に対してこう告げた。

「諸君。申し訳ないがこれより、このユニットを玄関前まで運んでもらいたい。なあに、こいつを見せてやれば、またすぐにべそをかいて帰っていくだろうさ」

 過去に何度も繰り返されてきたことなのか、声を聴いた者達は疑問を差し挟むことなくすぐに進路を変え、男の言う玄関前を目指し“肉塊”を運んでいく。


 大地の全てが醜い腫瘍によって覆われた後、生き残った人類は地下への移住を余儀なくされた。人工の太陽が備え付けられた地下都市が世界中の地中に作られ、人々は灰色の空を眺めながら新たな日常を過ごしていた。
 そんな地下都市の一角で、まだ声変わりの済んでいない甲高い少年の叫びが轟いていた。

「ここにいることは分かってんだ! かおるを出しやがれ!」

 蛮声を響かせているのは10代前半と思しき少年だった。坊主頭の見るからにヤンチャそうな少年である。幼い面貌を怒気に歪ませ、巨大な鉄格子を今にも引き裂きそうな剣幕で激しく揺すっていた。
 そこは巨大な建造物の門前だった。白亜に覆われた西洋建築の建物は、大宗教の総本山を思わせる荘厳な霊威を醸し出している。だが彼が目の前にするこの施設は、神の名の下万民に救済をもたらす敬虔な信徒達の集う場所ではない。むしろそこは、汚らわしく厭わしい悪魔の研究、左道の教えを求道する禁断の魔窟に他ならない。これより少年は、そんな悪意に満ちた研究の一端を目の当たりにするのだ。

「あれ、どうします?」

 眠そうな顔の守衛が相方に声を掛けた。以前にも同様のことがあったのか、声を掛けられた方は溜息交じりに応じる。

「どうったって、もう上には連絡したし、俺らはここで見張ってればそれでいいだろ」

「それもそうっすね。大体あのガキみたいな連中は何考えてるか分かりませんよ。僕らはこれでも人類の守護者っすよ。賞賛されこそすれ、あんな生意気な口調で怒鳴られる謂われはないじゃないですか」

「そう言ってやるな。十把一絡げの凡人共は、人類の行く末よりテメエとその周りだけが大事なんだからな」

「ハハッ! ちげえねえっす」

 やがて守衛の二人は、大声を張り上げている少年に目を付けられた。眼力で人を殺せそうな眼差しを向けられても、二人は恐れるどころか面白がってちょっかいを出し始める。

「おい坊主、おめえそんな必死こいて声を張り上げてるってことは、目当ては彼女か、あるいは女兄弟といったところか?」

 二人の守衛のうち年上の方が少年に声を掛けた。立場も腕力も圧倒的に上回る男の立場が、彼の心中に野卑な優越感を植え付けている。

「てめえらと話すことなんかねえ! さっさと薫を返せ!」

「この糞ガキ、調子乗りやがって」

 大人気なく声を荒げたのは若い守衛だった。懐に仕舞い込んである拳銃へと手が伸びそうになるが、さすがに見かねた先輩の守衛に止められた。

「まあまあ、落ち着けよ兄弟。どうせこの後こいつはろくでもない目に合うんだからよ」

 先輩の言葉に「それもそうっすね」と返した守衛は、下品な笑みを満面に張り付かせて怒気を抑える。何のことかわからぬ少年の方は、多少の困惑は示しながらもその闘争心を絶やしてはいなかった。

「そら来たぞ。愛しのあの娘と感動の再開だ」

 嘲りと諧謔に満ちた台詞を吐き捨て、守衛の二人は門の奥に控えた。変わって現れたのは、作業着を着こんだ無骨な男達と、白衣を纏った理知的な風貌の集団である。その全員が、路傍を這いずる虫けらを見るような視線で猛る少年を見据えた。
 一軒家がすっぽり収まってしまいそうな大きい正面玄関から現れた彼らは、タイヤ付の水槽を運んできた。ちょうど一人用の湯船ほどもある水槽の中身を見た少年は、そのあまりの醜さに憤怒を引っ込め、顔面蒼白になってしまった。
 地上に蔓延る肉腫にも似たそれは、水槽の中でおぞましくもその身体を蠢かせ、のたうつように膨張と収縮を繰り返している。見る者の正気度を根こそぎ削り取るような忌まわしい姿は、多感な少年の心に凄惨な傷跡を刻むに違いないと思われた。現に、その存在に意識を奪われた少年の表情は、先ほどまでの剣幕が嘘のように青ざめてしまっている。

「君の目当てはおそらくこれだろう。薫、とか言ったな。申し訳ない、人間としての固有名詞まで記憶する必要は感じなかったものでね」

 白衣の集団を束ねる年輩の男は少年にそう告げた。最初、少年は男の言っている意味がまるでわからなかった。こいつは何を言っているんだ。薫は何処にもいないじゃないか。

「何を言う。ほら、目の前にいるじゃないか」

 そういって年輩の男が指差したのは、少年の心から闘争心を剥奪したあの“肉塊”だった。出鱈目なことを言うな、と少年は再び憤怒を露わにする。だがその顔には、以前ほどの気迫は感じられなかった。あるいはこの時、少年は男の言わんとしていることを察してしまったのかもしれない。だがそれはあまりに荒唐無稽であり、到底在り得ぬ、在ってはならぬ怪事であった。つまり、今少年の眼前で不気味に蠕動している“肉塊”こそが――

「わけわからねえことを言うんじゃねえ! 俺は薫に会いたいだけな……」

 その時、少年は悪夢から這い出た怪物の身体に、幼い頃ある少女にプレゼントした髪飾りを見付けてしまった。華やかさの欠片も無い、酷く質素で粗末な、雑草を編んだだけにしか見えぬその髪飾りは、かつて薫と呼ばれていた少女が肌身離さず持ち歩いていた宝物だった。それを渡した時の少女の笑顔を、少年は忘れたことが無い。生涯忘れることはないだろうと思っていた。その特別な髪飾りを、水槽に閉じ込められた下劣な風体の怪物が持っているはずがない。持っていてはいけないのだ。

「お……おい。これは何の冗談だよ……」

 魂の抜けたような声で呟いた時、少年は見てはならぬものを見てしまった。醜怪な化け物の肉襞、その合間に、明らかに哺乳類の眼と思しき器官を垣間見たのだ。その場違いな眼が、少年の方を見据えた。重なり合う視線。目と目を合わせたその瞬間、少年は全てを悟ってしまった。あれは薫の瞳だ。

「うっ……うわああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 心を蝕む極彩色の狂気は、幼い頃の淡い思い出などいとも簡単に吹き散らしてしまった。かつて人間として振る舞っていたはずのモノが、あのような狂気の産物へと変貌し得るという事実に、生理的嫌悪を抑えることが出来ない。少年の喉が絞り出す悲鳴は、彼の心が崩落する音を奏でているようだった。

 ひとしきり叫び通したあとに少年の口を割って現れたのは、今朝腹に入れた朝食の変わり果てた姿だった。吐瀉物である。下を向いてゲエゲエと吐き出す少年の姿は、己の信ずる神に裏切られた敬虔な信徒のような悲哀を背負っていた。己の価値観が崩落していく衝撃は、思春期の少年にとってあまりにも残酷な真実だったのだ。

「おいおい君、それはあんまりというものだろう。見たまえ、彼女も悲しんでいるじゃないか」

 年輩の男の声に少年が顔を上げると、水槽内の“肉塊”はまるで痙攣するように蠕動を激しくしていた。先ほど少年が見た怪物の瞳は、今はっきりと彼の嘔吐する様を見詰めていた。その瞳に浮かぶのは、彼のそれより数段勝る悲痛と絶望の色だった。やがて“肉塊”は水槽を壊しそうな勢いで暴れ出すと、衝撃を察知した内部の装置により鎮静剤を投与され、強制的にその蛮行を諌められる。

「なんだ、まだこんなに元気が残っていたのか。この調子なら、あともう一度くらいは出撃できそうだな」

 あくまで実験動物に対するような態度を崩さず、年輩の男は冷たい声音でそう告げた。事実を淡々と口に出すような語り方に、しかし少年はといえば怒りを向けるほどの気概を喪失していた。精神は均衡を保てず、常軌を逸した悪夢の権化だけが彼の思考を支配していた。
 少年はこれ以上吐く物が無くなるまで吐き尽くすと、再び気でも狂ったような悲鳴を上げて一目散に逃げ帰っていった。当初の気迫はどこへやら、涙と鼻水で顔を汚しながら走り去っていく様は、その年齢の幼さを考慮してなお無様に過ぎる敗走であった。しかし誰も彼の敗北を責めることはできないだろう。見る者全ての精神を破壊するようなおぞましい怪物を前に正気を保っていられるような人間こそ、唾棄すべき邪悪な感性の持ち主なのだから。            
 すなわちそれが、彼らであった。

「こう何度も来られるのも煩わしいです。いっそのこと、侵入者への射殺を許可されてはどうでしょう」

 メガネを掛けた白衣の美女が年輩の男に提案した。彼女が言うには、どうやら今回のような事例は過去何度か起こっているらしい。その度に彼らはこうして、侵入者の探し求める“モノ”を直に拝ませてやるのだ。そうすれば決まって侵入者の精神は異常をきたし、逃げ帰って真実を周りに話したところで碌に相手にされない。彼らは脳内に焼き付けられた悪夢の残滓に日々震えながら、残りのみすぼらしい人生を過ごすのだ。
 常人ならこれを無慈悲な行為だと非難の声を上げるだろうが、当の本人たちはそんな敵意を向けられること自体心外だと返すだろう。この白亜の建造物に勤務する者等は、その全てが人類種守護の大任を引き受けた偉大な英雄なのだ。

「その必要はないだろう。我らはあくまで人類の守護者なのだ。むやみに殺生を犯すこともあるまい」

 男の返答に不満を呈することなく女は引き下がった。意見の具申はともかく、最終的な意志の決定において男は絶対的な権力を有しているらしい。

「では諸君、No.8を調整室へと運ぼうか」

 男の言葉に粛々と従う彼の部下達。その非人間的とも言える所作からは、大きな使命を背負った者の気概のようなものは微塵も窺えなかった。


「ちくしょう……ちくしょう……」

 幽鬼のような足取りで逃げ帰る少年は、ボソボソとひとりごちながら丘を降っていた。喉は焼け、涙は枯れ果て、胃もほとんど空になった今の彼は、肉体だけでなくその心まで虚無に支配されていた。中身の抜けた抜け殻が、かつての宿主の動きをぎこちなく模倣しているかのような不確かな挙措は、心の芯を叩き折られた敗者の振る舞いに相違ない。
 少年が白亜の施設を訪れたのは、幼馴染の少女を救出するためだった。実は彼女だけでなく、これまでに何百人、何千人もの人々が誘拐されていた。この地下世界においては人攫いなど日常茶飯事だが、例の施設がその一翼を担っているらしいということが知れ渡ると、被害者の家族や友人知人はこぞってその施設を強襲した。しかし誰一人として少女の救出に成功した者はいない。それどころか、憐れにも逃げ帰ってきた者達はそろいもそろって気でも狂ったかのような戯言を繰り返すばかりだった。曰く、あそこは黒魔術によって召喚された魔物の巣窟だ。曰く、私の娘は怪物に食べられてしまった。曰く、あれが人間の成れの果てなど自分は断じて認めない。
 荘厳な佇まいのあの建造物が、何か得体の知れぬ行為に及んでいるらしいのは辛うじて周りの人間にも理解できたが、要領を得ない帰還者達の言葉に彼らは戸惑うばかりだった。ただ恐れだけが募り、自分とその周囲に魔の手が及ばないことを願うばかりの、天災に対する畏怖染みた感情が大衆を席巻した。
 そんな彼らを少年は腰抜けだと思っていた。普段は偉そうに怒鳴り散らす大人たちも、あの施設の話になると、幽霊を恐れる幼子のような惰弱ぶり露呈するのだ。しかしこうして事の真相の一端を垣間見た少年は、その大人たちでさえ知り得ぬ狂気の世界に片足を入れてしまった。今の彼の脳内では、幼馴染と同じ瞳を持った怪物が悲しげな視線を絶えず少年に向けてくる。まるで逃げ出した彼の罪を弾劾するように、怪物の瞳は少年を捉えて離さない。
 あの施設がどんなおぞましい蛮行に及んでいるのかはわからない。しかし少年はこんな話を聞いたことがある。人類が腫瘍の大地に追われ地下世界へと逃げ延びた後、その存続が保たれているのはあの巨大施設のおかげなのだと。多くの人々がある日忽然と姿を消すのも、その他大勢の人間を守る為に人柱になったのだと主張する者もいる。そうでなければ、薫があんな目に合うはずがないではないか。
 そこでふと少年は不吉な妄想に思い至る。あの冷たい目をした白衣の大人達、冷徹な悪魔の如き集団に守られねば生存を許されぬ自分達に、果たして生きる価値があるのだろうかということだ。あれが人類の守護者だと言うならば、人類は生き延びる為に同胞を醜怪な化け物に変えてしまうことすら厭わないということなのか。そうまでして自分たちに生きる価値はあるのか。いつか全ての人間が、生存のために止む無くあんな“モノ”に成り果ててしまうのではないか。
 少年の負の妄念は止まることを知らなかった。普通人なら想像が飛躍し過ぎだと嘲笑うだろうが、今の少年の精神状態を鑑みれば無理も無いことであった。魔城に幽閉されていたはずの美しい姫君が、その城主よりも遥かに不気味な妖魔へと変わり果てるなど、どこの誰に想定できようか。また、そんな現実に誰が正気を保てようか。
 死んだ方がいい。少年は確信した。人間など死んでしまった方がいい。悪魔に守られるくらいなら、この命など惜しくは無い。残念ながら少年には、全ての人類を安楽死させるほどの力はない。ならばせめて自分だけでも、この穢れた法理に支配された世界から潔く退場しよう。幸いにも少年の懐には、もしもの時のために鋭利なナイフが仕込んであった。先ほど施設の前まで踏み込んだ時は抜くことが無かったが、こんな形で役に立つとは思わなかった。
 できることなら他のみんなも、この下劣な守護者達に守られた世界から開放してやりたかった。父も母も、薫の両親も、近所の友達も、みんなこの狂った世界を抜け出して死後という名の安らぎへと誘ってやりたいのだ。だがそこまでは望めない。彼らは自分1人だけ救われようとした少年を許さないかもしれない。だがこうして誰かが示さなければならないのだ。下種な連中による御守りなど必要ない。お前達に守られるだけの人生など要らない。それなら今すぐ自分は潔い死を選ぶと。
 決断したなら少年の行動は早かった。すぐさまナイフを逆手に握ると、その刃を己の喉元へと力任せに押し当てた。ぶちぶちと肉の筋が切れていくと共に生温かい体液が迸っていく。急速に失われていく生命の証。勢いよくぶちまけられる鮮血の激しさは、肉体という檻から解き放たれた虜囚の歓喜のようでもある。断ち切られた動脈から吹き出す真紅の乱舞は、祭りを彩る舞踏のように艶やかですらあった。
 少年の意識は奈落の底へと墜落していく。そこに待ち受けているのは至福の楽園か永遠の孤独か。ともかく彼の魂は今、虚無の腕かいなに包まれたのだった。


「おおっ――」

 猛烈な法悦の叫びが薄暗闇に反響する。その声は嬌声というより咆哮に近かった。女性特有の甲高い声より数段低い、臓腑を抉られているような野太い悲鳴だ。
 声の正体は、あの白衣の集団でも一際目を引いたメガネ姿の美女だった。今の彼女は素っ裸の上に白衣だけを羽織った姿をしている。平素の知的な風貌はどこへやら、肉の昂りに悶える姿は浅ましいケダモノのそれだった。目の前の机に上半身を預け、背後の男から菊門を荒々しく貫かれている。胸にぶら下がる脂肪の塊は卑猥な形に潰れ、生命力の豊かさを象徴するような大ぶりの尻が、荒ぶる牡の一物を貪欲に呑みこんでいた。
 美女は前より後ろの穴を征服されるのを好んだ。万民が必死に覆い隠し、しかしどんなに取り繕ったところで消えることのない不浄の穴。進化の必然で生まれたにもかかわらず、なぜかそれそのものが恥の象徴と化している汚らしい器官。それを牡の滾る欲望によって蹂躙された時、彼女は得も言われぬ悦びが身体の芯を燃やすのを感じてしまう。
 原初の女イヴは知恵の獲得によって恥じらいを自覚したという。恥とはすなわち罪の意識。知性の権化を自負する白衣の美女は、自ら罪を犯すことに至上の快楽を覚えていた。つまりは背徳の悦びである。罪があるから、それを犯す悦びが生まれる。恥じらいがあるから、その屈辱を歓喜に昇華できる。この美女が好き好んで知恵を溜め込み、理知的に振る舞うのも、粗野な暴漢に力尽くで蹂躙され、自ら淫靡に堕落していく被虐の愉悦を欲するからに他ならないのだ。

「もっと……もっと虐めてください」

 美女の相手をしているのは、白衣の集団を束ねるあの年輩の男だった。能面のような無表情を崩さぬというのに、その激しい攻めぶりはどうしたことか。熱した鉄棒の如き肉塊が美女の尻を穿ち、荒々しく抉り抜いている様は、狂気の槍兵が敵の身体に何度も得物を刺突しているようにも見える。実際美女の方はといえば、身体の最奥に眠る快楽の源泉を掘り起こされ、怒涛の勢いで絶頂を貪っていた。狂ったように喘ぐ姿は、気でも違ったのかと疑われても仕方のない乱れぶりである。しかし彼女の悦楽を引き出しているのは、自身の被虐趣味だけでなく、また男の性技だけでもなかった。

「ああ……なんという雄々しさ……なんという逞しさ……」

 美女が見詰めているのは、壁一面を埋め尽くす大スクリーンに映し出された、ネフィリムの過去の戦闘映像だった。全身が刻一刻と溶け崩れていく人類の最終兵器と、それを打ちのめすべく地球外から降臨した翠玉の神。
 彼らを含め極一握りの人物しか知り得ぬ事実だが、ネフィリムは正確には地球圏防衛のために建造された兵器ではなく、他の惑星に攻撃を行うべく開発された一種の魔導兵器であった。科学と魔術、最古と最新の知恵を総動員して生み出された人工神は、防衛でなく侵略のための兵器だったのだ。そして現在、ネフィリムが連日のように戦っている翠玉の巨人こそ、全宇宙の平和と秩序を守護する善なる神――“星の戦士”であった。オリオン座の方角に存在すると言われる“輝ける王国”から地球へと飛来した彼らは、人類を害意ある邪悪で危険な生物と断定、これを滅ぼすべく攻撃を仕掛けてきた。これこそが、ネフィリムを所持する人類と、翠玉の巨人たる“星の戦士”との闘争の真実なのだ。
 その戦闘の記録が、まるで映画のように大画面へ映し出されているのを眺めながら、美女は自分達の救世主たる醜悪な巨人に欲情していた。巨人の腕が敵を引き裂き、巨人の足が敵を踏み潰すたびに、名状し難い法悦の波動が美女の全身に伝播していく。濃艶な唇の間からだらしなく舌を突き出している様は、眼前に映し出された巨人の映像を魔羅か何かと勘違いしているのではないかと疑わせるだろう。

「君もなかなかに好き者だな」

 男の言葉を理解しているのかいないのか、美女は狂おしい叫びで答えながら自ら尻を振り乱していた。周りに汗が飛び散るほど激しい暴れぶりには、狂乱の二文字が相応しいだろう。忘我の境地に達した脳髄は、天地の別すら認識できているのか疑わしいものだ。

「ああっ……もっと貶めてください」

 女体の奥深くに埋没した一物から灼熱の汚液を注がれるのと、映像の中のネフィリムが必殺の熱線兵器を放つのはほぼ同時だった。万物を焼き滅ぼす劫火の迸りは、美女の脳内では腎水の奔騰に置き換えられていた。淫らな妄想に囚われた女は、断末魔のような悲鳴と共に今日何度目になるかわからぬ絶頂を迎える。すると、すっかり開き切った裏門から男自身を引き抜かれ、そのまま床に投げ出されてしまった。大きな尻が冷たい床にボテッと落ちる。ひくひくと不気味に蠢く汚らしい穴から、まるで下痢を垂れ流すかのように、牡の欲望が凝集した粘っこい体液が滴り落ちていく。
 美女はしばらく痙攣したままその場を動けないでいた。失神しているのである。半ば白目を剥いたまま涎を垂れ流し、脱力した影響なのか放屁の音まで遠慮なく響かせていた。ガスが外へ漏れ出るたびに汚らわしい液体が泡立っている。その惨めに過ぎる姿も、女にとっては愉楽を堪能するための必然なのだった。
 やがて女が意識を取り戻すと、今度はどういう風の吹き回しか、まるで幼子のように泣き喚きながら年輩の男に抱き着いたではないか。

「ねえパパ、愛美えみはいけない子なの! とっても悪い子なの! だからぶって! 思いっ切りぶって、私を叱って!」

 愛美というのは、どうやらこの美女の名前であるらしい。愛美と年輩の男が本当に親子か否かは定かでないが、彼女が急に幼児退行してしまったのは紛れもない事実だ。快感を貪るあまり気でも狂ってしまったのだろうか。

「君は何も悪くない。我々は正しいことをしているのだ。罪悪感を抱く必要がどこにあるというのだね?」

 パパと言われた年輩の男も、彼女の調子に合わせて幼い娘に対するような口調で話した。どうやら今回のような現象は一度や二度ではないのか、彼も慣れたように愛美をあやしつけている。彼女の言う悪いこととは一体何なのか。この施設が行っている蛮行を熟知している者なら嫌と言うほど心当たりがあるだろうが、愛美はそれを割り切っていたのではないのか。あるいは先ほど繰り広げていたおぞましいまでの性に対する耽溺ぶりは、その罪の意識を忘れるため、もしくはそれを快楽へと昇華することにより克服してしまおうという、彼女の心が無意識のうちに作り出した防衛措置のようなものだったのではあるまいか。

「そうだ。我々には何の非も無い。あるはずがない」

 男の声は愛美をあやすためだけでなく、どこか自分自身に言い聞かせているようにも窺えた。

「そうでなくては、何のために我ら人類はあんなモノと契約を結んだのだ……」


 この光景を初見した者は、この世に地獄の釜というものが実在することを思い知らされるだろう。灼熱の溶鉱炉を彷彿とさせる巨大な釜には、何百人もの人間が生きたまま投入され、グツグツと煮え滾るスープとなって渦を巻いている。
 驚くべきことに、ほとんど液体に近い状態になってもなお彼らは生きていた。生きることを強要させられていた。この巨大な釜とその中身を熱する熱源には、科学とは起源を異にするもう一つの叡智の集積――魔術が使用されているのだ。ドロドロに蕩けて一つに溶け合った不定形の人々は、もはや人間としての形態を喪失しつつも死を許されず、その魂魄までも焼き尽くさんばかりの業炎によってもがき苦しんでいた。想像を絶する重苦が絶え間なく続く焦熱地獄。凄まじい業苦へと向けられた叫喚と怨嗟が、溶け合った人肉と同様にどす黒い混沌を形成している。
 冥府から現世に召喚させられたとしか思えぬこの地獄の釜は、何もその実行者の加虐趣味を満足させるために姿を現したのではない。何を隠そうこの生きた人肉の寄せ集めこそ、人類の最終決戦兵器ネフィリムの根幹を成す構成素材そのものなのだから。

「うへえ……いつ見てもえげつねえな」

 作業服を着た男の一人が、釜の中身を眺めつつ揶揄するように呟いた。この施設に勤務し始めた当初は彼もこの惨憺たる有様に吐き気を催したものだが、今となってはすっかり見慣れた日常の一部でしかない。男が手元のパネルを操作すると、天上の一部が滑り台状に下降し、その上から袋に包まれた何かが数十個ほど釜の中に落ちていった。

「とは言っても、あいつらは光栄だよ。なにせこの星を守る正義の超兵器と、文字通り一心同体になれるんだから」

 袋の中身は、地下世界の各地から誘拐されてきた人々だった。ネフィリムの全身を構成しているのは生きた人間が溶け合った人肉の集合体だが、それを可能にしている魔術は、断片的な魔導書の切れ端から再現された酷く不安定で未完成な代物である。ゆえに人肉の全てを完璧には結合しきれておらず、培養槽の外では巨体の構成を維持できずに時間の経過と共に腐り落ちてしまう。欠損部を補うある程度の再生能力は有しているが、肉体が腐り落ちて人間が分離していくたびにその能力は減少してしまう。現状では、戦闘を行う度に数百人分の補充を行わねばならない。その人肉補充作業に従事しているのが、先ほどから独り言を呟いている作業服姿の男であった。
 平時の大衆ならこれを例外なく謗るだろう。およそ人倫というものが見受けられない、あまりに冒涜的かつ残虐非道な行いであると。だがこれは人類と“星の戦士”との、互いの生存権を掛けた星間戦争なのだ。相手を根絶やしにすると誓った闘争を前にしては、あらゆる無慈悲が正当化されるのは必然である。敗北したらそれで何もかもがお終い、御破算だからだ。ゆえにいかなる非難もこの行いの前には効力を持たない。人類の存亡が掛かっているのだから。

「そうだ、俺達は正しい。俺達は正義の味方だ」

 この作業服の男も、己が正義の側にいることを妄信して疑わなかった。だってしょうがないじゃないか。こうでもしなければみんな死んでしまうんだもの。
 そうして再び男が手元のパネルを操作すると、今度は釜の中身が底の方からどこか別の場所へと抜き取られていった。この部屋からは直接確認できないが、釜の底に開いた穴は階下のネフィリム調整室の機材に繋がっており、そこから専用のチューブを通じて、ネフィリムの巨体へと生きた人肉が供給される仕組みとなっている。それら全てを周知してなお、男は眉1つ動かさずに己の業務に従事している。彼は相も変わらぬ地獄の日常を過ごす、至って生真面目な鬼の一人であった。


 人類にネフィリムの名で呼ばれる邪神は、眼下で泣き叫ぶ一人の少女を注視していた。少女は周りの屈強な大人たちによって、大きな卵の形をした銀色の物体へと力尽くで押し込まれようとしている。どうやら彼女は、その結果自分がどんな末路を辿るか熟知しているようだ。飢餓状態の肉食獣を目前にしたような、狂瀾怒濤の恐慌ぶりである。
 このように、培養槽の強化ガラス越しに見る外の世界では、蛆虫のようにちっぽけで俗悪な生き物達が常に厭らしくも徘徊していた。そんな下劣な下等生物どもが、邪神には愛おしくて仕方がなかった。なんと憐れで惨めな、可愛らしい種族なのだろうか。自分達が嘲りの対象にされているとも知らずに、馬鹿みたいに必死に生き足掻いている様は、邪神の加虐趣味を大いに満足させた。彼らの無様な姿を眺められるならば、今しばらく権能の一端を分け与え続けるのもやぶさかではない。
 邪神は本来、この三次元宇宙に収まる程度の矮小な神格ではなかった。彼の本体は、物質宇宙を超越した遥か高次元で、永遠の微睡に揺れる闇黒の魔王である。沸騰する混沌の玉座に鎮座すること幾星霜、超宇宙的な膨張と収縮を繰り返すだけの日々は退屈に過ぎた。無聊の慰めといえば、呪わしい魔笛を単調に吹き鳴らし、下劣でくぐもった太鼓の連打を続けるしか能のない無定形の演奏者達のみである。邪神が小生物達の召喚に応え、その分魂を彼らの用意した神体へ乗り移らせたのも、全ては飢えと渇きを紛らわすための気紛れに過ぎない。召喚の余波によってこの惑星の地表は醜悪な肉腫に覆われてしまったが、身に余る神威の助けを乞うならばこの程度の代償など受け入れて当然と言えよう。乗り移った身体は酷く不完全であり、邪神の神威を兆分の一も発揮できぬ出来損ないだったが、総身に渦巻く犠牲者達の怨嗟は存外に心地良い。その凄まじい怨念と瘴気にあてられたことで醜く変形していく少女の悲嘆も、邪神の王に対する供物としては申し分なかった。
 邪神はその神通力により、己の視界から遠く離れた場所での出来事を知覚することが出来た。ある場所では、残酷な世界を呪う少年が悲痛と絶望だけを抱いて自ら命を断った。またある場所では、罪の意識に押し潰されそうな心を紛らわすため、汚らわしい肉欲の悦びに身を浸す浅ましい牝獣がいた。

――嗚呼、なんと可愛らしい者共か。

 邪神は下等生物達が繰り広げる悲劇と惨劇が、己の愉悦を大いに満足させることを自覚していた。この名状し難い楽しみを味わえるなら、卑小な蛆虫にも力を貸す気になるというもの。ネフィリムと呼ばれる邪神の神体が常に笑みを浮かべているのは、その本体が人類に向ける冷笑を意味しているのだろうか。

――生き足掻けよ人類、我が愛しき奉仕種族よ。

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