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小峰ひずみの反批判(?)についての覚え書

 小峰ひずみを批判したわたしの論考に、小峰その人から反批判(?)があった。
 まず小峰に謝っておきたいのは、そのわたしの論考のタイトルが「小峰ひずみ論――「大阪(弁)の逆襲 お笑いとポピュリズム」に寄せて」なのだが、対象として論じたテクストのタイトルを書き間違えていた。正しくは「大阪(弁)の反逆」である。これはほんとうに失礼な話で、あってはならないことである。申し訳ないと思う。ごめんなさい。
 小峰の反批判だが、濁り切った精神の独り合点としか言いようのない自説の開陳――無内容と論理的混乱――の連続で、わたしの問いかけの核心にはまったく接近していない。たまにわたしの論考から引用すると、誤読や引用の間違いを重ねる。これでは批判や反批判という、テクストを通じた対話が成立するはずもない。が、それでもかまわない。大声で触れ回るつもりはないが、わたしは自分が書いた「小峰ひずみ論」に自信を持っている。言うべきことは言い尽くした。それを読んでくれれば、小峰がなにに答えなかったか、なにを避けて通っているかは明瞭であり――〝相違点〟などという口当たりのよいものではない――その答えなかったということ自体、小峰の意に反して、ひとつの確たる答えを形成していることが理解されるだろう。
 今は、再びまとまった文章を書く物理的余裕がないので、小峰の反論(?)を読みながらメモしたことを、そのまま提示する。メモは、[]で括って太字にした。それ以外が小峰の文章である。メモなので、どうしてもムラがあるが、こんなものにも多少の意味はあるだろう。わたしは頭から終わりまで、支離滅裂な箇所も必死に文意を掴もうとしつつ、小峰の文章を読んだ。そのことの証明にはなるだろう、という意味である。小峰よ、君はどうだ。ほんとうに読んだのか?


0 批評Follows運動

 批評と運動。そのような言い方があります。政治と文学、あるいは、理論と実践と言い換えてもいいでしょう。しかし、現状は、批評F運動、になっている。批評と運動、政治と文学、理論と実践の「と」に込められた緊張感がなくなり、批評は運動に追随し、文学は政治に追随し、理論は実践に追随する。批評 Follows 運動。批評が運動をほぼ無条件に肯定する。それは運動のあり方を考えることの放棄であるように、私には見えました。ゆえに、私は拙著『平成転向論 SEALDs 鷲田清一 谷川雁』で、SEALDsを礼賛する小熊英二・内田樹・高橋源一郎のような知識人を批判したのです。批評F運動の「F」こそが問題だ。今回はその矛先を他の人に向けなければならない。
 前提からお話ししたいと思います。批評家の川口好美さんから「小峰ひずみ論――「大阪(弁)の逆襲 お笑いとポピュリズム」に寄せて」(https://note.com/tenden_co/n/n7b5929312f62)という批判をいただきました。この論文は、現在発売中の、群像三月号に掲載された拙論「大阪(弁)の反逆 お笑いとポピュリズム」と、一年ほど前に文学+に掲載した書評「東京の反逆 矢野利裕『今日よりもマシな明日』への評」を批判したものです。ひとまず、川口さんには私のような新人を主題とした文章を書いていただいたことにお礼を申し上げたい。ありがとうございます。
 しかし、私は川口さんの立論をそのまま受け入れることができません。川口さんもそれを望んではいないでしょう[否、望んでいる]。特に川口さんは「東京の反逆」における私の文体(すべて大阪弁で書かれています)と、「大阪(弁)の反逆」における杉田さんへの批判に、軽蔑の念を抱いているように思います[自分が小峰の文章のどんなところにどのような関心を「抱いている」かについて、わたしはわたしの文章のなかで明確に書いたはずだ。わたしが「特に」「東京の反逆」の「文体」と、「「大阪(弁)の反逆」における杉田さんへの批判」に「軽蔑の念」を抱いている? のっけからまったく的はずれだが、そう思うのは小峰の自由だ。ならば、その根拠を引用によって明示せよ。前者について――わたしはあなたが何弁を採用しようがべつにかまわない。わたしがわたしの文章で実際に指摘したこと、それは、まずはあなたの文章の中身――「無内容」、「ナンセンス」とすらいえない「空虚」についてである。そしてその上で、以下のようなことに関心を抱いたのだ。「矢野によれば、小峰が書評で用いた〈饒舌な口語体にともなう大げさな物言いの数々〉=〈二流の批評芸〉としての「文体」は、自身の《芸能》論が重視する〈「真剣」「必死」「一生懸命」な態度〉の中から生まれいづる〈非‐意志的なポイントに生じる《おかしさ》〉の対極にあるものであり、端的にそれは〈スベっている〉と判断される。わたしも同意する。しかし他方で、冒頭から述べてきたように、少なくともわたしは、小峰の一見意志的な「文体」の底に、統御不能な、痙攣的な蠢きのようなものを感覚した。無意味以前的に無意味な小峰のおちょくりにおいて、執拗に切実に存在を認知されたがっているなにかがある。わたしにはそんな感覚があった。さらに言えば、それは矢野が強調する〈非‐意志〉とまったく同じではないとしても、それと兄弟姉妹の顔貌のように不気味な類似的関係にあるのではないか。ならばその先で重要になるのは、矢野が肯定的に描く〈非‐意志的なポイントに生じる《おかしさ》〉、その〈《おかしさ》〉の位置に小峰の場合いかなる情動が代入されるか、ということかもしれない」。また、後者、川口が、小峰の杉田への批判を「特に」「軽蔑」している、というのはまるで意味不明である。たしかに、小峰の杉田批判についてわたしの文章は触れているが、そこに「特に」と言えるほどの紙幅も熱量も割かれていないこと、そこにポイントがないことは、一読すれば瞭然としている。わたしが言ったのは、赤井浩太や杉田俊介を巻き込んで為された、性差別の問題にかかわる小峰の〝文体〟論的自己批判がいかに空虚で、悪質なものであるか、である。小峰はこのように早速、他人の文章を矮小化している。小峰よ、「批評と運動」の「と」の緊張感の欠如をあげつらう前に、真面目な読者「と」の最低限の緊張感くらいは持って書き始めてくれ]。そこで私と川口さんとの相違点を確認すべく、反批判を書こうと思った次第です。ただし、それは川口さんだけを批判して済むようなものにはならないでしょう。私は矢野さんを「東京の反逆」で批判し、杉田俊介さんを「大阪(弁)の反逆」で批判しました。川口さんはその二つの批判を無効化し、退けようとしている[右に述べたように、これは誤りである。こう矮小化し論点をまったくの別物にすることで、小峰は川口の批判を無効化し、退けようとしている]。ゆえに、今回の反批判は、川口さんへの反論を行うが、それは矢野さんへの再批判、そして、杉田さんへの再批判を含むことになります。
 批判という言葉が乱立していて、なんとも不穏です。しかし、この状況は、そもそも「批判」とは何かと問うキッカケにもなりましょう。
 では、さっそく始めていきましょう。

Ⅰ 生活と芸能の肯定は何を意味するか 矢野利裕氏への批判 

 私は「東京の反逆」で矢野さんを一風変わったやり方で批判しました。内容だけではなく文体でも批判したのです。つまり、大阪弁で矢野さんの『今日よりもマシな明日』を論じた。このやり方に怒りを表明したのが川口さんでした[同前。小峰文の無内容以前的な空虚さを指摘し、その空虚を表現する文体の底にわたしが感覚したものついて予感的に触れたが、それについて「怒りを表明」していない。おちょくるのもおちょくらないのも人の勝手だが、おちょくられた(と感じた)当人から疑問や異議の声が寄せられた場合、ものかきとして真摯に応じるべきでは、というわたしの疑問はわざわざ「怒り」と呼ぶほど珍しくも高級でもないありきたりな気持だろう。そういう関心を持ちつつ小峰の論考「大阪(弁)の反逆」を読んだ、ということである]。小峰は矢野をおちょくっている、と。ただもし私が「なにをおちょくればよいのかわからないがなにかをおちょくっている自分を「アピール」したい」(川口)という動機に基づいて矢野さんを評したのであれば、私は矢野さん以外の方にも同じふるまいを行うでしょう。しかし、私はそのようなふるまいを、その後ほとんど行っていません(「人民武装論 RHYMESTERを中心に」で赤井さんを「ジャムおじさん左派」と罵倒したときくらいです)[トンチンカンな弁明。以後、他の者にたいして「同じふるまい」を「ほとんど行って」いないという事実が、かつてのある時点で矢野をある「動機に基づいて」評しなかったということの証明に使えるとほんとうに信じているのか。「アピール」は、小峰自身が「大阪(弁)の反逆」で使用した語彙である(『群像』p.168上段)。わたしは、「小峰ひずみ論」の末尾で、その語彙が含まれる箇所を小峰文から引用した直後に、全体の結論として次のように書いた。「小峰にとって、やはり応答は問題にはならない。もはや「文体」も、矢野にたいして欠落を指摘した歴史や時代精神も問題ではない。「開き直る」自己の存在を、「他の人間に異なる享楽」を味わうことのできる「前衛」「活動家」として「自他に認めさせる」こと、とりわけ「普通の人々」に認めさせること、それだけが問題なのだ。だが小峰はいったいどんな自分に開き直るつもりなのだろう。具体的にはわからないが「普通」から脱落したなにかに、である。わたしはここに、矢野にたいする書評と通底する物悲しい音調を聴き取る。なにをおちょくればよいのわからないがなにかをおちょくっている自分を「アピール」したい、なにに開き直ればよいのかわからないがなにかに開き直っている自分を認めてほしい。一見誠実そうな右の引用文は矢野への不誠実な書評の正確なネガである。もしも、そのなにかを真面目に探そうというのであれば、たぶんそれはアジテーションの中でもスローガンの中でもなく、対話の中に、問いがたい者へ向けて問いかける行為の中に、応答しがたい者にたいして応答する行為の中に探られねばならないだろう。たぶんその探求の過程で、あなたはあなたの奇妙な(非)暴力感覚を暴力的に取り上げ解きほぐさなければならないだろう。そのとき、あなたは歴史について、時代精神について、文体について、ようやく真剣に思考しはじめるだろう」。わたしは小峰の論考を細部にわたってあたうかぎり正確、誠実に熟読した結果として、全重量をかけてこの結論を書いた。小峰はそれをどのように受け止めたのか(受け止めなかったのか)。目を凝らして読んだか(目を逸らしたか)。つづきを読もう]
 では、なぜ他ならぬ矢野さんにこのような文体をぶつけたか。『今日よりもマシな明日』を一読し「矢野さんは状況を見誤っている」と思ったからです。矢野さんは文学を「芸能」として読む立場を押し出していました。「《芸能》の舞台で求められるような、自分ならざる者を精一杯に生きる振る舞い」、「本書はそのような《芸能》の振る舞いを論じた文芸批評集である」(二五頁)。文学を芸能として読む。これが『今日よりもマシな明日』での矢野さんの基本的な方針でした。
 このような立場に基づく矢野さんの立論が町田康や西加奈子など大阪弁で書いている作家に依拠していることは偶然ではないと思います。八〇年代の漫才ブームで大阪弁は「お笑い芸人の言葉」として受容され、芸能色の強い言語になりました。いまや「お笑い芸人の言葉」に収まらず、主要方言として存在感を増しつつある。しかし、『今日よりもマシな明日』では、その大阪弁がカギカッコに入れられて標準語で論じられている。これは見誤っている。この四十年間ほどで言語間の力関係が変わりつつある現状を矢野さんはわかっていない。もはや私のような標準語で何かを論じる人間――矢野さんに倣って「知識人」と言っておきましょう――が、「生活者」による大阪弁によって享楽的に語られることがよいとされている現状がわかっていない。「《知識人》の議論についていくよりも、生活者であることを優先する」(二四頁)と現状を追認している。とはいえ、それは直観でしかありませんでした。なので、自分が矢野さんの論を読んで抱えた違和感を表明するために、大阪弁で『今日よりもマシな明日』を語ったのです。
 川口さんによれば、私は矢野さんをからかい、そのからかいは矢野さんが「もうお手上げという気持ち」と述べたことで成功した、らしい。たしかに私は矢野さんをからかったのかもしれない。その矢野さんに「考えすぎだよ」とは申しません。暴力を「あれは遊びだったのだ。ぜんぜん悪意などはなかったのだ」と言い繕うのは加害者のやり口であることは私も知っています。しかし、私は矢野さんに謝ろうとも思わないし、この書評を撤回しようとも思いません。自分の違和感が間違っているとは思えないからです[矢野の状況認識に小峰が違和感を持ち、それについて文章のかたちで発表できたことは素晴らしいことである。とはいえ、「からかい」を「享楽」することは危ういが、「だが、それでもなお、享楽を手放さないこと」が大切だと吉本隆明を援用しつつ述べ、最終的に「からかい」にたいして「開き直る」ことに「「「前衛」的コミュニケーション」の基盤にあるべき快楽」を見出した者(=小峰)が、他人から自分自身について「からかい」を指摘された場合にどのように反応するか、そこにどんな内省がありうるか(ありえないか)ということに、わたしは一読者として興味を持つし、小峰自身筆者としての興味を持たないないわけがないだろう。「からかい」への「開き直り」は、「からか」う側=「開き直」られる側の反応や変化、葛藤や抵抗も含めて「コミュニケーション」であるはずだから。もしも小峰が――矢野の反応、あれは「開き直り」ではない(もちろんわたしはそうは感じないが)、だから矢野にたいする右のごとき自分の反応は考究対象にならない、などと「開き直」って言うとすれば話はややこしくなるが]
 矢野さんは知識人であるよりも生活者であることを優先しました。ただ、「生活者」であることを是とするという考え方そのものが、維新の会をはじめとした構造改革派ポピュリズムのやり口であることは「大阪(弁)の反逆」で論証した通りです。とはいえ、知識人の権威が失墜した現代において、いまさら「生活者」に対して知識人を対置することはできない。だから、私は「大阪(弁)の反逆」で「活動家」という人間のあり方を是としました。活動家になることとは、後ろ指さされる存在になりにいくことです。この概念をつくる際に参考したのは、実は矢野さんの西加奈子論です。矢野さんは何か夢中になっている状態を「ボケ」として肯定しました。
「周囲を気にしない、理性的でもない、ただただ身体のいとなみとして見出される「夢中」、そのような振る舞いこそ、他人から《おかしさ》を抱えた「ボケ」として発見されるのだ」(一六九頁)
 これは逆に言えば、ボケは誰かから後ろ指さされるということでもあります。矢野さんによれば、小説はある登場人物を指し示す点で差別構造と共犯関係にあります。「西作品は、周囲から指を差されるような人物を中心に置いているという点で、差別構造を見すえている」(一七〇頁)と、矢野さんは西を評価するのです。その上で、矢野さんは西が描く登場人物を「ボケ」として力強く肯定します。私は矢野さんの立論を念頭に置きつつ、しかし、「生活者」のレベルにとどまる矢野さんの立論を退け、「活動家」という人間のあり方を批評のレベルで肯定しようと思いました。社会運動をするとどうしても人から指を差される。最近はAIにさえからかわれる。「こんなサンタは嫌だ」という大喜利の題にAIが「思想まで赤い」と答えたそうです。だから、先の引用部分には大いに励まされました。ボケてるかどうかはわからないけれども、ボケにいく主体。後ろ指をさされに行く主体。そういう存在があってもいいではないか、と。ただ、その感動を記した部分を川口さんは批判しています。「」内が小峰の言葉で、〈〉内が矢野さんの言葉です[つぎに小峰が引用するのは、矢野が自身のブログに記した言葉を「小峰への当惑と疑問」として、読者に理解しやすいようわたしが再構成したものであり、したがって、より正確には川口から小峰への批判である前に、矢野から小峰への批判である]
「「矢野はここではじめて西ちゅー存在、ほんで、西を読む矢野ちゅー存在を「時代精神」として刻み込んどる」のごとき〈大げさな評価の言葉〉は〈どこまで信じて良い〉のか。それが、「これは知や、間違いない知や、東京ヨ永遠ナレ! めでたい、めでたいで、平和が一歩近づいたで。酒出せ酒出せ」のような一文に続くのを読むと〈ちょっとバカにしている感じも出てくる〉ではないか。」
 私としては、私の言葉はそのまま信じてくださってけっこうだったのです。なるほど嫌味も言いました。矢野さんは「なかよし」の杉田さんに比べて文体が弱い、と。しかし、標準語で抑制的に論じられる、というよりは、方言で享楽的に語られる、とは「近傍にいる」ではなく、「なかよし」と表現されることです[この一文意味不明。なにが、誰によって「語られる」の? 矢野について標準語で抑制的にではなく方言で享楽的に語ったがゆえに、自分は「近傍にいる」ではなく「なかよし」と「表現」したのだ、ということ?]。たしかに、からかいのスタイルです[!]。ただ、そのスタイルは、矢野さんが町田康論で肯定した、芸人的な「語り」が内包しているものです[!! どの口が「私としては、私の言葉はそのまま信じてくださってけっこうだったのです」などと言ったのか。だれがこんな非論理的な書き手を信じられるものか]。「饒舌な語りは、語り手自身に次の行動を要求する。そして、その要求に応えた語り手は、その立場からまた次の言葉を発する」(三二頁)ことを肯定し、「自らの内面を空っぽにして、言葉に引き摺られるように、言葉を駆動させる運動体」(三四頁)を肯定した。[自分もまた矢野のテクストが「肯定」する「運動体」だと言いたいのだろうか。こういう切り取りと悪用はほんとうに愚かしいことだ]
 これは渡辺健一郎の『自由が上演される』に示唆されたことですが、誰か傷つけても遊びとして回収され、その暴力が匿名性を帯び、しかも主体が存在しないゆえに誰かが止めることも難しいからかいは、まさに責任主体を持たない点で、町田の語りと通じ合っています。そのスタイルを肯定したのは、矢野さんの立論です。矢野さんが是認した芸能の力を反転させると、それはからかいやいじりにつながる[利口ぶっているが、悪質。それは自動的に「反転」するのではない。誰かが、なんらかの意図をもって「反転」させるのだ。たとえば今まさに小峰がやってみせているように。この「反転」は明確な「責任主体」を持つ]。実際、世の中のからかいやいじりは、芸人たちが繰り広げるホモソーシャルなトークをモデルとして行われています。もちろん、矢野さんが私を批判した言葉を拝借すれば、世の中のからかいは芸人をまねた「二流」の「芸」として行われます。そのことを学校教員である矢野さんは知らないはずがありません。
 私は、「東京の反逆」で大阪弁を全面的に打ち出し、「現代の社会を生きるということは、自分ならざるキャラに憑依され続け、《芸人》のような存在として生きることなのかもしれない」という矢野さんの立論のベクトルを徹底的に引き延ばしたのです[否。「反転」させたのである]。矢野さんの立論の延長線上にある文体のために[「延長線上」にはない。その「文体」は意図的な「反転」の結果だ]、「あなたの人間性も損なわれたし、それを読む他人たちも同様に損なわれた」(川口)ならば、それは私の戦略が成功したことを意味している。矢野さんは芸人というあり方を是認することで、人間性を損なうからかいをもたらす「二流」の「芸」をも是認しました[小峰が勝手にしたのである]。「東京の反逆」において芸人的な文体で矢野さんを語ったことで、矢野さんの人間性が損なわれたなら、それは私の「二流」の戦略が成功したことを意味しています。むろん、川口さんや矢野さんのマジな反応を自らのふところで転がすのはからかいのスタイル、暴力を遊びだと言い張る抑圧者のスタイルです。[一応注意しておけば、右で小峰が「(川口)」としているわたしの文章における「あなた」とは小峰のことである。書評を書いたことで――悪意ある「反転」によって――小峰の人間性こそが損なわれたと、わたしは言ったのである。だがどうも小峰は、「あなた」が矢野を指していると読み間違えているらしい。そうして、「芸人的な文体で矢野さんを語ったことで、矢野さんの人間性が損なわれたなら、それは私の「二流」の戦略が成功したことを意味しています」というひどく幼稚な記述から察するに、わたしの不安は的外れではなかった]
 矢野さんが打ち出した二つのスタンス、「生活者」に居直ること。「芸能」の力を是認すること。これらの延長線上に「東京の反逆」の文体があります。このようなふるまいに対抗するために、「大阪(弁)の反逆」では二つのスタンスを打ち出しました。活動家になること。からかいを無力化する政治技術=アジテーションを考えること。これらを肯定しなければ、矢野さんが是認した「芸人」という存在のあり方を批判することはできないと考えたからです。芸人に対する活動家。これが私の矢野批判の要諦であり、矢野さんへの応答です。[意味不明。矢野は「「芸能」の力を是認」したかもしれないが小峰の「文体」も「ふるまい」も「是認」していない。むしろ、当然のように批判している。「東京の反逆」における「文体」も「ふるまい」も明らかに小峰固有のものだが、書いた後からそれに「対抗」する必要を感じ、あらためて「大阪(弁)の反逆」で「東京の反逆」で自分が案出したスタイルへの自己批判を書いた、ということなのか。「矢野批判」=自己批判というつもりか。小峰は、「矢野さんが是認した「芸人」という存在」である自らの「あり方を批判する」ために、「活動家」になって、「からかいを無力化する政治技術=アジテーション」を考案するのだというのか。そんな奇妙な批判の回路がこの世界のどこかに存在してもかまわないが、それを「矢野さんへの応答です」と言ってしまえる感覚は、さすがにどうかしてると思う。なんにせよ、矢野からすればいい面の皮である]

Ⅱ 技術論の不在は何を意味するか 杉田俊介氏への批判 

 私は川口さんと杉田さんにお会いしたことがあります。去年、杉田さんが『男がつらい! 資本主義社会の弱者男性論』を出版されたとき、大阪でイベントをすることになった。そこで川口さんが「対談相手は関西在住の小峰さんがいいのではないか」と杉田さんに提案してくださった。そして、お二人ともわざわざ大阪に来てくださったのです。私の友人ともたくさん会ってくださいました。まずは、改めてそのことのお礼を言います。
 そのうえで、私が対談で投げかけた杉田批判を採録することにします。私はこう言いました。
「『男がつらい!』には技術論がない」、と。
『男がつらい!』では、弱者男性はどう生きていけばいいのかというある種の人生の方針を掲げている。弱者男性は女性や障がい者や外国人といったニセの敵を攻撃するのではなく、「本当の構造的な「敵対性」を探して戦い続ける意志を持つことだ(インセルレフトの道)。しかし、もしもそれすら叶わないならば、この完全に無駄な、つまらない人生をひたすら忍耐し続けることである」、と。これは私たちを強く勇気づける言葉です。ただ、その上で、疑問があった。では、その「敵」と戦うための技術はどのようなものなのか。杉田さんはアジる。煽動する。それはいいのだけれども、実際に何かと戦うとなると、その主体の技術が問われる。その敵の前でどうふるまうのか。それを不問にしたままでは、それは単なるアジテーションに終わってしまう。だから、「『男がつらい!』には、技術論がない」と申し上げました。
 それに対する杉田さんの返答は「考えてこなかった」でした。そのときは、そんなもんかと思っただけでした。私も技術論の重要性に思い至っていなかった。ただ、その後、多くの活動家や演劇人と接していくうちに、やはり技術を問わなければならないと感じるようになりました。「小峰はデモや街宣におけるアジテーションについては考えているけれど、身体の動かし方はどう考えるのか」と問われることも多いのです。文体ばかり気にして、身体を気にしていないのではないか、と。実際、先日のデモでは警官が「危ないから早く行け、早く行け」とデモ隊のスピードを規制してきた。威圧的な警官に身体のレベルで反発できるか――御堂筋の交差点のど真ん中で牛歩戦術がとれるか――が問題になってきます。一見無駄なようですが、こうやって権力を前にして委縮しないための技術が蓄積されていく。最近、知ったことです。
 もし運動の現場に立つならば、私たちは技術を問わなければならない。つまり、自分の身体をどのように動かすかに意識を向けなければなりません。「敵」を前にすれば、そこでどのようにふるまうかが必ず問われるからです。もし杉田さんが技術論を「考えてこなかった」ならば、嫌なことを言いますが、それは運動について考える気がない、ということでしょう。実際、『現代思想』のロスジェネ特集で杉田さんは自嘲気味に自らを「転向左翼」と言っていました。運動から撤退したのだ、と。そりゃ対談相手が雨宮処凛と生田武志という歴戦の活動家二人じゃ負い目を感じるのもわかります。しかし、いじりやからかいといったホモソーシャルなコミュニケーションを打破することも、ひとつの運動であると言っていいと思います。だからこそ、ひとつの技術として上司や友達に軽蔑されたときに「はぁ?」と口答えするという可能性を、対談の中で提示したわけです。
 この口答えという闘う上での非常に初歩的な技術にふれて、川口さんは次のように私に疑問を記しています。
「小峰は日常的な(一見些細な)〝からかい〟の場面をなによりも重要な契機と捉え、〝からかい〟への瞬間的な反抗、たとえば職場でからかってきた上司に部下が咄嗟に〝はぁ?〟と反応することが革命的モメントなのだと語っていた。わたしは当然の疑問として、では自分が悪であると判断した〝からかい〟に――たとえば自分をからかった上司――に暴力で応じること(咄嗟に、もののはずみでその上司を殴ること、殴ってしまうこと)、さらにそういう瞬間的な反抗としての暴力の集団化の可能性について考えずに、日常の口答えレベルの〝はぁ?〟に局限して革命をイメージするのは無理であり、不誠実ではないか、と質問した(たしかこの話の流れには、山上による安倍銃殺事件も関係していたと思う。小峰は山上の行為に否定的だった)。小峰が即座にその可能性を考えることを否定したこと、その性急な否定が印象に残っている。」
 小峰は「はぁ?」を革命的だと考えて、その次にある上司を殴り、その先にある暴動などの可能性を考えていないのではないか。たしかに天満橋でこのように問われたことは覚えています。あのときは正確に応じることができなかったのですが、私は「はぁ?」を技術のひとつとして考えていました。しかし、川口さんは「上司を殴る」ことや「暴力の集団化」のことを技術論として提起していなかったと思います。その証左に先ほどの引用文でも「もののはずみで」「殴ってしまうこと」の可能性を考えよ、と述べている。やっちゃう、ということですね。[なにが〝からかい〟でありなにがそうでないか、厳密に区別することは難しいが、わたしは常々、ほんとうに侮蔑的な言葉や差別的な態度、屈辱的な状況にたいする反応として、相手に〝はぁ?〟と言うことと、「やっちゃう」暴力を切り分けることは出来ないのではないか、切り分けるべきではないのではないかと疑っている。絶対に暴力は振るわないが〝はぁ?〟とは言える状態などそもそも想定してはならないのではないか、と。その想定は、権力による暴力の独占という現状の反映、それを内面化してしまっていることの反映ではないか、と。たしかにわたしはそれを「技術論として提起していなかった」。だからこそ自分でも未消化な「技術論」にかかわる問題として、「技術論」を重視する小峰に右の引用文にあるような質問したのである。「技術論」の次元で暴力について小峰がどう考えるかはよくわからなかった。この先を読んでもわからない。自分であろうが小峰であろうが、そう簡単にわかれば苦労しないのだから、そのことで自分を責めようとは思わないし、小峰を責めようとも思わない。もちろんどれだけ苦労してでもわかるべき、これは事柄であるが。これから時間をかけて考えればいい。そして「小峰ひずみ論」に記した、小峰における(非)暴力性の問題についても、今のところ結論を下すことはできない]
 私は対談で自分が反抗しなければならない瞬間に、どのようにふるまうかについて話していました。だから、私が暴力を否定したとして、どう「否定」したかが問題になる。「もののはずみ」で警官を殴ったらすぐにパクられますよ。お前パクられるのが怖くて運動などできるか、と問われればそれはそうなのかもしれない。でも、私はパクられたくはないです。それでも警官にいろいろ指図されるのも嫌です。もしパクられるのは嫌だけれども、警官の規制には反対したいぞと思うとき、技術が問題になる。戦術と言い換えられます。杉田さんだけではなく、川口さんの話のなかにもまた、技術論は不在です[わたしが訊いたのは、小峰の言う、職場のような日常的・個別的な状況における〝はぁ?〟という口答え(繰り返せばわたしはそこにおける暴力の可能性を否定すべきではない、むしろ肯定すべきだと考える)と、集団的な次元における革命はどうつながるのか、そこにどんなかたちで暴力という要素がかかわってくるのか、それについて小峰はどう考えているのか、ということである。これは真面目に取り組むべき「技術論」的な問いだろう]
 川口さんはともかく、杉田さんはもう少し批判しなければならないと思います。というのも、先ほど述べたように、杉田さんははっきりと弱者男性に対し「インセルレフト」として自らを規定し、戦闘的な主体となれと煽っているからです。
「インセル男性たちは、生の屈辱から湧き出す「敵」への憎しみを、自分と敵の分断と敵対を強いるこの「世界」(システム)への怒りに変えていくべきだ。勇気を持って戦いを決断すべきだ。憎むのではなく、怒れ。この社会に対して怒れ。」(一四一頁)
 私の知る限り、杉田さんは弱者男性を初めて戦闘的主体として見出した論者です。「インセルレフト」というアイデンティティを構築する言説を生みだした功績は大きい。しかし、技術を「考えてこなかった」杉田さんは、「怒れ」という呼びかけだけに終始するアジテーターにとどまっています。どのように闘うのかという現場的な問題設定はなされていない。端的に言えば、杉田さんは後方で兵隊を煽る司令官なんです。
 むろん、杉田さんは自らの生を肯定するのに全力を尽くし、その姿勢は多くの人々を勇気づけられた。その功績と実力には幾度でも最敬礼を行う用意があります。多少の不満があるとはいえ、それくらいの規律はまだ失っていないつもりです。しかし、杉田さんもご存じのように、メンズリブは日常生活批判です。ゲリラ戦です。にもかかわらず、敵を前にした現場での技術が論じられていない。それはちょっとひどいんじゃないですかと私は思います。まずは司令官から現場へ。そのためにスタイルは煽動から技術論へと移行しなければなりません。
 「大阪(弁)の反逆」での杉田批判も趣旨としてはほとんど同じです。私は、すばるクリティークを受賞してデビューした赤井浩太さんのべらんめぇ調の享楽的な文体を、差別につながる可能性があると批判しました。実際、彼はヒップホップ的革命を説いた「日本語ラップfeat.平岡正明」を「紳士あるいは野蛮な諸君」という呼びかけで終わらせています。そこには「淑女」が除外されている。そして、すばるクリティークの選考委員だった杉田さんは赤井さんのこの論文について「魂をゆさぶられた」とコメントし、推しました。それに対して、私は「大阪(弁)の反逆」で次のように批判しました。
「杉田の赤井評価は、社会を変えたいと心底願う人間が、いかに差別的な享楽と距離をとることが難しいか、を雄弁に物語っている。」
この記述に対し、川口さんは次のように述べます。

「あまりに素朴な、野暮で愚かな疑問がよぎる。デモでマイノリティや女性を差別するコールを行ったり、差別する文章を書くこと。それは「文体」の問題であるよりも前に、生き方の問題なのではないか。デモのような集団的な場面や、文章を書いて発表するという公的な場面で差別が表面化するのは、個々の人間が些細な日常生活の中で差別を無数に積み上げてきたことの結果ではないか。運動の現場に立つ小峰であればわざわざ他人から指摘されるまでもないに違いない。」

 まず、これだけは言っておきたい。「素朴」「野暮」「愚かな」というエクスキューズをつけないでいただきたい。素朴な「実感」を武器にして社会運動を無効化しようとする吉本隆明や加藤典洋のその口ぶりは狡猾な罠だと看破したのが、批評の論争史ではないですか。川口さんならご存じのはずです。では、川口さんの罠はどこにあるのか。批評家としてふるまう私に、運動家としての私を対置したところです。批評に日常生活や運動を持ち込んだところです。なるほど、私は杉田さんを「運動家としてどうふるまうか」という観点がないと批判しました。ただ、それは杉田さんの文章への批判です。アジテーションに終始するその文体への批判でもある。現場というものを批評の俎上にあげなさいよ、と。[どうしようもない混乱、矛盾、破綻。奇怪な哀訴。なにが「ご存知のはずです」だ。誰からどんなふうに同情されたいつもりだ。小峰が批評家であるか、運動家であるか、そんなことはどうでもいい。じっさいに小峰がよい批評家であるか、悪い批評家であるか、よい運動家であるか、悪い運動家であるか、知らないし、どうでもいい。わたしの前には小峰ひずみという署名のあるひとかたまりの文章がある。その文章が、批判を装って、差別を「文体」の問題に矮小化している。これは悪いことである。そして――差別は「文体」の問題であるよりも前に、生き方の問題ではないのか。これは掛け値なしに正しい問いである。しかしこんな当たり前の事柄を疑問として発表する人間はあまり見かけない。それほどこれは「素朴」で「野暮」な、「愚か」ですらある問いだ。「素朴な「実感」を武器にして社会運動を無効化しようとする」? もしかして小峰は「素朴な「実感」」を装ったわたしの「狡猾な」問いのために「社会運動」が「無効化」されることを恐れているのだろうか? それはいったいどんな運動なのか? もしも、そう問うことで「社会運動」を「無効化」できるとわたしが信じているとすれば、「社会運動」から鼻で嗤われるだろう。かりに、批評家/運動家という小峰の区別を受け入れるとして、むしろこの問いは、批評家にとっても、運動家にとっても、何度でも発せられるべき、何度でも聴くべき、勇気づけられる有意義な問いかけではないのか。
 小峰はいい加減なことばかり言わないほうがいい。小峰が「批評家」として振舞っているつもりのところに「運動家」としての小峰を対置することの、なにが「罠」なのか。自分で置いた「罠」に足をはさまれてなにを勝手に騒いでいる。わたしは君の言うことは間違っており、悪いことだと書いただけだ。その間違いと悪さとは、「批評家」であるとか「運動家」であるとかいう君の役割とはなんの関係もない。それは人間として間違っている。人間として間違っていることは「批評家」としても「運動家」としても間違っている。それだけのことだ。「運動の現場に立つ小峰であれば」とは、ひとりの人間として、他の人間と共に生きるという経験を多少でも持ったことのあるはずの君であれば、という意味だ。だが、もしかすると君の人間は「批評家」と「運動家」に分裂してしまって、もうどうしようもなくなってしまっているのかもしれない。しかしそれはわたしが仕掛けた「罠」ではない]

 対して、川口さんは批評を扱っているのに、「「文体」の問題であるよりも前に、生き方の問題」を提起している[「批評」を扱っているのに「生き方の問題」を提起するという川口の「罠」――という小峰の妄想的言いがかり。だが小峰は「生き方の問題」を問わずに「批評と運動」の「と」の緊張感をいかにして持続するつもりなのだろう]。これは「素朴」に正しい言説に思われます。日常生活でのふるまいが差別的であり、その反映として、文章がある、と。それが「当然の手順」である、と。[見てのとおり、小峰はさきほど引用したわたしの文章を根拠にこう展開しているが、しかし小峰の引用は不正確なので、あらためて掲げておく。故意か故意でないか知らないが、重要な言葉が書き落とされている。正しくはこうだ。

 しかしあまりに素朴な、野暮で愚かな疑問が念頭によぎる。デモで民族的マイノリティや女性を差別するコールを行ったり、差別する文章を書くこと。それは「文体」の問題であるよりも前に、生き方の問題なのではないか。デモのような集団的な場面や、文章を書いて発表するという公的な場面で差別が表面化するのは、個々の人間が些細な日常生活の中で差別を無数に積み上げてきたことの結果ではないか。そう疑うのがふつうではないか。運動の現場に立つ小峰であればわざわざ他人から指摘されるまでもないに違いない。

「そう疑うのがふつうではないか」という一文が書き落とされている。したがってわたしの「素朴」な「正しい言説」とは、小峰がそう理解したがっている、「日常生活でのふるまいが差別的であり、その反映として、文章がある」ということではない。デモでのコールにせよ、発表された文章にせよ、公的、集団的、非日常的な場所に差別的な言辞や行為があれば、私的、個的、日常的な場所にもっとたくさんの見えづらい差別があるのかもしれないと、そう「疑う」のが、「ふつう」の、「当然の手順」であるはずだ。しかし小峰はそれをしていない、だから小峰の批判はどこまでいっても無惨だ、とわたしは書いたのだ。「批評家」だろうが「運動家」だろうが、それは「当然の手順」であり、それをしないことは、「批評家」としても「運動家」としても、その他のナニ家としても誤りである。小峰は、自分が言ったこととそうかわらない、似たようなものだ、と強弁するだろうか。わざわざ明記しておくが、Aは当然Bの結果であると断定することと、AがあるときBの存在を疑ってみるのが当然であるということは、まったく別の事柄である。前者はたんに論理的な言明であるが、後者の「当然」には倫理や正義への意志や可能性がこもる。この差異は重要である。「そう疑うのがふつうではないか」という一文を飛ばして読んでおいてさもわたしが「日常生活でのふるまいが差別的であり、その反映として、文章がある」と主張しているように見せかけること。意図的かそうでないかは知らないが、いずれにせよここにも小峰という一人の人間における「素朴」な「生き方の問題」が影を落としているだろう]。「当然の手順を踏まない批判や反省(他人への批判であれ自己批判であれ)が、どこまでも腰の入らない、無惨なものになる」、と。だから、川口さんは「文体という技術的側面」で吉本隆明のべらんめぇ調に影響を受けた赤井・小峰は差別につながりうると(自己)批判した私の「大阪(弁)の反逆」の記述を退けます。

「ひとは、「文体という技術的側面」において「左派ポピュリスト」であれば差別を為し、そうでなくなれば差別を為さないのか。違うだろう。「SEALDsが敷いた路線」を正しく「批判検討」しなかった「文体」が差別し、正しく「批判検討」した「文体」が差別しないのか。違うだろう。小峰に必要な自己批判は、差別を内包した「文体」を駆使して新人賞を受賞したことではなく、差別をなし崩しに「文体」の問題に還元することで、読者の目に、いや、自分の目に、なにが見えなくなっているか、なにを見えなくさせているか、それを考えてみることではないか。」

 これは罠です。私の杉田批判はこのような「当然の手順」に対して向けられたものです[小峰手製の「当然の手順」。だがそれはそれとして、にしても、ここはどういう意味なのだろう。初歩的な言葉づかいの次元で意味不明だ。「私の杉田批判はこのような「当然の手順」に対して向けられたものです」? 川口の文意は明確である。小峰は差別の問題を「文体」の問題に還元するが、そうすることで見えなくなってしまうものがあるだろう、と小峰を批判しているのだ。小峰は、杉田も川口と同様の主張をしており、自分はそれを批判した、と言いたいのか。それとも小峰は、その批判は自分にではなく杉田にこそ当てはまる、だから自分は杉田を批判した、と言いたいのか。たんに、適当なことを並び立てて話をズラせばいいと開き直っているのか]。面と向かってはまったく差別しないような人間が、差別的な文章に感応し「魂をゆさぶられ」肯定することさえある。同じことが運動の現場では頻繁に見られます。マジョリティで団結する享楽のためにマイノリティを切り捨てること。二〇一五年の安保闘争はそれが顕在化しました。この運動家たちと同じふるまいを批評のレベルで無自覚に反復したのが杉田俊介さんです[赤井の差別的な「文体」を選考委員である杉田もまた「享楽」したこと。これが小峰の「杉田批判」なのだとすれば、やはり先の「私の杉田批判はこのような「当然の手順」に対して向けられたものです」は意味不明である。繰り返すが、「批評と運動」の「と」についてお喋りする前に、読者「と」のあいだの緊張感くらいは持ってほしい]。批評F運動。違う。批評と運動でなければなりません。[「これは「罠」です」の「罠」とは結局なんだったのか]
 この罠は二重に仕掛けられています[!! 説明がないまま「罠」が増えていく]。そもそも文体はその人の日常生活の反映ではありません[一応注記すれば、この文体‐日常生活反映説は小峰オリジナルであり、わたしはそんなことは書いていない]。文体は技術です。人は技術を向上しようとします。文体という技術の向上の結果が、赤井さんや小峰の文体です。その向上のベクトルを叩いて変えることが「大阪(弁)の反逆」の赤井・小峰への(自己)批判の要です。つまり、技術とは日常生活の反映というよりは、技術者が持つ欲望のベクトルなのです。杉田さんは赤井さんの欲望のベクトルを肯定しました。もしそのベクトルが差別的になりうるのであればひっぱたかないといけない。[「文体」=「技術者が持つ欲望のベクトル」の「差別」性とは……]
 むろん、その欲望のベクトルは往々にして日常生活や運動の現場に影響を及ぼすこともあるでしょう。しかし、日常生活や運動の現場で生じた差別を糾弾するのは運動家の役目です。批評家にできるのは欲望のベクトルを検討することまでです。そのベクトルの目指す先が「よさ」だとするなら、私たちの役目は「よい技術のその「よさ」とは何か」と人々に問うたソクラテスの時代から変わりません。人間が技術を「よい」方に伸ばしたいと願うなら、批評はその「よさ」を問題にする。文体を第一の問題にする批評にはいまだ意義があるのです。[もちろん、「文体」が差別することはない。ひとが、ひとを、差別するのである。そのかぎりで、批評家の仕事はあくまで「文体」の「欲望のベクトル」の「差別」性を批判検討し(とはいえ、じっさいに小峰がSEALDsのコールや赤井の文章に施す分析は、分析とわざわざ呼ぶほどでもない、あたうかぎり単純素朴な意味での表面的指摘にとどまるものであって、「欲望のベクトルを検討する」というようなものではない。杉田にたいしては大仰に批判すると言いながら、「技術論」がないと言い募るだけである。そうして、現実の小峰はそのような「文体」批判的検討という仕事からはるか遠い地点にいる。ほんとうにそれがしたいのなら、真面目に読み、まっとうに書く練習を重ねていくしかない)、それをより「よい」ものにすることであり、運動における差別は運動家が「糾弾」すべきであるという小峰の理屈は一見筋が通っている。しかしそれは現実的には無意味な空論である。もっぱら「文体」にかかわる批評家はなぜ、「技術者が持つ欲望のベクトル」が「差別的」であるときそれを「ひっぱたかないといけない」のか。その「文体」が「「よい」方」ではなく、よくない「方」に伸びていくと思うからだろう。それでは困ると感じるからだろう。しかしどうして「文体」に「「よい」方」とそうでない「方」があると想定した上で、「「よい」方」をめがけて批評家は仕事をするのか。それは批評家が、この現実には、この世界には――簡単には決定できないとしても――「「よい」方」とそうでない「方」があって、「文体」=「技術」はそのことと無関係ではありえないと知っているからだろう。少なくとも、信じているからだろう。現実の「よさ」と無関係に存在する「よい」「文体」などありえないし、考えることすらできないのだ。ならば、自分が生きる現実が「よい」ものであるかどうか、自分自身「よい」人間であるかどうか、少なくとも読むことと書くことによって自分が「「よい」方」に伸びていこうとしているかどうか――つまりは「生き方の問題」――これが、「よい」「文体」=「技術」という主題と苦闘する批評家の試金石である。この試金石の存在ゆえにこそ、「批評と運動」の関係は、緊張した、実質ある、マッシブなものたりえる。
 その上で、素朴な疑問をつけ足せば、かりに小峰の論法を是認するとして、差別者が批評家でありかつ運動家である場合、どうなるのだろう。素人考えかもしれないが、運動を指導する立場の人間は実質的には批評家と運動家両方を兼ねているケースが案外多いのではないか。そしてその条件を、本質的な自己批判を免れる便法として利用する批評家=運動家もいるのではないか。つまり、そういう人物が「日常生活や運動の現場」における差別性を他者から指摘され、自己批判を求められたとして、それを「批評家」として「技術者が持つ欲望のベクトル」の問題に局限してしまえれば、その人物としては非常に気楽だろう。その人物は、あるひとりの他者からあるひとりの他者として取り扱われることに由来する抵抗と葛藤を感じずにすませることができる。そういう人物においてこそ「批評と運動」の緊張関係の欠如が問題にされるべきだろう。たとえば谷川雁はどうだったか]

 また、川口さんは谷川雁を評価しつつその女性差別にほとんどふれていない私を批判してこう述べています。[誤読。「女性差別にほとんどふれていない」ことを批判したのではない。そのふれ方が非常に奇妙であることを指摘したのである。量の話などしていない]

「「文体」なる物差しで他人をも自己をも批判する小峰なのだから、ここでは少なくとも、谷川の性差別を谷川の「文体」の問題として取り上げるべきであった。それが為されていない以上、わたしは、「文体」の差別性について語る第六章の記述はポーズでありフェイクであると、むしろ「文体」とは、運動内部での差別を正面から問題化・意識化することを避けるための隠れ蓑であると、小峰お手盛りの問題機制であると、判断する」

 文体を批判するのは批評家であり、運動内部の差別を問題にするのは運動家です。川口さんはこの区別を完全に欠いてしまっています。谷川の文体=欲望のベクトルは女性差別を是認するものだったでしょうか。私はそうではないと思います。谷川の文体については『平成転向論』の第十章の谷川雁論で肯定した通りです。毛沢東主義者である谷川は、日常生活批判の根拠であるゲリラ戦的想像力の持ち主でした[? 論旨とまったく関係なし]。ただ、確実なのは[なにか「確実」ではないことがあるの?]、谷川が運動家として、目的を達成するために運動体内部での女性差別に加担した、ということです。それは運動家によって糾弾されて然るべきです。[「この区別を完全に欠いてしまっている」川口と、あまりに容易に、葛藤も抵抗もなしに「区別」してしまう小峰。「区別」するよりも「区別」しないほうが正しく「よい」ことだとわたしが考える理由はすでに書いた。その「区別」に依拠する小峰の「自己批判」がいかに無惨であるかについても、すでに書いた。また――小峰いわく「批評家」は「文体を批判」し、「運動家」は「運動内部の差別を問題にする」。では、「谷川の文体=欲望のベクトルは女性差別を是認するもの」ではなかったが、谷川という人間が「目的を達成するために運動体内部での女性差別に加担した」ということ、人間的あまりに人間的なこのありふれた裂け目の存在をだれが問題にするのか。問題にしていいのか。この裂け目に(自己)批判的に対峙することは、「批評」にとっても「運動」にとっても決定的な大事であり、「批評家」と「運動家」の「区別を完全に欠いて」でも為すべきことだとわたしは考える。小峰の眼には「素朴」で「野暮」で「愚か」だと映るのだろうが、しかしそれがそんなふうに見えるということが自分にとっていったいなにを意味しているのか、小峰は立ちどまってよく考えてみたほうがいい]
 著名な批評家である渡部直己の女性差別を、彼の文体と関連付けようとする立場をどこかで目にしました。私はそのような「素朴」な立場を支持しません[小峰が素朴という言葉を鉤括弧に入れて使ったので、また一応注記するが、文体‐日常生活反映説は小峰オリジナルであり、わたしはそんなことは書いていない]。批評家としての人間と、運動家としての人間は別の力学で動いています。人間は批評文で普段とは異なる欲望のベクトルを肯定することがあります。杉田さんが赤井論文を肯定したように、です。批評で問題になるのは、批評で表現された欲望のベクトルです。問題は批評が運動や日常の力学を反復し、両者の対立を維持しそこなうことです。運動家としての谷川のふるまいを、批評において杉田さんが無自覚に反復しました。批評F運動。批評家として批判しなければならないのは、谷川雁ではありません。杉田さんの方です。

Ⅲ 批評 Fakes 運動

 川口さんは私への批判で、私の文体(スタイル)を「奇妙な振る舞い」と問題にしています[誤読。正しくは「奇妙な振舞い」。わたしが「奇妙」だと書いたのは、小峰が谷川雁や平岡正明とウーマン・リブを絡ませる手つきにかんしてであり、そこでは「文体(スタイル)」は「問題」にしていない。このレベルの誤読が平然といくつも垂れ流されているのを目の当たりにすると、「文体を批判するのは批評家」という小峰に、〝ある程度ちゃんと読むのが批評家〟と「素朴」きわまる意見を返したくなる。いったい、他人の文章をこれほどまでに適当に読む小峰はナニ家としての小峰なのか]。何を語り落とし、何と何を同列として列挙し、何と何を接続させているか。そのとき、どんな言葉を用いているのか。文芸批評はなによりもその対象の語り口を問題にしてきました。もし批評と運動に接点があるとすれば、それは批判対象のスタイル――表情、口ぶり、語彙の選択――を問題にすることでしょう。江原由美子に「解釈の政治学」という週刊誌でのセクハラ事件の扱いを問題にした一級の批評文があります。それは抑圧者のスタイルがどのようなものか明らかにした点で、フェミニズム運動に貢献したとみてよいでしょう[わたしの「小峰ひずみ論」も、小峰が「何を語り落とし、何と何を同列として列挙し、何と何を接続させているか。そのとき、どんな言葉を用いているのか」を詳らかにする「文芸批評」だった。小峰のこの文章はそうではない]
 ただし批評がそのまま運動になることはありません。批評文を書くときは文章を問題にしますし、運動家として活動するときは自他のふるまいを問題にします。運動が批評に直接的な影響を及ぼすことはないでしょうし、批評が運動に直接的な影響を及ぼすこともないでしょう。両者は別ものです。私は、「大阪(弁)の反逆」で批評家として、活動家という生き方を肯定したことがあります。また、私は行政と対峙した際に運動家として、批評で得た知見を活かして糾弾闘争を行ったこともあります。しかし、私は批評を書いているときに運動家であろうとしたことはありません、実際のところ杉田は一切闘っていないじゃないか!と糾弾することはありえません。それは卑怯です。ただ、アジっておきながら、現場で用いるべき技術を不問に付すことを、批評家として批判しているのです。運動家の現場で批評家としてふるまったこともないです。[これは本当か。そんなことが可能なのか。そんなことが可能だと小峰に思わせている現実はいったいどんな現実なのか。独り合点でそう思いなすのは小峰の自由だが、そのとき他人が小峰をナニ家だと思っているかはわからない。小峰は前に、こう書いていた。――「では、川口さんの罠はどこにあるのか。批評家としてふるまう私に、運動家としての私を対置したところです。批評に日常生活や運動を持ち込んだところです。なるほど、私は杉田さんを「運動家としてどうふるまうか」という観点がないと批判しました。ただ、それは杉田さんの文章への批判です。アジテーションに終始するその文体への批判でもある。現場というものを批評の俎上にあげなさいよ、と」。この混乱した一節において小峰がナニ家であってナニ家でないか、杉田がナニ家であってナニ家でないか、わたしがナニ家であってナニ家でないか、いったい誰に決められるだろう。事後からでもこのような混乱がある。いわんや出来事の渦中においてをや]
 行政であれ経営者であれ差別主義者であれ、批評家が抑圧者のスタイルを批判するとき、批評家は運動家を装い始めます。批評と運動は似たスキルを用いるからです。批評は運動を装う。批評Fakes運動。党を持たないイデオローグ? フェイクです。では、フェイクだから何だと言うのか。私はかつて牛田悦正というSEALDsの中心的な活動家に「お前のやっているのは遊びだ」とバカにされました。しかし、花田はこう言います。

「遊びを馬鹿にしてはいけない。ある演劇サークルで、スタニスラフスキー・システムにもとづいて、ストライキの芝居を熱心に練習し、舞台においてではなく、「実践」の場において、演技をふるってみたら、たちまちそのストライキに勝ってしまったということである。」(『近代の超克』、講談社文芸文庫、七九頁)

 労働組合員たちは遊んでいるうちに技術を習得していたのです。なるほど「実践」に比べれば、批評は遊びかもしれない。ただ批評家が抑圧者のスタイルを論駁し始めれば、いつの間にか自他が繰り出す抑圧者のスタイル[自他が繰り出す抑圧者のスタイル?]を見抜き、運動家として批判するという技術を習得できるかもしれません[「いつの間にか」!? あれほど峻別すべきと主張していた「批評家」と「運動家」を今さら癒着させるのか……]。語り口を主題的に論ずる批評という技術はさまざまな闘争に用いることができましょう。批評は闘争を行うための最大の訓練場となりましょう。批評Follows 運動ではなく、批評 Fakes 運動。批評は運動を装う。[批評についてなにを考えるのも小峰の勝手だが、では、正確に読むつもりのない批評家――批評を装うつもりすらない、批評を装うことすらできない批評家――が他人のテクストのなにを「見抜」くと小峰は主張するつもりだろう]
 『平成転向論』では、批評家たちが運動を礼賛したことを批判しました。運動について思考することの放棄である、と。批評 Follows 運動。同じことを杉田さんも行っています。技術論を考えないことは、その運動をどうやって広げていくのか、どうやって敵対者に対抗するのか、どうやってしゃべるのか、どうやって自分の身体を動かせばいいのかを考えないということです。それは運動のスタイルを考えないということです。運動のスタイルは、その運動体が持つ技術によって決まるからです。
 再び川口さんへの反論を行いましょう。私が谷川雁からウーマンリブへという運動の流れを記述した部分を評して川口さんは次のようにいいます。[と、わざわざわたしの文章を引用するにもかかわらず、その後小峰はこれにつづく結論――わたしの小峰批判の要点には一切触れないまま自分の文章の「混乱」の責任を他人になすりつけた上で、杉田相手にもうひとふざけしてみせる]

「[ウーマンリブのビラには]第三世界の革命運動に多大なる影響を与えた毛沢東主義のスローガンが「しっかり書き込まれている」。だからなんだと言いたいのか。この混乱ぶりはなんだろう。」

 全共闘は谷川雁の組織論を学びました。ウーマンリブは全共闘のなかから生まれました。アジテーションのやり方、アジビラの書き方、スローガンの打ち出し方。ウーマンリブは己のスタイル=技術を男性中心主義的な左翼運動から批判的に学んだ。運動は玉突きのようにして起こるのです。私の記述の「混乱ぶり」はこの玉突きを記述しようとした結果です。いまでは、このねじの回転を逆にしなければなりません。もし、いまメンズリブがあるとすれば、それはフェミニズム運動のスタイルを学ぶかたちでなされるだろうと私は思います。私の「はぁ?」という口答えこそが重要だと考えたのも、イ・ミンギョンの『私たちにはことばが必要だ』に「護心術」の重要さを学んだからです。敵対する運動は、しかしながら、そのスタイル=技術を学び合った。女性差別に加担した谷川雁を「それでも」評価したいと考える所以です。
 司令官殿、私たちはさまざまな運動を感応し、見学し、呼応し、批判し、横領するなかで、メンズリブという運動が持つべき技術を問題にしなければなりません。それを戦術と言い換えましょう。その上で、ひとつ言いたいことは、戦術を蓄積する用意もなく闘争を煽るのは、司令官として最も恥ずべきスタイルであるということです。
 [以上。The rest is silence.]


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