書評「転生の気配――『夢虫』増田みず子」 (1991.9『新潮』)
この世界に偶然は無いという占星術的思考を装って、本書を読む機会を与えられた折にたまたま眺めていた書物の断片をうつしてみる。いつ果てるともしれぬだらしない読み方が許されると独断している『失われた時を求めて』のひと滴――「肢体の無意志的記憶とでもいったものがあるように思われる」。脳髄とは別に、腕や脚それ自体に追憶が宿ることがあるとプルーストはいう。私はさらに偶然の糸をたどり、以前やはりはかのゆかぬ読み方をしていた夢野久作『ドグラ・マグラ』の、身体中の細胞に脳髄の如きものがあるのだという偏執のテーマなども思いおこす。
むろん私は『シングル・セル』のような作品から本書に至る増田みず子の歩みの特質を象徴的に、いやこの作家の世界に即せば「単細胞的に」云い切ってしまおうとしているのである。
連作集の主人公とおぼしき若い女性の名は有稀。ユキとよむらしいが、シンボルを解読する占星術師のようにこじつけるなら、他者との有機的つながりを拒んで生きる宿命をもつ人間がにもかかわらず物語的「有機」の世界に転生をとげたいと望んでいる――かかる矛盾にみちたいわば「稀有」なキャラクターということになる。生き難い「シングル・セル」としての女を、その稀有な姿のまま愛してくれる男が巻頭短編に登場する。だが、「有稀は有賀に感謝した」「ありがたかった」と書かれる通り、有賀なる男は「有難い」存在であるゆえ、主人公と交情後突然死してしまう。以後、終章まで「果てのない暗闇」の彼方へ消えたこの男の影をひきずって「できれば息もしたくない」女は生をつづける。
「有稀も懸命に手を動かした。息をひそめるようにして仕事をしていると、体の中に溜まっているいろいろな思いが、その手の動きに揺すぶられて、洗面器に入った水のようにゆっくりと波打ち、こぼれそうになるのを感じた」。
中ほどの「街の草むら」から引いた何げない一節だが、<四肢の無意志的記憶あるいは手脚がみる夢=ドグラ・マグラ>なるシンボルとしては十分であろう。「シングル・セル」へのこだわりを喪失することなく「生まれ変われるかもしれない」と有稀に念じさせる作者が転生の物語的磁場として辛うじて夢、しかも悪夢に着目したのも無理からぬところだ。古典的物語を統括する脳髄のような作者であることをやめ、切り離された手脚、あるいは細胞のひとかけらだけで夢みる可能性を黙示してみせること。
「怯える程度に緊張していないと、細胞が弛緩して、体から空気が洩れていくような気さえする」(「街塵」)というのが夢虫にとり憑かれたいと思う有稀の「シングル・セル」的存在論である。
夢虫とは何か? 作中に一応の物語的説明がある。が、私の眼には夢喰い虫が言霊の隠喩のように映る。悪夢にうなされたいという主人公の願いが作家自身の転生祈願に重なってみえた。
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