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書評 「西成彦著『エクストラテリトリアル』」 室井光広 

<つねに準備がととのっている――彼の家は移動可能だ、だからつねに故郷に住んでいる>というカフカの八つ折判ノートの言葉をかみしめて人生五十年余をすごしてしまった人間としては、「だからつねに」本源的な移動文学の可能性を追尋するテーマに心ひかれる。移動文学論Ⅱの本書は、そうした当方の飢えにも似た欲求をみたしてくれた数少ない労作である。
 日本語文学における稀少な移動文学の実践者のレポート――たとえば多和田葉子の『エクソフォニー』やリービ英雄の『越境の声』を再読した直後に、本書を読む機会を与えられたのも、また、本書の著者が評者と同年同月の生まれであるというささやかながら当方が重視するコウインシデンスもインパクトの強いものだった。
 著者によれば、タイトルのエクストラテリトリアル=治外法権という概念には、地獄・悪夢的な側面と希望・救済的な側面という非対称な二面があるが、本書がおもに扱うのは後者を浮彫りにするマイノリティの作家たちだ。
 このことも小心者の評者の胸に沁みる原因となっている。三部構成のうちポーランド文学の難儀なありように肉薄するのがⅠとⅡだが、第Ⅰ部にこうある。<別に政治的主張がどのようなものであれ、詩人は、ただ時代に勝ち誇ろうとするものにこそ惹かれるのである。>
 人はそれを高踏的と呼ぶかもしれないが、政治的な判断の停止こそ詩人がとらざるをえぬ本源的姿勢だとする一節は、本書全体の「希望・救済的な側面」への寄り添い方をも表現している。
 多くをひけないのが残念だけれど、しかし一事は万事、欠け端は架け橋となりうる。アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは不可能…という思想家の高名な言葉を評者はアタマで知っている。かかるアタマを破砕するブリリアントな欠け端・架け橋を引く。<あのアウシュヴィッツがいかに多言語的で、ポリフォニックな場であったかを想像してみて欲しい。私たちはアウシュヴィッツが沈黙と悲鳴によってのみ構成されているとうわべ厳粛に受け止めがちだが、それは誤りである。>
 本書が扱う「希望・救済的な側面」は、「うわべ厳粛」からわれわれを正しく解放してくれる。
 当方は先頃、ドイツ語が読めないにもかかわらずカフカに関する一書をでっちあげるという、カフカ風に「地獄・悪夢的な側面」をもつ仕事に従事したので、本書の第Ⅲ部のカフカ論には切実な関心が向けられたが、これを読んで、やはり救済の感覚を強くしたのだった。
 日本古代にあって「鳥が鳴く」は地名「あづま」にかかる枕言葉だが、東国のことばがわかりにくく、鶏が鳴くように聞えたことによるという。本書の第Ⅲ部で「ハエの羽音のような言語」とくくられる世界に、出身地の枕言葉を重ねた。第Ⅲ部の「断食芸人論」は評者の興味・関心からいうと本書の圧巻である。
 ほとんど移動することがなかったにもかかわらず無国籍性を象徴する二十世紀作家の筆頭にあげられるカフカの壮絶な作品「断食芸人」を「ある犬の探求」などもふまえながら追尋した精細でかつ精彩に富む論究に接し、「鳥が鳴く」にふさわしい拙作カフカ論が「食べない」断食芸人よろしく、すでに書かれた大量のカフカ論を「読まないで」――つまりカフカに関する学問的教養を積まずに書かれた究極のやせぎす本であることなども痛感させられたのである。


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※手書き原稿を判読し、書き写した。
原稿紙一枚目右上欄外に「週刊読書人 08.4/7〆切」とメモがある。
08.4.4付で、原稿受け取った旨の読書人編集部からのハガキがあるので、掲載されたのだろうが、「読書人」そのものは未確認。(2024.2.11)
 

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