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室井光広日録(12)

2006.1月1日(日)くもり。庚寅
くすりとわらってクスリをやめた――元日。
蓑ひとつだに無きぞかなしき…という歌がひびく夢…。
山野河海にホネをまくような、そのような書き方。本をつくってヤマを誇示(頂上制ハをみとめてもらう)することからひそかに遠ざかり、ヤマをおりつづけることを<書くこと>とする歩み方。
文壇人からも大学人からも遠くはなれた野をめざす…そのためのチカラを与えたまえ、と紙神にねがいたてまつる。元日の、いのり。ヤマと平地のあいだの斜面の「/」をしずかに歩む晩年を与えたまえ…。

祖父のこしらえた(編んだ)蓑が生家にあったはず。土蔵近辺の土には粉ひき用の石うすがうもれていたはず。それらを近いうち、もらいうけてくるか。

輝けるわが知友たちの仕事ぶりをことほぐ。彼らのカゲにかくれて、なんとかやりすごそうとするイワシ。柳田民俗学(&折口)にいう蓑…カクレ蓑を着用して――。

亡父は粉ひきでもあった。粉ひきのセガレの自覚。日々の粉だけはきっちりとひけ。

山に登るより、下る方がむずかしい…というKierkegaardの言葉をはるか昔に(20代に)うけとめていたイワシ。今、ようやくその実践的批評の時代が到来したようだ。山登りの記念塔や墓を立てることから、遁走する。ココロザシのホネを、おちこちにまく。山野河海のどこやらに、まぎれる生き方。祈りを深くすれば、そういう生き方=書き方が与えられるだろう。

向う二年間は、物忌み・方違いをしながら、二つの仕事をせよ。プルースト逍遥と柳田国男の話と。AとBをない合わせるナワナイの仕事。対話的思考の化身となるナワ。そのナワができ上れば、おのずとそれを使った次の仕事が視えてくるだろう…という新春の託宣。このペンのように、きれぎれの、かすかなあえかな声だが、じゅうぶん聴える。

元日そうそう、嗅覚がおちる。仕事の受圧? これからの物忌期間のヒッソク状態の予兆。

ブンガク依存症のかくにん。書くことしか、ない。つんのめるしかない。
しかし――、「新聞にでるようなマネはしないで」というカフカの言葉を書生ふうに受け取り直すいとなみの魅力も。

・・・・・・
2006年の、元日。
書き続けるしかない、書き続けたいという、つんのめるオモイと、〝死に場所をさがしている〟かのような人間のしずけさ。両者の矛盾分裂した共存。(2024.2.13)


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