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室井光広日録(18)

2006.1月15日(日)くもり。晴。甲辰
連日の寺子屋づとめ(辻原氏によるありがたい引き廻し)で、又も頭痛。昔とちがい、クスリが効くので、治ると仕事をする他ない。このヤッコぶりも良し。

制度批判を趣味とする気鋭のアカデミシャンたち。(誰よりも制度に守られつづけている者たち)
勲章の類をせせら笑う文芸ジャーナリズムの寵児たち。(文学賞と勲章が五十歩百歩であることに自覚的でない者たち)
そのいずれの側からも<無能>のラク印をおされるところに<下ノ畑>を切り拓くこと。

来たる物忌み(ヘミ[蛇]=忌み穴にこもる)期間に<下ノ畑>の全貌が視えてくるだろうという期待。コモリ=妊り=再生のための洞窟を、海・山のあいだにもとめる。
24日に、たぶん、大磯の地にソレは見出されるだろう(という託宣)。
ぐあんばれ、矮小ヘビ男。

日本民俗に浸透した陰陽五行。柳田や折口はそれらのさらに以前に<日本>の真の姿を幻視しようとした。
イワシの原像であるjomon。しかしイワシの場合も、知ってしまったのだ陰陽のイデーを。ひとたび知ってしまった以上、どうすることもできない。原始蛇信仰に太極思想をつぎ木した天皇制――と同じふるまいといわれても仕方ない(か)。

漢字を使わずに日本語表記をすることの困難さに似る。原始信仰のみで生きるのは。
米の味を知ってしまった以上…。畑作文化復興をイワシも願うが、しかし、では、米なしで生きられるかときびしく問われれば…。

柳田の稲作文化一元論への学者たちの一元的批判のタイクツさ。
柳田・折口の保守性を鬼の首をとったように論難するアカデミシャンたちの<左へならえ>式の犯罪的な保守性。彼らの論調こそは大政翼賛ふうである。

三度のメシ(に米を食っていること)の重さ。米食を知ったこと=文字(漢字)に出会ったことの重さ。

批評家の千葉一幹氏より、ミネルヴァ書房刊行の世界文学テキスト(に対する)回答。
ささやかながらも、こういう仕事の依頼があるとホッとする。寺子屋教師も依頼――。民俗探究の依頼があったことの重さ…。すべて「依頼」というカタチに頼る。スペシャルな〝依頼心〟の強い五十男。

イワシも結局、50にして大学教師となった。こっけいなこだわりだが、これが「依頼」によるものであることを重視せよというカミの声。
何のこだわりもヤマシサもなく(なさそうにみえる)東大教授におさまりながら終始体制批判に気エンをあげるアタマの良い連中のムナクソ悪さ。それと一線を画すジャーナリズムの申し子作家たちのおめでたさ。

かつてメジャーな文学賞をもらったことも、他力による事故であった。こんどの寺子屋教師業は、しかし、余生にやってきたもの…。もうアガってしまった人間に新たに与えられたとくべつの時間――そのことに常に思いをはせよ。祈れ。あらゆる他者の中にワタシもいる。渡しとしての私。(のかくにん。)
アガってしまった…いや、下ってしまうのだ、これより――。

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(2024.2.21)

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