『文学+ 04』の断片的感想
今年9月刊行の『文学+ 04』を落手。ここのところ演劇についての本を収集し、少しずつ読んでいる。
で、演劇史特集の、川口典成インタビュー「日本近代演劇史と対峙して」を目当てに取り寄せた。噂通りの充実した内容で勉強になった。
矢野利裕の「サブカル私小説系から当事者性へ」も読んだ。エピグラフとして、依田那美紀(樫田那美紀)が発行する『生活の批評誌 vol.5』の巻頭言の一部が引用されている。巻頭言の題は、「「そのまま書く」をよりよくこじらせるために」。その二行を書き写しておく。
<「そのまま書く」ことは、「そのまま書く」ことを、自身に引き受けることは、時として、何かを揺さぶる絶対的な意味を持つ。>
いわゆる〝純文学シーン〟を当然視する文学理論や歴史語りから零れ落ちる、「サブカル私小説系から当事者性へ」という流れ。そこにこもる「通俗的ながらも切実な実存の感覚」を矢野は強調している。その切実さが、昭和初期のプロレタリア文学にあった主題性を反復しつつ、2000年代と2010年代を貫いている。そして、それについて、ほぼ唯一検討しているのが、『生活の批評誌 vol.5』の特集「「そのまま書く」のよりよいこじらせ方」である。そのように矢野は言い、ふたたび雑誌から引用している。依田による、滝薫へのインタビュー、「「自分語り」をさまよって」の中の、滝の発言である。
<私、長野に2個上のいとこがいるんだけどさ、学校も勉強も得意じゃないですってタイプの子なんだけど、すぐ男に依存したり頼っちゃったり、傷つけられたりしてて。そういう彼女が、相手と対等に付き合う上で、やっぱり自我を確立することって重要で、そのために言葉を使うってことはすごく大事だと思うんだけど、それって彼女にとってはすごくハードルが高い気がするんだよね。私にとってその子の存在はでっかくて。だから、言語化することに価値があるとされたり、それができて普通ってされることへの違和感と恐怖があるんだと思う>
ついでに、「巻頭言」の、先ほど引いた箇所に続くパラグラフ二つ分を書き写しておきたい。依田の「そのまま書く」ことにたいするスタンス、その「こじらせ」の在り様が、凝縮されていると思うので。ちょっと長くなるけれど。
< 社会は今、ほんの一部分かもしれないけれど、小さな個人の小さな声を聞き合おうとする方向へ進みつつあるように思う。そのことを歓迎しつつ、それでも私は、「どんどん自分のことを書こう」と手放しに口にすることができない。その警戒心を決して的外れだとは思わない。だが、そのような危惧は、少しでも油断すれば根深く私たちの中に巣食う「そのまま書く」ことに対する軽視と蔑みへと――それは強い何者かにとって都合がいい――簡単に回帰してしまうだろう。
「そのまま書く」ことをなんのためらいもなく称揚するのでもなく、蔑みや軽蔑とも絶対的に距離を取った、「そのまま書く」に対する別の態度はないだろうか。それはきっと傍目から見ればこじらせた態度であるだろう。ならば追求すべきは、よりよいこじらせ方だ>
ところで『生活の批評誌』にこだわっているのは、わたしが、この号に寄稿したからでもある。自分の文章の出来が悪いために、ずっとほったらかしていたが、矢野論考におけるきわめて重大な扱いに驚いて、書棚から引きずり出し、頁を繰った。
「よりよいこじらせ方」という、末尾の一語。これはそのまま、「よりよい」批評への通路ではないか。上記の二段落は、だからとても重要だと感じる。「自分のこと」として、何かや、誰か(この誰かには自分も含まれる)を書きあらわすこと、ちょっと難しく言い換えれば表象=代理にたいする警戒と危惧。しかし、その警戒と危惧は、「軽視と蔑み」に反転してしまう。自己自身を表象=代理することを肯定しようとする自分への、他者への、蔑視に。「そのまま書く」ことの抑圧に。警戒と危惧そのものは、あくまでも正当であるにもかかわらず。
じゃあどう書くか。何を書くか。ここが、批評(家)が生まれる地点だと思う。
「強い何者か」は、政治権力かもしれないし、資本のグローバルな汚染力かもしれない。他にも色々あるに違いない。マクロも、ミクロも。でも少なくとも、個人的な心情の次元だけでそれをとらえていては、一歩も進めないだろう。それはなにより、言語の次元、喩の次元における出来事だ。だからこそ、その次元で、「強い何者か」による抑圧の必然性を認識し、承認することをとおして、自らの奴隷根性との緊張関係を作り出さなければならない。それが、「自分のこと」を「そのまま書く」行為の加害性、虚偽性の意識を、「新しい共同体をめざす社会変革」(池田浩士)に向かって開くことの、端緒になるのではないのか。
わたしはそのように「巻頭言」を読んだ。これは別に、批評(家)専有の高踏的な問題なんかではない。私、と言おうとする者の、手先指先につきまとう日常の問題だ。じっさい、一見なにげないような滝の発言一つ切り取っても、きわめて複雑で、そこにある自己表象と他者表象のねじれ、警戒と抑圧のこじれを解きほぐすことは、ほとんど不可能に思える。
滝の発言に近過去から現在にいたる文学シーンを形成する「感覚」――それは「通俗的な「読みのモード」」として、いわゆる〝文学〟からは「見ないふり」されがちである――をかぎとる矢野の嗅覚は鋭く、いわゆる〝文学〟史への批判として有意義だと思う。しかし、物足りなさも感じる。
矢野論考の眼目は、文学シーンの整理である。その基軸として、「当事者」語りの書き手におけるエンパワメント性と、それと相補的な読者ののぞき見趣味的「欲望」が、あぶりだされる。その上で、それが「当事者性と大衆性」として、基本的に肯定される。
<この大衆的な動向を一概に良いとか悪いとか判定するのは難しい。筆者は、小説やエッセイとして書かれる以上そのような見世物性を排することはできない、と考えているが、だからと言って、生きづらさを抱えている人や社会的マイノリティをいたずらに見世物として扱っていいとも思わない。とはいえ一方で、そのような好奇の視線にともなう、ともすれば不謹慎な関心こそ、非‐対称的な関係性のなかにゆたかなコミュニケーションをもたらす鍵になる、とも考えている>
わたしも首肯する。だが、この「非‐対称的な関係」の中で、批評はどのような位置を占めるのだろうか。どのような角度で、その関係に接近するのか。それを問わず、「ゆたかなコミュニケーション」の可能性を示唆するだけでは、「通俗的ながらも切実な実存の感覚」をマッピングし、より良い消費をガイドする役割しか、批評には残らないのではないか。現にそうなりつつあるのではないか。
それはそれでかまわない、という考え方もあるのだろう。もともとそんなもんだ、という感じもする。
以上のような矢野の評価軸は、彼の読書遍歴から来る好みに由来するものであり、同時に中高の教員として日々の生活に根差すものなのだろう。デビューからこの論考に至る歩みには、明確な、強い必然性があると思う。そして、こんなふうに言われたくないかもしれないが、よくわかる気がする。非対称的な眼差しの中にこそ、「ゆたかなコミュニケーション」がポコポコと生起する。〝文学〟も〝批評〟も無くても。――子どもたちと過ごしていれば、それが当たり前であることに、否応なく気づかされる。それは、過去、自分もまた、そのような子どもたちの一人であったことを認める、ということだ。
じゃあ、〝文学〟も〝批評〟も、やせ我慢なのか。
いや、もっと言おう。それは、「大衆による「表現活動への参加」が「日常生活批判」をなしうる」という事実にたいする、みっともない否認――自己を特権化するちっぽけな、薄汚れた欲望にすぎないのか。
たぶん、批評をやめるその日まで、この疑問が離れないのだろう。
拙著にも一言だけ触れてくれているので、わたしも一言だけ触れておくが、中沢忠之「文学は正義!」は、徹頭徹尾、何が言いたいのかわからなかった。末尾にはこうある――「いいかげん文学は批評をこれ以上周縁化しない方がいい。批評とは、しばしば暴走するけれど、この世で最も洗練された加害の方法である」。
中沢の「観測」によれば、すが秀実がリードした「言葉狩り論争」には、つぎのような「三つの立場が併存し、対立していた」そうだ。
①<いわゆる差別批判(日本てんかん協会)>、②<方法としての差別(筒井康隆のブラックユーモア)>、そして③<従来の差別批判の不徹底さを批判しつつ、方法としての差別の居直り・開き直り――差別表現を可能とする文学の聖域化、被差別者に対する偏見を固定するイメージ化――をも牽制するという立場=メタ差別批判(すが秀美)>。
この「観測」は常識的であり、その通りだし、社会にたいする批判的な介入として③を重視するのも、常識的であり、その通りだと思う。
では、③としての「批評」が、「しばしば暴走するけれど、この世で最も洗練された加害の方法」であり、しかし現在「文学」によって「周縁化」されているということなのだろうか。
こう読むしかなさそうなものだが、しかし、何回読んでもよくわからない。有名な論争をそれっぽい手つきでまとめているから、何かそれっぽいことを言っているように見える瞬間が時々あるけれど、トータルではひたすら朦朧としているだけで、やはり何も言っていない。「暴走」も「洗練」も「加害」もここからは永久にあらわれてこない。それは「文学」のせいではなく、自分一人でも勝手に「批評」をやるつもりがあるのかという自問を、中沢が避けているせいだ。
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