自分のメンタル強化のための時間

コーヒーショップで一人パソコン作業をしているとき、ふと口にしたコーヒーが器官に入ってむせていたら、隣に座っていた女性二人組があからさまに席移動をした。

ささいなことだけど傷つく。気分が落ちる。生きにくいなと感じる。

ここで、「相手は状況がわかるはずもなく、不安になったんだろうなぁ」と優しさを発揮することもできず、「何も悪いことしていない」と自分に自信をもって対応もできず、傷つけられたことにフォーカスし、この不快感を相手のせいにしてただ落ち込む私。

私が傷つくときにあらわれるキーワード
「わかってほしい」「ちゃんと見てほしい」「何も悪いことしてないのに悪者にされた理不尽感」

でもここでこの感情に飲み込まれて「ドラマ」に入らず、この不快を感じる出来事が私の何を見せようとしているのかを考え始めると、それはいつも外側の人によって自分が傷つけられていることで自分の正しさを証明しようとするいつもの癖。

そのことがどれだけ自分を傷つけ続けているか。

自分の外側からどう見られているかが気になりすぎている自分。

常識的な人と思われたい
気遣いができると思われたい
清潔感があると思われたい
信頼感があると思われたい
一目おかれるような存在でいたい

なぜそう思うのか


そのほうが人から好かれる
そのほうが愛される
そのほうが許容される
そのほうが人生が得に楽に進むと思っている。

愛されたい
許されたい
受け入れられたい

それが幸せの指針だと思い込んで、自分の外側から幸せをもらう(奪う)ことから抜けられないでいる私。

でも今回のきっかけは私が咳込むという原因をつくっているので、離籍して咳を処理するなどの気遣いが必要だったかもしれない。

私が原因をつくっている。この感情の癖を見直すために。

今回の見直し結果
①「私の気遣い不足」
このご時世でコーヒーショップで咳をすることの重大性を認識しなおすこと

②「見た目、清潔感を怠っていなかったか」
堂々とできる風貌、清潔感が足りなかったのかもしれない。今思うとコーヒーと一緒に頼んだマフィンの食べたか汚かったかもしれず、それを見られてたかもしれない。

③重要なのは「いちいち落ち込むのもメンタル弱すぎ」
咳が出るのも、誤解されるのも仕方がないこと。でもそれに過剰に反応するのは、その感情を感じたかったから以外ない。
私のせいじゃない、と可哀想な自分をかかえることで、自分を肯定しようとしてる。でもそうではなく、私もそうやって誰かを知らないあいだに決めつけて、自分の価値観でジャッジしているということ。だから目の前に同じ事象として私を傷つけて気付かせようとしている。

普段の自分は丁寧に人に接することができているのか?まだ足りないからこういうことが自分にも降り注ぐのだ、ということを自覚するために今回のことが起こったということだ!!

その重要性に気づき、自分も他人に対して「きめつけ」を行わない事こそが今回の教訓であるといえる。

あーーー解決!すっきりした^^

この解決までのスピードを上げていくのが今年の目標のひとつ。

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