〜「チ。」のアニメ化に寄せて 〜 日本における航空禁止の歴史について
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今回は、今年の秋にアニメ化も決定された、大人気漫画「チ。」に関連して、日本における航空、宇宙活動の歴史について調査し、まとめていきたいと思います。
「チ。」のあらすじ
近世ヨーロッパを舞台に、禁じられた真理を求める人々の物語です。15世紀のP国では、天動説の立場をとるC教が国教とされ、地動説は異端として厳しく罰せられていました。地動説の研究は命懸けであり、発覚すれば異端者として拷問や火刑に処されます。それでも地動説に魅了され、命を賭けて真理を追求する人々がいました。異端者扱いされる恐怖と戦いながらも、地動説を信じると決めたものたちが、ある人は信念のために、ある人は真理の美しさに引かれ、地動説を次世代に伝えていきます。宗教の権威が少しずつ揺らぎ、科学による真理探求が進む時代を背景に、それぞれの過去や思いを胸に、時を超えて歴史のバトンを受け継いでいく人々が描かれています。
「チ。」に出てくる人々の思い
『チ。』の題名には、「大地(だいち)のチ、血(ち)のチ、知識(ちしき)のチ」という三つの意味が込められているようです。「地」が動く謎を探求する抑えがたい「知」の欲求と、その代償としての「血」。地動説を巡る天体の話でありながら、「人間とはなにか」「生きるとはなにか」を深く問いかけてくる作品でした。作品中には、時代を超えて、様々な立場の人物が登場します。ここでは、私が特に印象に残ったセリフを3つご紹介します。
①「感動は寿命の長さより大切なもの」
たとえそれで死ぬことになっても、心を動かす感動を大切にしたい。また、その感動を命をかけてでも次に伝えたい、という思いが表れています。
②「悪いとかどうでもいいから、あれの答えが気になる」
良いか悪いかは関係ない、ただ答えを知りたい。という、研究者精神が表れているセリフです。地動説の研究にしても、「良くない(異端)」とされることがわかってても、知の探求をやめられない。そんな人が、何人も登場します。
③「私が死んでもこの世界は続く、だったらそこに何かを託せる」
この世界に何かを残し、未来の誰かに託すことは、どこか無意味に思えるかもしれません。でも、それを無益と判断しないのが”歴史”なのだと、この作品は訴えかけてきます。過去に懸命に生きた人々の思いが、今に繋がり、それがまた未来へ受け継がれていく。歴史のバトンは、「チ。」の大きなテーマであると感じました。
あなたは知っていますか?~日本における航空活動禁止の歴史~
実際の歴史において地動説が強烈な迫害を受けたという記録は残されていません。しかし、特定の場所での権力者による「異端」への迫害は、長い歴史の中で、何度かあったことでしょう。人の「やりたい」「知りたい」という思いは、禁止されても止められるものではないので、とても苦しいことが想像できます。実は、日本においても、人々の「やりたい」という思いが禁止されていた時期がありました。ここからは、それについて詳しく見ていきます。
空白の7年間
皆さんは、「空白の7年間」と聞いて、何か思いつきますか?日本で、知の探究が禁止されていた時期。それが、第二次世界大戦後の航空活動禁止期間です。終戦後の1945年11月18日、連合国軍総司令部(GHQ)は、航空機の生産、研究、実験など全ての航空活動を禁じる「航空禁止令」を発令しました。1952年に禁止が解除されるまでの7年間、日本は一切の航空開発を許されませんでした。
敗戦前の日本は、世界有数の航空大国でした。ここでは、日本の航空の基礎を築いた航空研究所に着目します。1916年に東京帝国大学で航空学研究のための組織作りが開始されてまもなく、東京帝国大学の工科大学に、航空技術者養成を目的とした航空学科を設置する計画が決まります。そして、1918年に、航空機の基礎的学理の研究を目的として、東京帝国大学付属航空研究所(航空研)が設立されました。日本航空界の父とも言われる田中館愛橘がその顧問に就任し、航空の講座を設けました。時は、第一次世界大戦により、航空機の軍事的な重要性が広く認識されるようになっている時代であり、航空研は世間からも大きな注目を集め、日本の航空研究の中心的存在となりました。1923年の関東大震災で大きな被害を受け、一時的に停滞を余儀なくされるも、日本の航空機産業の発展に貢献し続けます。日本は、戦闘機「零戦」の製造など、当時において世界的に見ても高い技術を誇るようになりました。軍拡を背景に日本の期待を背負い、日本の航空研究を支えてきたのが航空研究所だったのです。
しかし、1945年の敗戦により、その躍進は止まります。無条件降伏した日本に対し、GHQは航空禁止令を発令し、民間機の航空活動を含む全ての航空機の生産、研究、実験を禁止したのです。零戦で知られる三菱重工や飛燕を開発した川崎航空機もGHQによって解体され、模型飛行機の制作さえ許されませんでした。当然、航空研究所も廃止され、所員の半数は研究所を去りました。新設の理工学研究所の所員として残った半数も、研究は一切許されませんでした。航空機を愛し、その研究に人生を捧げていた人々は、命令一つで生きがいを奪われたのです。このようにして、日本の航空産業は空白期間に突入しました。
その後、1952年にサンフランシスコ講和条約が締結され、一部の航空機製造禁止が解除されるまで、7年間の研究禁止が続きました。東大の航空学科が再開されたのは、約10年後の1954年のことでした。
航空活動禁止解除後の動き(航空編)
空白の7年間によって、日本の航空活動は世界から大きく遅れを取ります。しかし今では、日本の航空技術は世界でも高い水準を誇っています。その裏には、航空を愛したものたちの奮闘がありました。ここでは、日本における航空復活の歴史について紹介します。
「日本の空は日本の翼で」 〜 YS-11 の挑戦 〜
日本再生の象徴として始まったのは、国産の民間旅客機の開発でした。航空産業の復活を模索した政府は、中型輸送機の国産化を目指し、1956年に通産省が国産民間機計画を打ち出しました。その翌年には「日本の空は日本の翼で」をスローガンに予算が組まれ、東京大学キャンパス内に財団法人・輸送機設計研究協会が設立され、基礎研究が開始されました。東大の航空学科の卒業生も多数参加しました。
日本初の国産プロペラ旅客機は、輸送機設計研究協会の「輸送(YUSOUKI)」と「設計(SEKKEI)」の頭文字であるYSと、エンジン第1案、機体仕様第1案を組み合わせて『YS-11』と名付けられました。1959年には、輸送機設計研究協会は発展的に解消され、実機の設計・製造を行うために、特殊法人・日本航空機製造株式会社が設立されました。戦前から航空機製造に関わっていた企業も参画し、各メーカーが航空部品を担当しました。
1962年には、名古屋飛行場にて、初飛行が行われます。プロペラによる機体の傾き、安定性の不足、舵の効きの悪さなど、様々な不具合が発覚し、耐空性審査を通過することはできませんでしたが、進歩を感じさせるものでした。その後、戦闘機設計のノウハウを活かして安定性を向上させるなど、様々な検討と改良を重ね、見事、1964年に、YS-11は耐空性審査をクリアし、運輸省の証明を得ることができました。初飛行後、YS-11は知名度を上げ、1964年には全日空により、沖縄から北海道まで日本を縦断しながら東京オリンピックの聖火を輸送しました。
『YS-11』は経営面では360億円の赤字を出したため、政府の方針は民間航空機は欧米の航空機会社との共同開発がメインとなりました。それでも、1972年に生産が中止されるまでに、合計182機ものYS-11が生産されました。国内では民間機として75機、官庁用として34機が活躍しました。4割近くが13カ国に輸出されていたことから、国際的にも性能が認められていたことが分かります。ビジネス面では課題が残るも、機体の性能と安全性の観点からは“名機”とされており、「YS-11」は日本の航空産業復活の象徴となりました。
5人のサムライによる開発秘話
ここからは、YS-11の開発に尽力した5人を紹介します。
航空禁止令が解除された後、日本政府は国産旅客機の開発に本気で、YS-11の開発費には約58億円が投じられました。重要なのは、新型旅客機を一体誰が設計するのかということでした。1956年に輸送機設計研究協会が発足すると、戦闘機の設計に携わった技術者たちが急遽招集されました。1937年の『97式戦闘機』、1940年の『零戦』、1941年の『飛燕』、1944年の『紫電改』や『烈風』など、日本で活躍した戦闘機に関わった人たちが、約10年の時を経て再集結したのです。収集された人々の中でも、YS-11の開発の先頭に立った技術者たちを当時の新聞社は、「5人のサムライ」と呼びました。以下がそのメンバーです。
○ 木村秀政:「航研機」の設計者。
○ 菊原静男:「紫電改(しでんかい)」の設計者。
○ 太田稔:「隼(はやぶさ)」の設計者。
○ 土井武夫:「飛燕(ひえん)」の設計者。
○ 堀越二郎:「零戦」や「烈風」の設計者。
東京帝国大学教授でもあった木村秀政、三菱重工業の堀越二郎、川崎重工業の土井武夫、中島飛行機の太田稔、川西航空機の菊原静男など、非常に豪華なメンバーでした。彼らは皆、人生を航空機に捧げ、航空禁止令により人生を狂わされた人たちでした。
実は、5人のサムライのうち、木村、堀越、土井の3人は、東京帝国大学航空学科の1927年卒の同期でした。プロジェクトで中心的な役割を果たしたのは、木村秀政です。1923年に東京大学の航空工学科に入学した木村は、その後も大学に残って研究を続け、「航研機」と呼ばれる試験機の開発に携わります。1945年には航空研究所の教授に就任しますが、航空禁止令により研究所が廃止され、職を失います。退官を余儀なくされた木村は、日本大学工学部の教授に就任し、YS-11の開発が始まったタイミングで収集されます。YS-11の製造を通じて若手技術者を育成し、日本航空学会の会長も務めた彼は、日本の航空技術を次世代に引き継いだ人物です。
同期の堀越二郎は、名戦闘機である零戦の設計者として有名で、映画「風立ちぬ」の主人公のモデルとしても知られています。東京帝国大学航空学科を卒業後、三菱内燃機製造(後の三菱重工業)に入社し、戦闘機の開発に従事しました。同じく同期の土井武夫は、卒業後に川崎造船所飛行機部に入社し、数々の名機を設計しましたが、航空禁止令により飛行機設計に関われなくなりました。その後、神戸の町工場で働いて食いつないだ後、川崎に復帰し、旅客機「YS-11」などの設計に関わります。彼らの3年後輩の菊原静男は、航空学科を卒業後、川西航空機で飛行機一筋で生きてきましたが、同じく航空禁止令により飛行機を奪われます。それでも諦めずに機会を待ち続けました。実は菊原は、YS-11プロジェクト始動以前から、国産中型輸送機の基本設計などの研究を行っていました。特出した技術力を持ち、機体設計の中心となる人物でした。太田稔は、彼らの同期や後輩ではありませんでしたが、非常に優秀な技術者でした。中島飛行機で働き、戦時中には戦闘機「隼」の設計主任を務めた人物です。
5人の設計経験は、性能第一の「軍用機」であったため、快適性、安全性、コストを重視する民間輸送機の開発においては困難もありました。しかし、苦難を乗り越え、見事、YS-11の基盤を作り上げました。YS-11が本格的に始動し、実機の設計のために日本航空機製造が設立された頃には、彼らは一線を退いていましたが、彼ら「5人のサムライ」の存在により、国産の民間旅客機は実現したのです。
航空活動禁止解除後の動き(宇宙編)
戦後は、宇宙開発の幕開けでもありました。航空禁止令により全ての航空研究が禁じられた日本では、当然宇宙開発も禁止されていました。ようやく禁止令が解かれると、日本でもロケット開発が幕を開けます。ここでは、戦後日本における初の実験用ロケットであるペンシルロケットの生みの親、糸川英夫について取り上げます。
糸川のペンシルロケット開発秘話
日本の「ロケットの父」と称される糸川英夫は、1912年に東京で生まれました。幼少期から飛行機に憧れ、パイロットを志していました。東京市立第一中学を卒業後、東京高校を経て東京帝国大学工学部航空学科に進学します。大学卒業後は中島飛行機に入社し、彼が手がけた「九七式」は、単座の軽戦闘機として世界最高の評価を受け、糸川は天才として認められるようになりました。その後も1941年に「隼」、1942年に「鍾馗」と戦闘機の開発を進めました。
そんな彼も、5人のサムライと同じように、敗戦によって研究を禁止されます。小さい頃からの夢であった飛行機の研究を奪われ、一時は自殺も考えた糸川ですが、音響学に興味を持ち、東京大学で音響工学の教授としてペンレコーダー式脳波測定器の開発に取り組みました。この脳波研究関連で米国に渡った彼は、アメリカの最先端のロケット開発現場を目の当たりにし、ロケットに興味を持ち始めます。「超音速、超高速で飛べる飛翔体を作り、太平洋を20分で横断する」という「ロケット旅客機」構想を提唱し、研究をスタートさせました。
ちょうどその頃、世界大戦後初めての「IGY(国際地球観測年)」に向けた準備会議が、ローマで開催され、南極大陸の観測と大気層上層の観測が目標に決まりました。日本はアメリカの提案でロケットに搭載する観測機器を作ることになり、日本学術会議ではIGY特別委員会が計画を立案していました。IGYの政府側窓口であった文部省の岡野は、新聞で「20分で太平洋横断」という糸川の研究に注目し、彼に来省を求めてIGYの観測ロケットとして利用することを提案します。こうして、糸川の挑戦は国のプロジェクトとなったのです。
1955年には東京の国分寺で水平ロケットの発射実験が行われ、直径1.8cm、長さ23cmのペンシルロケットが水平に空をかけました。本格的な飛翔実験のためのデータを得た後、秋田県に「秋田ロケット実験場」が建設され、ペンシルロケットは空へと飛び立ちました。その後、ペンシルロケットはベビーロケット、そして固体燃料を使用するカッパロケットへと進化していきます。IGYの開始を控え、何度も試行錯誤と燃焼実験が繰り返されました。
1958年9月、ついに、ペンシルロケットを元にしたカッパ6型ロケットが目標高度60kmに到達しました。IGYは同年12月までだったので、ギリギリでしたが、カッパロケットによる高層大気観測が承認され、日本は無事、IGYへの参加を叶えることができました。
まとめ
今回の記事においては、「チ。」のアニメ化を記念して、日本の航空活動禁止の歴史を紹介しました。空白の7年間に耐えて、日本は、航空業界、宇宙業界ともに、世界の仲間入りを果たしたのです。ペンシルロケットを作った糸川氏は、後にこんな言葉を残しています。:「夢の実現は 1段ずつの積み重ね」彼らの思いが、時を超えて、今私たちの心をも動かす。どこか、「チ。」と繋がったところを感じますね。皆さんも、夏休みに、YS-11やペンシルロケットの実物を見に行ってみてはいかがでしょうか?もちろん、「チ。」の視聴も忘れずに!
(記事作成:PRインターン 田嶋悠楽々)
参考文献
的川泰宣~ペンシルロケット物語 - 宇宙航空研究開発機構
ペンシルロケットと糸川英夫|国分寺市
糸川英夫|人物|NHKアーカイブス
日本航空界の重鎮 木村 秀政 | 日本大学の歴史
木村秀政|人物|NHKアーカイブス
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㉓後編 菊原静男