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ジャッジリプレイの見かた

2023年9月19日にDAZNで配信された「ジャッジリプレイ#26」についていくつか意見を見た。この番組は審判の判定についてきちんと検証を行う我が国では珍しい番組でもあり、ずっと熱心に見ているものでもあるので、この機会に審判について思うところをまとめてみた。


審判の泣きどころ

もうかなり以前になるが、国際主審だった上川徹の講演を聞いたことがある。まだVARが導入される前で、その是非が議論されていた頃だったが、いろいろ印象に残る発言があってとてもためになった。たとえば以下のようなものだ。

  • カウンターを後ろから追いかけているときにシュートを打たれ、それがバーに当たって下にハネた時のゴールの判断はいちばんの泣きどころ(2010年南アフリカワールドカップ決勝トーナメント1回戦・イングランド×ドイツでの事象を念頭に)。

  • 人の目ではどうしても見きれない部分は出てくる。

  • 選手の怒り方やスタジアムの雰囲気で「これはたぶんファウルがあったな」という察しはつくが、自分の目で見えなかったものを雰囲気でファウルと判断するわけに行かない。

  • 見えなかったものを憶測で判断するのは審判として最もやってはいけないこと。

VARがないなかでは、テレビで試合を見ている人も、スタジアムの観客も、なんならベンチもリプレイでなんども問題のシーンを見返すことができるのに、最も重い責任を負った審判だけが自分の目に見えたことの一瞬の残像だけですべてを判断しなければならないというある種の逆転現象が起こる。この講演で上川は「人間の目で見きれない部分を補うという意味での技術の導入はあってよいと思う」との意見だった。僕はそれまで「誤審も含めてフットボールの醍醐味」派だったが、このときを境に少しずつ考えが変わっていったと思う。

リスペクトとは

「ジャッジリプレイ#26」で取り上げられた三つのプレーのうち、特に気になったのが鹿島×C大阪の25分に鹿島のピトゥカが退場となったシーンだ。このシーンでは鹿島の岩政監督も審判への抗議で警告(イエローカード)を受け、さらに笠井通訳が審判への侮辱で退場を命じられた。また鹿島のスタンドから「シンパン、シンパン、ヘタックソ」というチャントが声をそろえて繰り返された。

ピトゥカのプレーは当初カードのないファウルとされたがVARが介入、OFRの結果レッドカードに判定が変更となったものだが、リプレイを見る限りC大阪の喜田の足首の上あたりを横から踏みつけており、意図的ではないにせよ大ケガになり得る危険なプレーで退場の判断は妥当だと思った。またTwitter(現X)などで意見表明している鹿島サポの大半もこの判定自体は受け入れているように見受けられる。

問題は審判に抗議した監督、通訳への懲戒処分と、スタンドのチャントも含めて「リスペクト」を求めたジャッジリプレイの桑原アナに対して、「鹿島側がヒートアップしたのはその前のC大阪のラフ・プレーへの対応と一貫性がないから」「リスペクトを求めるならリスペクトに値するジャッジをすべき」「ピトゥカの退場はしかたないが鹿島のみが悪者であるかのような説明は悪質な『切り取り』だ」等の意見が散見された。

確かにたとえば9分、C大阪の喜田と香川が鹿島の松村をはさみこむようにして足首あたりを踏みつけたプレーがファウルにはなったがノー・カード、10分にはC大阪のセアラが鹿島の安西とボールのないところで交錯し安斎が傷んだ事象がノー・ファウル、16分には再びセアラが関川と空中戦で競り合った際に関川にヒジが入ったように見えたがノー・カードのファウルとなり、特に16分のシーンの後では岩政監督がおそらくは2回めのラフ・プレーであるとして強く警告を求めているのが画面からもわかった。

こうした流れを踏まえれば、桑原アナが「実はこの前にC大阪の方にもファウルがあり岩政監督が抗議をしていた経緯があって」とひとこと説明を入れても理解を助けるためによかったとは思うものの、だからといってリスペクトに欠けるチャントや審判への侮辱が許されるわけではないのは自明。経緯があったとしても事象そのものはまったく別のプレーであり、リスペクト欠く行為はそれ自体として許されないものなのだから、この日の番組の構成を見ても「切り取り」批判はあたらないだろう。

「リスペクト」に関していえば、ここで桑原アナが求めているのは、ひとつの試合に関わりともにそれを運営する当事者どうし、職業人どうしとしての尊重のことであり、それは仕事ぶりの巧拙やパフォーマンス以前の、その前提としてあるべきものである。「リスペクトに値するジャッジ」というものがあるのではなく、いいプレーをし、いいジャッジをするためにまず相互のリスペクトから始めましょうということである。

無謬でなければリスペクトを受けられないというのであれば、へたくそな選手、采配を間違った監督はリスペクトしなくてよいのかという話になるがもちろんそんなことはない。審判はむずかしい役割であり、どうしても見きれない部分もあるしミスもある、マズい運営をしてしまうこともある、それでも審判がいなければ試合はできないのだから、まず互いの立場、互いの職分や職責を尊重しリスペクトすることがすべてのスタートで、それは選手、監督、その他試合運営に関わる人たちすべてについて同じことである。そして仕事の出来の巧拙、パフォーマンスのよしあしに対する評価や批判は、あくまでリスペクトが先にあったうえで成り立つもの、なされるべきものだ。

ジャッジリプレイの見かた

「ジャッジリプレイ#26」では鹿島×C大阪のほかにも、浦和×京都の試合で京都の福田が浦和のリンセンをエリア内でホールドしたプレー(75分)が取り上げられた。試合ではノー・ファウルとしてプレー・オンとなり、VARの介入もなかったが、番組では出演者がいずれもファウルとしてPKを与えるべきであったという意見で一致した。

これに対して、浦和サポを中心に「番組で誤審だったと言ってもらっても結果が修正されるわけではない」「明らかな誤審を取り上げる意味がない」といった意見がネット上で見られた。また、「誤審であることは明らかだが、番組ではどうしてこのような誤審が起こったのか、またなぜVARが介入しなかったのかを議論すべきだ」という意見もあった。

ドイツに住んでいた頃(1990年代後半から2000年代にかけて)、試合が終わって夜のダイジェスト番組などの時間になると、DFBの審判部長的な人が出てきて話題になった判定について説明することが結構ふつうにあったと記憶しており、審判自身のコメントも事後的に出されることがあったと思う。もちろんドイツでも誤審はあるが、審判の判断についてオープンに議論することは当然と考えられていたと思う。

2002年に帰国し、日本でもフットボールを見始めたが、判定に文句を言う人はたくさんいても、それがカジュアルかつオープンに議論される場というのはほぼなく、判定に関する事象はある種のタブーであるかのようにいくつかの例外的なケースを除いて取り上げられることがなかった。

そんななかで、「ジャッジリプレイ」は知る限り判定に関するオープンな議論の場としてようやく現れた番組である。

「ジャッジリプレイ」はあくまでDAZNのプライベートな番組であり、JFAやJリーグに属する立場の人が出演し判定についてコメントするわけではないが(以前は原博実Jリーグ副理事長(当時)が出演していた)、Jリーグの試合の放映権を持つDAZNが試合映像を使い、またプロフェッショナルレフェリーであった家本政明が解説の役割を担っていることもあって、直前の週に行われた試合で話題になった判定の「答え合わせ」をするような「半オフィシャル」の番組と受け取られているのではないかと思う。

もちろん、僕自身も週末に試合を見てモヤる判定があれば、ジャッジリプレイで白黒つけてくれ的な気持でツイート(ポスト)することもあるし、「正解を知りたい」「間違いを正してほしい」という気持ち自体はよくわかる。

しかし「ジャッジリプレイ」の存在価値は、ルールをきちんと理解したうえでフットボールを見ること、きちんとしたルール理解のうえで見れば判定のなにがどう議論になるのかを知ることにあり、決して「正解」を出したり、なにかを裁いたりするための番組ではない。

ルールを理解してゲームを見るのは、きちんとした地図を持って旅をするのと同じで、今何が起こっているのか、何が問題なのかを、より鮮明に、よりリアルに感じとるために必要なことである。試合が終わった後にそれを議論し、ああでもないこうでもないと考えをめぐらせること自体に意味や学びが、それゆえ喜びがあるのであって、正解を性急に知ろうとすること、それによってただ溜飲を下げようとすることは、そうしたフットボールを見る楽しみを一面的で深まりのない、貧しいものにしてしまう。

その意味では「ジャッジリプレイ」の構成や出演者の議論自体にももちろん改善の余地はあると思うが、少なくともなにをポイントにどの事象を取り上げるかなど工夫の跡は十分窺えるし、単なる判定の「正誤の答え合わせ」に終わらない、議論されるべきテーマへの問題意識がある。人が裁く以上判定の誤りは残念ながらなくならないし、VARの運用も含めて判定を取り巻く環境にも議論し高度化を図るべき論点は無数にある。誤審があったとして、なぜそれが起こったのか、なにかを変えることで同じ誤審を起こさないようにすることができるのか、それを議論し知恵を出し合うことには意味がある。

審判なしに試合はできない

レベルは違うが、僕自身も四級審判のライセンスを持っていたことがある。更新してないので今はもう失効しているが、子供が小学生のころクラブに所属しており、親として試合の審判ができるようにしておく必要があって取りに行ったのだ。実際に笛を吹いたのは小学校のグラウンドでやった練習試合ひとつで、あとは副審をなんどかやっただけだが、それでもむちゃくちゃ緊張するし、子供らもいっちょまえに文句を言うし、親はヤジるし、笛はかなり力を入れて吹かないとヒョロヒョロと説得力のない鳴り方しかしないし、スローインで「赤ボール」と言いながらハンドサインではあせって逆を示してしまい小学生に「どっち?!」と突っこまれるし、これは大変な仕事だと思ったのを覚えている。

もちろん試合を見ていれば判定に不服もあるしフラストレーションもあるし、ときとして実際誤審もあるわけだが、審判がいなければ試合が成り立たないし、そしてまた選手も監督も運営も人がやる以上それぞれにミスや不具合を宿命的に抱えているのであり、審判にだけ無謬を求めることはできない。満足できる判定をしてもらえなければリスペクトできないとか、結果を変えることができないなら検証など必要ないというようなつたなく、幼い考えしか持てないのなら、自分で四級のライセンスを取って小学生の試合でいいから一度笛を吹いてみればいいと思う。きっと見える世界が変わるし、審判という仕事を引き受けてくれていること自体をリスペクトできるようになるはずだ。

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