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2024.12.24 ミトロヴィッツァ
3階建てほどの高さはある像が、左手で東方を指差し、右手で剣を支えている。私と彼女は、その前の交差点に立ち止まった。周囲にはコソボの文字が光る腕章をつけた警察官が5〜6人仁王立ちしていた。
「私、ここから先へは行ったことがないの。セルビアだから。」
私は朝3時のバスに乗り、飛行機に乗り継いで、この日からコソボ・アルバニアでクリスマス休暇を過ごす予定でいた。キリスト教信仰国にいると、24〜26日の間全ての店が閉まり、閑散とした街の中で一人寂しく過ごす羽目になる。そのため、イスラム教を基盤にもつ国へと旅をするのが、単身ヨーロッパ生活の鉄則だと心得ている。
コソボに到着早々、ミトロヴィッツァという北部に位置する街へと足を急いだ。厳密なセルビアとの国境はもう少し北寄りにあるが、イバル川を隔ててセルビア人とアルバニア人の居住するエリアが明確に分かれている、「分断された街」である。
コソボ紛争は1999年に国連が仲介に入り、コソボは2008年にセルビアから“独立“した。だが、セルビアやロシアなどの一部の国は、いまだにコソボの独立を認めておらず、セルビアの自治区としている。
紛争が終了して26年が経つが、二つの地域を結ぶ橋の上には、常にNATO軍が常駐し、一触即発の状態が今なお続いている。現に、手榴弾が投げ込まれるなどの事件が近年起きている。
私は彼女と会う数時間前、内緒でこの銅像より北側にある、とあるNGOのオフィスの戸を叩いた。職場で私がコソボに行くと伝えた際、スロバキア人同僚が以前事業協力を結んだ、この団体を紹介し繋いでくれたのだ。
彼女から、主にコソボとセルビアの和解や統合に向けた活動をしていると事前情報を受けていた。だが、北側に位置していることから、なんとなく"セルビア側"ではないかと想定した。
案の定、明確なアイデンティティを伺ったわけではないが、代表の方はセルビア人と思わしき人だった。生まれも育ちもコソボ首都のプリシュティナだが、今は北ミトロヴィッツァに住むという。
統合に向けた活動をしながらも、話の半分はコソボ政府への批判だった。
「コソボ政府が近年"特別警察"を北ミトロヴィッツァに配置するようになった。各交差点に銃を持った警官を配備している。それだけで十分威圧的だ。理由もなくコソボ警察に暴漢されることもある。僕の友達は警察に連れ去られ、数日間拘置された。勾留理由を執拗に求めても、何も証拠は共有されなかった。
コソボ政府は警官とかを配備するが、一切話し合う場を設けようとはしない。」
時折、隣にある椅子にもたれかかりながら、話を続けていく。
「今や、コソボは民族多様性がなくなってきている。南ミトロヴィッツァに住むセルビア人は0だ。だが、北に住むアルバニア人は年々増えている。」
2時間彼が話をした後に、街を案内するといい一緒に外に出た。メインストリートを歩いていると、
「見てごらん。セルビアの国旗が無惨でしょ?これを綺麗にしようと思ったら、ものすごい反発をコソボ側から受けるから、何もできないでいるんだ。」
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彼の話を聞きながら、銅像の横を通って橋の手前まで来た。
「僕はわざわざ橋の向こうに行く必要がないからね。」といい、北ミトロヴィッツァ側で別れた。統合を目指す人ですら、言葉の端々に現れるアルバニア人への皮肉に、心が重くなった。
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そこから急いで、アルバニア人(コソボに住む9割はアルバニア人)の友人との待ち合わせ場所へと向かった。
彼女もまた、日本人の同僚から紹介をしてもらい、会うのはこの日が初めてだった。彼女はコソボ紛争の被害者の一人である。当時2歳。セルビアからの爆弾が家に落ち、右顔面と頭部に大火傷を負った。命は助かったものの、彼女の耳と痛々しく残るケロイドの治療を両親は懇願した。その矛先が偶然、私の所属する団体に向いたのだ。
約10年かけて、複数回日本に渡航し手術を受けてきた。おかげで、彼女の傷はみるみるきれいになり、加えて日本語は流暢になった。さらに、治療費のために寄付してくれた全ての日本人に対する愛が深く芽生えた。そのため、初めて会う私にも、手厚いおもてなしがされた。
「コーヒー飲む?」
「お腹空いてない?」
と幾度も声をかけてくれた。
紛争の被害者となった彼女に、心境を深く聞くのは憚られた。しかし、「何でも答えるよ。気にしないで」という言葉に甘え、足を踏み入れることにした。
「正直、セルビア人のこと怖いなとか、嫌だなって思いはあるの?」
「セルビア人のことを嫌いとか、そういうのはない。もちろん、手術した時すっごく痛かったよ。どうして私なのって、みんながいない時に泣いていた。何度も痛い思いをしたし、その都度辛かった。だけど、(傷を負った時は)戦争中だったんだから、仕方がないって私は思っている。だから、セルビアのことを悪くは思わない。」
「だけど、私の娘から『どうしてママの顔の半分は白くて、半分は黒いの』って聞かれるの。メイクを落としたら、ちょっと残っているからね。子どもに、戦争のことをどう伝えるかはまだ悩んでいる。ただ、絶対言いたいのは、もちろん戦争の傷を受けたことで辛いこともあった。だけど、そのおかげで、日本人の家族ができたし、日本のことが大好きになれたことは伝えたい。」
彼女の達観した考えに、「うわぁ」と頭を後ろに倒し目を細めた。平和に向かって、彼女が歩んでいることに安堵したと同時に、感動を覚えた。しかし、たとえ彼女がそう思っていても、家族の中には「娘/妹を傷つけたセルビア人」という思いを持つ者もいるらしい。たとえ20年以上経っていたとしても、気持ちが追いつかないだろう。
また、たとえ俯瞰して物事を見ることができる彼女であっても、北ミトロヴィッツァの銅像より奥に足を踏み入れるのは怖いという。
彼女には言わなかったが、数時間前まで、私はその銅像の奥に位置するNGOの事務所にいた。交差点の奥も、他と変わらないいたって普通の街だ。人が野菜を路上で販売し、カフェではコーヒーを飲んでいる。だが、彼女は踏み入れられないのだ。
どんなに時が過ぎ、新たな一歩を進もうとしていても、よそ者である私には見えない壁が、この銅像の前に立ちはだかり、それぞれの心にも未だ住み着いている。ベルリンの壁が崩壊したように、それが崩れる時が訪れるのかは分からない。
だが、いずれ国籍に関わらず人が安心して自由に行き来できるようになることを、願わずにはいられない。