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(番外編)NGO職員になるまでの軌跡〜大学編〜

駐在3ヶ月を振り返る前に、そもそも何故この地に来たのか、私の「名刺」ともなる文章を書き上げた。
このNoteは自己満のために書いているから、誰かに読んでもらえなくてもいい。
だが万が一にも、同じ志を持つ人間が、これを一つのロールモデルとし参考にするなら、嬉しい限りだ。



「早く現場に行きたい!はやく、はやく行かないと…」

掻き立てられる焦りが常にある。



 はじめて、その感覚に出会ったのは18歳。激しい戦火により、隣国への避難を余儀なくされるシリア難民を目にしたときである。当時「イスラム国」が建国宣言を行い、連日テレビでシリアの報道がされていた。覆面を被り銃を持った戦闘員たち。砂埃舞う難民キャンプで生活するヒジャブを被った女性たち。これらの映像が、幾度となく映し出されていた。

 甚大なる人道危機にも関わらず、各国は冷静に事態を捉えていた。積極的に難民を受け入れるドイツのメルケル前首相の姿は虚しく、多国は国境を閉鎖し厳しい入国体形を敷いた。


 シリア人たちも自国に残りたかったはずだ。だが緊迫した状況を前に、祖国を捨てる苦渋の決断をし、命からがら逃げざるを得なかった。それにも関わらず、周辺国は難民を追い出すことに注力し、必要な支援を与えなかった。その結果、当時トルコでは「ヨーロッパへの船を出す」という甘い言葉で、難民に高額請求し非合法なボートに乗せる詐欺が横行した。トルコから出発した脆弱なゴムボートが難破し、当時3歳だったアイラン・クルディくんをはじめ、これまで1万人以上が亡くなっている。

 「なんで!死に物狂いで戦火から逃げてきたのに。なぜ誰もまともに手を差しのべないの!」

 その無常さに腸が煮えくり返った。



 私は、この非情な光景を目にする前に、ボランティアサークルの活動でスリランカという国に赴いていた。振り返ると、この渡航があったからシリア危機に対して、強い嫌悪感を抱いたのだと思う。



 大学入学して早々の5月。約束した昼休みの時間に小教室に行くと、壁際の席に男と女の先輩が座っていた。お昼ご飯を食べながら、サークルの夏期活動の説明を受ける予定だった。

「夏休みに一緒に、スリランカで住居建築のボランティアに行かない?この国は2009年まで内戦があって、家を失った人がたくさんいる。その人たちの住居再建に向けた支援活動を一緒にしてほしい。」

 パソコンを広げ、熱を交えながら訴えかけられ、私は手にしていた箸の動きをとめていた。途上国に行きたい、国際協力をしたいと思っていたところに、「紛争の被害」というワードに反応した。

 日本人にとって先の戦争というと、第二次世界大戦である。しかし、祖母から話を聞き、歴史の授業で学んだ程度で、実際の残虐さを知る術は限られていた。その理由から、自然災害の復興支援や貧困家庭への住居建築より、興味が沸いた。


 4か月弱、17人のチームメンバーと毎週ミーティングし、渡航に向けての準備を進めた。アイスブレイク、タミル語の勉強、活動目標の会議。意見が白熱し、丸一日学生会館に籠って議論をすることもあった。当時、家族よりも仲間と一緒にいる時間の方が長かった。寝食を共にし、常にスリランカのことを考えることで、徐々に現地へ行くことへの気持ちを高めていった。

 外の生ぬるい暑さと強い日差し。空港に入ったときの冷房のキンとした冷たさ。

ちょっと汗臭いバン。窓から見える南国の木。土埃。クラクションの騒音。スリランカにたどり着いた時、この国のすべてを五感で吸収してやるという気持ちだった。

 受け入れNGOのパッケージ化された予定通り、世界遺産シギリアロックに登り、観光しながらワークサイトであるバティカロアまで移動をした。スリランカ東部で海に面している美しい街。入り江があり、移動をするときは複数の橋を渡る。柵がなく、ただ一本道を引いたような橋がある。海の上を走っているような感覚になるのが、たまらなく好きだった。

 ここで私たちは、2週間の滞在期間のうち、約10日ほど住居建築のボランティアに従事した。ジャージを着て、宿から30分車に揺られフィールドのクリンチャムナイという村に向かう。女性陣はレンガを運び、男性陣は重いセメント混ぜの作業をする。灼熱の中の作業は長く続かないため、木陰で風に当たっていることもしばしばあった。疲労しながらも、夜になると仲間とその日の反省会をし、語り合う日々を過ごした。

 ルーティン化されていく中で、私にはレンガを運ぶ時より楽しい時間があった。裨益者へのインタビューである。私はチームの中で数少ない英語が話せる人材だったため、積極的に話を聞きに行かせてもらえた。「何人家族ですか。」「どうして家がほしいと思いましたか。」

 質問をしていくなかで、必然的に内戦の話が出てきた。私たちが支援していたのはタミル民族、つまりスリランカの少数民族で北東部に住む人々である。1983年から多数派民族シンハラと20年以上にも及ぶ内戦を繰り広げて、最終的に彼らは敗れた。

 「今、ここの地面の下には多くの遺体が埋まったままである。」

 「川の向こうから敵が砲撃をして、我々の家を焼き討ちにしてきた。女性はみんなレイプされた。」

 炎天下の中、裨益者の1人である女性は目を落としながら話をした。村の長らしき男性は強い目力で訴えかけた。一つ一つの衝撃なる言葉にじんわりと汗をかいた。


 「攻撃してきた人たちに対して、今はどんな思いをもっているのか」と私は尋ねた。すると、みな口を閉じた。通じなかったのかもしれないと、後日チームメンバーと翻訳機を使い、見様見真似で書いた現地語でのアンケート用紙も作成し配付した。しかし、だれも書こうとしなかった。

 いつも陽気で、おしゃべり好きな一人の大工が、真顔になり小声で答えた。

 「こんなもの、誰も書かない。回答して紙が警察に渡ると、奴らに連行される危険性がある。表向きは和平が結ばれているが、やつらは今も政権を握って、我々を差別してくる。今も非道なことをする奴らを許せるわけがない。」

 ずーんと、重しで頭を打たれた。そんな危険性があることが想像できないほど、私は未熟、無力、傲慢だった。

 彼らがシンハラ人を許せないのは当たり前だ。私は関わる機会が少なかったが、シンハラ人たちも同様であることは想像つく。だが、この分断した状況が続き、真の意味での和解がなければ、再び血が流れると思った。事実、この大工は数年後に反政府組織に入り、戦闘員になったと風の噂で聞いた。不可能であろうとも、何かしら歩み寄る措置が必要だと感じた。それまで漠然と興味のあった「紛争」という分野が、より一層深まった瞬間だった。


 そんなスリランカでの日々を過ごした後の、シリアのニュースだった。だから、より一層、憤りを感じた。国境を閉ざす隣国住民と避難民の分断。和解の必要性。緊急支援という分野が、より明確に自分のやるべきこととして輪郭を捉えた。



 一刻も早く支援を求める人の元へ行かなきゃという気持ちと、行ったところで今のままでは足手まといになるだけだという冷静な自分が戦い続けた。その結果、大学を卒業すると、まずは教員として社会人経験を積むことにした。教員の仕事を選んだのは、他の道に進む勇気がなかったというのが本音である。

 私は高校が大好きだった。友達といれば、言葉通り「箸が転んでもおかし」かった。ずっと学校にいたいという理由だけで、なんとなく教師の道に興味を持ち、大学1回生から教職免許の授業を履修し始めた。高校は進路が絡み教員の責任が重いから、中学校は思春期の子どもを相手にできる自信がないからと、消去法で小学校教員を志した。


 だが私は国際地域研究の学部に所属し、教育学部ではなかった。周囲で教職を取っている人は同じ学部でたった3人。大学が提携していた、小学校教員免許を取得するための通信教育に志願したのは、何千人といる大学の“同級生”の中でたった8人だった。仲間のいない環境の中、一人で勉強するのは容易いものではなかった。単位を取るのに、情報収集は不可欠だからだ。人より多い単位を取得するためには、授業のポイントを友人と事前に確認することが最短の道だった。だが、それが出来ないのは痛手だった。


 加えて、友人たちが3回生の頃から授業日数が減り遊んでいた傍ら、私は勉強しないといけないのが辛かった。掛け持ちのバイト、サークル、学部と教職の勉強。スケジュール帳は真っ黒で、ダブルブッキングもしばしばあった。22時までバイトした後、深夜から実家のダイニングテーブルで課題を書く。途中で眠くなると、椅子を二脚つなげて横になった。ベッドやソファに行くと、そのまま寝落ちして朝を迎えてしまうため、あえて寝心地の悪い状態を作り上げていた。

 4年間で学部を卒業し、加えて、小学校教諭、中学校社会科、中学校英語科、高等学校地歴科、高等学校英語科の教員免許を取得した。中高の社会科は大学の制度上必要であり、英語科は小学校の英語教育に注目が集まっていたことから、就職に有利になると思い勉強をした。卒業するのに必要な単位が124の中、私は251単位で勉学を終えた。


 そんな私の努力を知る、周囲の人々からの「先生になるんだよね?」という重圧があった。その上、今後JICAの海外青年協力隊を受けることを鑑みると、小学校教員として3年以上働くと、募集枠が増え合格しやすいことを知った。そのため、「早く支援を届けたい」という焦る気持ちがあったが、まずは教員として社会人経験を積むことにした。


 母校へ教育実習生として戻った際、指導教官に私立の学校教員を勧められた。

「私立は建学の精神を持っているから、一本筋を通している。そのバックボーンがあるのは指導者として心強い。」

 その一言で、公立だけではなく私立学校も視野に入れて就職活動をした。クリスチャンホームで育ち、母校もキリスト教だったため、プロテスタント校を中心に全国の小学校に履歴書を送った。
 そのうちの一校の2次試験を受験した際、不思議な出来事があった。スーツに身を包んだ受験者の16人が、試験を終え玄関に向かった。ゴミ一つない廊下に、清潔感のある白い壁やを見ながら、「さすが私学は綺麗だな」と思いながら歩いた。昇降口にたどり着いた瞬間、「私、多分ここで働くな」と感じた。試験に手応えはなかったが、第六感のような何かが働いた。普段、このようなスピリチュアルなものを信じない。だが、この時は舞い降りてきた。実際に3次、4次試験と進み、教員としては早い7月に、私立校としては珍しい正職員としての内定をもらった。


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