2024.09.28 ジブリ映画「おもひでぽろぽろ」を子ども学的視点で分析してみた
一部地域から、Netflixに繋げるとジブリが見れる。
その情報を聞きつけ、最近はジブリ映画祭を開催している。
もののけ姫から始まり、平成合戦ぽんぽこ、紅の豚、おもひでぽろぽろ。
どれも名前は知っているが、きちんと見た記憶がない。そのため、一つ一つ見直している。その中でも、おもひでぽろぽろは、なんとも印象的だった。
主人公が、年の近い女性だったからかもしれない。
所々顔を見せる、小学校の5年生の彼女はどれも興味深く、私を刺激した。イギリスの大学院で子ども学を研究していたため、この作品を見終わった時に、子ども学的視点で勝手に脳内で分析し始めた。
作中では、小学校5年生は「子ども」から「大人」に変わり始める年齢として描かれている。
男子は体育で野球を行っている傍、女子は体育館で生理について学習するシーンがある。「女子だけの秘密」にも関わらず、男子にも話がまわり、「お前、生理か?」「女子たちは保健室でパンツを買っているらしい」などと、教室内で男子児童が生理をネタにする。その情報提供者となったのが、りえちゃんである。背が高く、ふくよかな彼女は、既に生理が始まっていると主人公のタエ子は知る。
体育を見学しているだけで生理と勘違いされるのでは、とオドオドするタエ子に対し、何事もどんと構えているりえちゃんは、なんとも大人びて見える。
作者は、生理というものを、子どもから大人への移行を表す手段として使用しているように感じる。生物学的に女性が成熟した状態を「大人」と定義づけるなら、りえちゃんとタエ子の間に、大人と子どもという線引きが引かれる。
しかし、映画が描かれた時代の日本において(一部地域・時代次第では、初潮=大人とし正式に線引きするため、あえて強調)、生理がきた瞬間に、すぐさま“大人”になるわけではない。
では子どもとは何なのか。
タエ子は食事中に、次女のお下がりのエナメルバックはいらないと、口論になった末に言い放つ。三女の彼女は、何かとお下がりで我慢させられることが多く、たまには自分で選びたいと思う心情は、末っ子の私も理解できる。しかし、お出かけの日になると、服に合う鞄が見つからず、拗ねて「出かけない」と言う主人公。母親に言われ、渋々次女が鞄を貸すが、その態度にまたヘソを曲げる。
この様子から、子どもは、自分の感情を上手に整理をつけられない、わがままを言う存在として作者が捉えているのが分かる。これは脚本家、高畑さんの想像する子ども像である。
子どもは外で元気に遊ぶ、想像力が豊かなど、“子ども“という存在は大人が作り出す偶像であるという理論が子ども学には存在する。これに当てはめると、高畑さんは、「子ども=わがままをいう」と認識しているのだ。
また、子どもは親の所有物というニュアンスも色濃く表現されている。
タエ子は学芸会で、村の子1という端役にも関わらず、人一倍演技で目立とうと工夫を凝らした。その結果、大学演劇の舞台出演への勧誘を受ける。本人は浮かれ気分だったが、父の鶴の一声によりスターへの道が閉ざされる。
当時の日本において、子どもは正常に判断できず、大人が代わりに決定する必要があると認識されていたのが分かる。時代や場所によって、「子ども」の捉え方が変わるため、偶発的に、その時の『子ども』はそう想像されていたのだ。
大学院の授業でも、トトロを題材に子ども学的視点で分析を行い、短い論文にまとめる課題を行なった。ジブリ映画は、基本的に子どもを主人公に置くため、宮崎駿監督や高畑勲、また当時の日本社会が、どのように子どもを捉えていたのかを知るには、勉強になる。
27歳の“大人”になったタエ子が放つ結婚観や、「小学校5年生の私を(田舎に)連れてきた」という表現も、非常に美しさを感じる作品だった。