(番外編)NGO職員になるまでの軌跡〜社会人・英国大学院編〜
免許を取得し正職員の立場も得たが、私は長く教員を続ける気はなかった。教師としての仕事は、今後JICAや NGOで働くための下積み期間とし、3年程度で次に移動するつもりだった。
初年度は学年担当として働き、2年目3年目は低学年の担任になった。授業・宿題・テストの準備と丸つけ。保護者の対応。入試委員だったので広報活動に加え、入試試験や受験生名簿の作成。児童指導部として、避難訓練マニュアルや落とし物掲示などの細かい業務も行った。当たり前だが、国際支援からほど遠い仕事ばかりだった。
コロナが始まったばかりの2020年に、初めて担任として1年生の教室を任されていた。担任になると、ホームルームの授業などを自分の色に染められる。「世界旅行に出かけよう」と名して、ポワーポイントで各国を紹介しながら、簡単な言葉で世界情勢を教えてみた。1年生だったのもあり、子どもたちも飛行機に乗ったつもりで、きゃっきゃと楽しそうに話を聞いていた。だが、裏を返せば、たとえ内容を噛み砕いたとしても、幼い子どもたちにどこまで響いたのかは分からなかった。教育の成果は、数年、数十年経たないと見えてこない玉手箱だ。決して無駄ではないと思いつつも、のれんに腕押しのような感覚に陥った。
教員として働くと、時に保護者からの電話対応で3時間「ご指導」を受け、泣きながら帰るような日もあった。だが、仕事を嫌いにはなれなかった。
子どもたちが司書教諭に連れられ図書室に行き、私は教室に残り宿題の丸つけをした。授業が終わり教室に子どもたちが帰ってくると、「ただいま〜」と言いながら、借りた本を私に見せて紹介してくれた。その可愛い様子は忘れられない。また、ノートの端をちぎり、手紙を書いて私に渡してくれる姿も日常の愛らしい光景だった。しかし、どんなに子どもたちが好きで、一緒にいて楽しくても、「ここは私の居場所ではない」という感覚があった。
2年経ったとき、いよいよ次のステップを考えなければいけないと思い始めた。週末になると、JICAの海外青年協力隊の元隊員と会い、平日の夜はネットを駆使し、協力隊に合格する術の情報収集をかき集めた。その中で、協力隊と職場のスケジュールを確認すると、合格発表前には合否に関わらず退職届を校長に提出しなければいけないことが分かった。辞表を出して不合格となった場合の、何かしらのセーフティネットを張る必要があった。
国連の募集要項を見ると、修士号は必須なことを知っていたので、私は協力隊を終えたら、大学院に進学しようと思っていた。だから、協力隊に落ちた時には大学院に行こうと決め、両方の準備に取り掛かった。
協力隊での希望は小学校教員、中東エリア。
募集要項が発表の日は、朝から上の空だった。希望するポジションに募集がかからなければ、そもそも応募を見送らざるを得ない。仕事をしながらも、空いている時間があれば、こそこそポケットからスマホを取り出し確認した。時計の針が10時を過ぎたころ、サイトを覗いてみると、ヨルダンの音楽教師と、エジプトの小学校教諭の募集枠があった。自分の希望ドンピシャとまではいかずとも、まずまずの情報に安堵した。
中東エリア配属になると、アラビア語が必然と学べる。加えて、教育分野で働けば、これまでの仕事を活かしつつ、将来的にもプラスになるだろうと思った。なにより、「ようやく現場にいけるかもしれない」と考えると、心が躍らずにはいられなかった。グーグルマップのストリートビュー機能を使って、いずれここに住むかもしれないと想像しながらヨルダンやエジプトの街を“散歩”した。
協力隊の書類を提出し一次試験は通ったものの、2次試験の面接の結果補欠となった。1年の猶予期間に合格者が辞退しなければ、現場にはいけない。正直、合格できているのではと浮かれていた私には堪えた。結果を見て「うあー…。イギリスの大学院に行くのかー…」と心の声が聞こえた。
その時点で、イギリスの大学院に合格していたわけではない。だが、志願した三校全てに落ちることは考えにくかった。準備した書類を留学エージェントを通じて10月の募集開始と同時に提出した。
1月頃に、そろそろ結果が出るだろうとソワソワしていたものの、一向に連絡がなかった。エージェントに確認すると、会社の手違いで申請できていなかったことが2月に発覚し、バタバタと提出する羽目になった。
その結果、一校は合否が出ぬまま辞退せざるを得なかった。会社に文句の一つでも言いたかったが、きちんと確認しきれていなかった自分にも非があると思い堪えた。一方で、平和構築で有名な大学と開発学が有名な大学からは、すぐに合格をもらえた。それもあり、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
合格をもらった大学のどちらに進学しても、希望する紛争禍における教育支援について学べると思った。だからこそ、何を基準に選ぶべきか、横浜のイタリアンレストランでピザを頬張る友人に相談した。彼女はアメリカの大学を卒業し、海外で学ぶ経験をしてきた。私からの問いかけに、少し考えながら、将来的にどうなりたいのか聞かれた。今後各国政府に教育支援を訴えかける立場に就きたいのか、現場で教育支援の事業を回したいのか。
間違えなく、後者であると思った。できるだけ現場に近いところで、裨益者の顔を見て状況を理解しないまま、支援の仕事はすべきでないと私は思っている。そのため、より「子ども」「教育」にフォーカスを置いた、開発学寄りの大学の教育福祉学科、子ども学専攻を選んだ。
協力隊が落ちて第一希望の進路ではなかったために、最初は気持ちに勢いはなかった。しかし、紛争禍における教育支援について学べるのは面白そうだった。大学院での学びは、スリランカで経験したような、汗水垂らし裨益者と直接的に関わる「現場」からは遠い。だが、教員をしていた時よりは、着実に少し近づいたと思えた。
コロンビア、アフガニスタン、ミャンマーなどを母国とする友達と話を交え、生々しい議論ができたのは、大学院での醍醐味だったと思う。
「先生、理論はそうかもしれないけど、現実は違う」
「香港でデモがあった時は…」
机上の空論だけでなく、学生からの言葉も含めることで授業内容に重みが出た。一方で、私は紛争やクーデターを経験したことがないため、気後れする時もあった。また英語力の乏しさから理解できないこともあった。提出した課題が返却された時「意味がわからない」と教授からコメントがつけられた。
自分の知見の乏しさを知っていた分、真面目に授業に出席した。英語が流暢な友人が1時間程度で読める課題の論文を、私は毎日5時間以上かけて喰らいつくように読んだ。努力で穴埋めをするしか私には方法がなかったのだ。
だが、自分の力ではどうしようもない出来事が起きた。年金や給料に関するストライキを教授が起こし、授業を休講にした。春学期は各11コマの授業があるはずだった。私は「紛争と教育支援」の授業を履修したくて、最終的にこの大学への進学を決意していたが、この教室は5回もストライキをした。およそ半分である。
教員をした3年強、必死に節約し、貯金した資金を全て学費と生活費に充てていた。帰国することには一銭も残らないギリギリの状態だった。留学するために、終身雇用の仕事も退職した。希望の進路ではなかったといえども、時間と資金を投入し、強い覚悟を持って大学院に来た。吸収できるものを全て得るつもりだった。だから、一番学びたいことを十分に学べないと知り、それまで必死で喰らい付いてきたガッツも萎んだ。
人生で初めて、心が折れた。教授に何度訴えても、「大学院は授業だけじゃなくて自己学習で学ぶことも多いから」と補習の時間を取り合ってくれなかった。1週間程度、何をしても涙が出た。食欲も湧かない。気力なく、ベッドに伏せ続けた。勉強したくて一大決心をして渡英したのに、無駄だったのではないか。何のために莫大な資金と時間を投入したのだろう。考え出すと、悪い方にばかりに考えが向いた。だが同時に、「このように人は鬱になるのだろうか」と冷静に自分のことを見ていた。
私の状況を心配した教授が、大学の心理カウンセラーを紹介した。内心、カウンセラーではなく授業をしてくれと泣き喚きたかった。しかし、諦めの境地に辿り着いていたので、ただ虚な眼差しで6回のセッションを受け始めた。
「翻訳機を使ってもいいじゃない。それもあなたの力よ。」
「どうしていい点をとる必要があるの。単位を取得するだけではダメなの?」
画面越しに映るメガネをかけた女性が、彼女も泣きそうな顔をしながら、優しく声をかけた。話をしていく中で、自分の理想が高かったのかもしれない、もっと肩の力を抜いたらいいのかもしれないと思わされた。
彼女からの心理的なサポートを受け、何とか春学期の課題と修士論文を書き上げた。しかし、もう二度とと研究の道には進まないと心から誓った。一つの内容をひたすら深め、自分を律し闘い続けるのは、私には向いていない。加えて、どんなにケーススタディを読み、国際機関の動きを知っても、支援を必要としている人たちの顔は浮かび上がってはこなかった。