【三月は深き紅の淵を】とSNS
活字中毒には割と有名なこの本。
私が初めて読んだのはこの文庫版が出たばかりの頃でつまるところ20年くらい前と、もう大昔の話なのだが、何年か前からこの小説を読んで得た感想がちらほらと思い出すことが多い。
そういうわけで今回は三月のレビューなのか持論の展開なのか曖昧な記事を綴ろうかと思います。
【『三月は深き紅の淵を』の概要】
この小説は短編四編から成る作品である。
作中作である『三月は深き紅の淵を』という小説を巡ってそれぞれの物語が展開する。
作中作の『三月は深き紅の淵を』の内容は一貫しているようで
の短編四作から成る小説である。
読者が読んでいる本である三月は深き紅の淵をと、作中作の『三月は深き紅の淵を」が入れ子構造になっている作品で、本を読むという行為に対しての執筆当時の恩田陸の考えや愛情を感じることができる。
未読で興味を持たれた方への配慮のため、これ以上はネタバレを避けたいのであまり突っ込まない。
【作者恩田陸を中心軸として考える三月】
恩田陸ファンには今更な話だが、作中作の四編はそれぞれ00年代前後の頃の恩田陸作品の草稿というかアイデア的な代物で、作品として世に出ている。
黒と茶の幻想はタイトルも内容もそのまま本になっているし
アイネ・クライネ・ナハトムジークは麦の海に沈む果実をはじめとした理瀬シリーズとなっている。
鳩笛は内容的にそもそもこれ半分メモノートか日記帳かブログじゃねーかと思うのだが、アイテムとしては月の裏側。
冬の湖は思い当たる節が多すぎてどうにもコレと言えない。
まひるの月を追いかけてが当てはまりそうだとは思っているが、別にそういうゲームでもないので無理に該当させなくてもいいだろうと考えていますハイ。
作中作はアイデアとして考慮していたもので、作品としての三月はまた別として書いているのだが、作中作『三月は深き紅の淵を』を巡る物語なだけあって、この小説は『虹と雲と鳥と』以外は創作というモノに対して切り込んだ小説でもあったりする。
書いた時期がまだ若いキレッキレの頃の恩田陸だったので、今の恩田先生の考え方は変わっていると思われるのだが、それでも三月で語られる創作論は執筆から20年以上を経た今でもなお通用するものがある。
これから語るのは、私が三月を読んで感じた創作論のお話である。
【本を読むのなんて変な奴のすること】
この作品はインターネットがまだ一般に普及しきれていなかった90年代に書かれた作品であることを念頭に置いてもらいたい。
スマホなど当然存在せずPCでネットに接続する人すら少数派だった。ネット人口自体が少なく、得られる情報量も流動するそれも今よりずっと少なかった。
そういう時期に書かれた本で、第一章の『待っている人々』はこれから訪れるであろう社会を無責任に予想した論が展開されることが多いのだが、これが結構当たっていると私は思う。
令和の世になった現在では、電子書籍と携帯端末の普及によって活字を読めるようになる機会は90年代の頃より確実に増えた。
だが携帯端末の発展と普及はそのまま活字より刺激的なエンターテイメント性のあるコンテンツの提供に繋がっており、やっぱり本を好んで読む人間が少数派であることに依然変わりはない。
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ただ、歴史を紐解けばそもそも本を読む人間はいつだって少数派である。
日本人は昔から識字率が高かったが、それでも文盲の人は近代以前では珍しくなかったしそれでとくに困るということもなかった。
本を読むという行為は近代以前ではインテリジェンスないしそれに近い人間が行うものだったと言える。
まぁ江戸時代では黄表紙や瓦版など、活字によるエンターテイメントが都市では普及していたのだが。
しかしそれも都市に限った話であり、地方ではそういう娯楽が流入しにくい以上は、本を読む人間は結局のところ少数派であるという事実に変わりはないのである。
近代以降に目を向けても、ラジオ→映画→テレビ→携帯端末と活字を必要としない情報提供性の強い大衆娯楽は常に在り続けたわけで、活字を読むのを好む人間は常に一定数はいるが常に少数派であるというのが人間という生き物の社会構造なのだろう。
【メディアによる流行の画一化】
やたら長いので省略に省略を重ねているが、このあたりの登場キャラクターが駄弁っている内容は、現代ではより顕在化した状況となっていると言える。
SNSの普及によって、サブカルはサブカルでなくなりつつある。ツイッターや動画配信サイト、まとめブログなどによって流行するコンテンツは生まれて正に消費される。
ソーシャルゲームなんかは良い例で、流行ったら一気にSNSを賑わし、その後流行が過ぎ去った後もコンテンツを続けようと努力する運営や真剣にそのゲームを愛しているプレイヤーをよそにオワコン扱いしたり、「〇〇から移住しました」と言わんでもいいことを言ったりする人のなんと多いことか。
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もっとも劇中でも反論されている論だし、私自身今絶賛ド沼(ハマ)り中の忍者と極道だってSNSで知ったわけだし、作者の近藤先生がSNSに超特化して創作している作品なのだからこの論は暴論であるのもまた事実である。
ちなみに上記の引用文の後はオタクに対する女性作家らしい痛烈な批判が入る。
萌え豚を公言するのがある程度許される世の中になっているのがなんとも苦笑いするしかない。
【物語の成る木】
荒唐無稽な発想だが、この考え方は意外と大事なのではないかと私は近年思っている。
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というのも、SNSが普及した現在では創作者とコンテンツの受け手側との距離が、昔よりかなり縮んでしまった。
また、これまでは居酒屋の愚痴や仲間内のオタク談義内で済まされ、せいぜいゴシップ誌や同人誌のネタで収まる程度だったものが、創作者やコンテンツの提供する側に直撃する例も増えた。
再びソーシャルゲームの例になるが、この手の運営なんぞは最早叩かれるのも仕事の内の一つである。
ソシャゲ運営に限らず作り手側という人間がいることを意識して、彼らに対して明確な悪意を以てぶつけられる言葉の数々はとてもではないが直視できるものではない。
困ったことに、叩いている当の本人たちは被害者意識を抱いて正義を以て対象を叩いていることが多いので止めるのがかなり難しい。
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こういった現代では、上記で引用した台詞のように「創作者」というものが存在することを理解しつつもあえて「創作者」に人格を想定しないというスタンスも大切なのではないかと私は思う。
というのも、何かしらのファンをやっていたらいずれ当たる問題なのだが「憧れの〇〇さんがそんなことをやっていたなんて!」とショックを受けた経験は誰でもあることだと思う。
そうでなくても、先述したようにコンテンツを叩く人たちはある種の裏切られたという感情を抱いていることが多い。
だが、これらは全て相手が人間と思えばこそ動揺し、悲しみ、怒り、憎悪することなのだ。
なら相手を木かなんかだと思えばいい。
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芸能人は精巧な人形!
声優はよくできたボイスロイド!
そして物語は木から生える!!
もちろん嘘っぱちなのだが、提供者側も仕事でやっている以上この嘘はある種の真実も含まれている。
そして一番大事なことなのだが木も病気になったりするし枯れるし傷ついたらもう二度と果実を成らさないことだってある。
市場は土壌であり、創作者が木であれば受け手側はそうと意識して土壌や木を守る必要があるだろう。
創作者と受け手の距離が縮まった現代では、この思い込みと虚構は使える思考手段なのではないかと私は思う。