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「私の声を聴いて」という願いが込められた創作界のテロル

【最後の大隊・アンチアレス・極道】


今回テーマとするのは三つの漫画の敵組織についてである。
どうでもいいけどこの人らまとめてみたら背景真っ赤っかで凶悪ヅラしてんな……忍者くんだけは巻き添えのコーボーだけど……。

それぞれHELLSINGより「最後の大隊(ラスト・バタリオン)」
Pumpkin Scissorsより「抗・帝国軍(アンチ・アレス)」
忍者と極道より「極道」

この三つについて触れていく。

※※※

三つの内どれか知っていなくても(全部知っていなくても)いいように簡単に解説。

HELLSINGは20世紀末のヨーロッパを舞台に、吸血鬼とそれを退治する国家機関HELLSINGとの戦いを描いた物語。
「最後の大隊」はナチス残党が吸血鬼を中心として組み上げた化け物たちの軍隊。

Pumpkin Scissorsは停戦から三年後の戦災復興部隊の活躍を描いた物語。
「アンチ・アレス」は作品中盤から登場した、主に帝国に侵略されて迫害された者たちを中心としたテロ集団。

忍者と極道は2020年東京を舞台とした、忍者と極道の抗争を描いた物語。
この作品での「極道」はマフィアである以前に、現代社会に馴染めなかった人間同士の互助会という側面が強い。

以上、三つの表層的な共通点は「テロリスト」であることである。

【社会不適合者という呪い】

「世界が俺達の悲鳴を拒むなら口をつむぐしかない
この世界で生きていく以上 世界のあり様に従うしかない
(中略)
俺たちにとって…他人は“他人”じゃないんだ
これが“今”だと主張する世界の指標なのだ…
俺たちの心を折るのは生爪を剥ぐような迫害ではなく
そんな迫害に遭う者がいても平然とした顔で明日を迎える“世界”なんだ
世界は俺達への迫害を当然のこととしているのだと
正しいのは当然世界だっ
なら間違っているのは俺達だ
俺達は世界からはじかれる異物だ」

Pumpkin Scissors シャウラ

「いかれている? 何を今更!!
半世紀ほどいうのが遅いぞ!!」

HELLSING 少佐

「私はすべての孤独な者の力になろう」

忍者と極道 作中作【フラッシュ☆プリンセス】

※※※

一つ一つ解説するより、作中台詞を引用するのが一番手っ取り早いので今回のテーマに適合した台詞を引用させていただいた。
この三つの組織に共通する芯となる部分は、その世界の主流となる社会において不適合として爪弾きにされた者たちだということである。

とくにパンプキンシザーズのシャウラの台詞は長いが、私の深奥を貫いた主張である。
そして他の二つの組織の抱える孤独の代弁ともなっている。
まぁ作中で彼らは代弁してもらう必要も無く、思う存分社会に対して暴力という手段で自分たちの主張を訴え出ているのだが……。

【言葉で聞いてもらえないなら拳で訴える】

「我々を忘却の彼方へと追いやり 眠りこけている連中を叩き起こそう
髪の毛を掴んで引きずり降ろし 眼を開けさせ思い出させよう
連中に恐怖の味を思い出させてやる
連中に我々の軍靴の音を思い出させてやる」

HELLSING 少佐

“破壊(テロル)”とは!!
社会から逸れし“孤独な者”の心の叫び……!!!
それは時として強大な大国すら飲み込む
圧倒的“負”の大海嘯…!!!
聴かせておくれ“孤独な者”よ 君らの叫びを!!
「我ら此処に有り世界よ忘れるな」という心の叫びを!!!

忍者と極道 輝村極道

言論や情報は恐ろしい武器だが無力でもある。個人の訴えを社会は一顧だにしない。
彼らは少数派であり異端者である。多数派の社会に対して切々と非暴力を貫いて訴えても、それらは結局は無視されてしまうのだ。
なので彼らは暴力で主張することにした。社会を傷つけ、その傷口と一緒にしか観測してもらえないのならそれしか彼らには自分たちの主張を述べる手段がない。

実際のところ、暴力で主張した瞬間に彼らの存在は「テロリスト」という枠組の中に入れられるため、その訴えは社会の中で歪められる。
社会にとっては円滑な社会活動を阻害する傷と一緒に社会を傷つける敵を認識しているだけであって、社会を構成する大衆が求めるのは「敵の排除」だけである。
「When:いつ」「Where:どこで」「Who:だれが」「What:何を」「Why:なぜ」「How:どのように」やったのかを彼らは訴えたいのだが、大衆は「When:いつ」「Where:どこで」「What:何を」されたのかだけを知りたいのだ。
「Who:だれが」「Why:なぜ」という一番肝心な部分はどうでもいい。敵はただただ排除されるのみである。

その「排除」すらもコミュニケーションの一つと割り切り、殺したり殺されたりする暴力の応酬を是としたのが、ヘルシングと定義できるかもしれない。
ヘルシングにしろ次回作のドリフターズにしろ戦争行動は人間に付随している切っても切り離せないものであり、無闇やたらに否定せず分かり合えないことを理解するために殴り合う、というのがどうやら平野耕太的な暴力行為に対する見解なのかもしれない。

【これはフィクションです】

だがしかし、いくら作中でどれだけ過激なテロ行為をしようとそれはあくまで創作世界の中のお話であり、敗国の残党兵が50年も潜伏して暴れたり、昨日までのいじめられっ子がいきなり国際テロ起こしたり、ヤクザが一銭の得にもならない自己主張のためだけの国家へのカチコミを行うなど絶対ない。
メタ的な話「私を受け入れない社会」という不満に対して形を与え、創作世界で暴力行為と主張を同時に行わせることによって読者の精神的ガス抜きをしてみせるのがこれらの敵組織の役割の一つである。

あくまで敵であるのは、なんだかんだ読者たちは「自分たちは今の社会が成立しているからこそ安心して暮らせている」という事実があるからであり、創作世界で行われる暴力行為は冷静にその代償を読者に突きつける役割も担っている。
また、個人的な創作論であるのだが「『敵を知り己を知れば百戦危うからず』であるならば、敵を討つ者は誰よりも敵を理解しわかり合えるモノに成ってしまう」という悲劇性がある。
社会の敵たるテロリストを排除できる戦力が、排除を望む大衆よりもテロリストの主張を正しく理解できてしまうということである。
今回挙げた三つの作品でも、アーカード、アリス、忍者は敵と気持ちが通じ合い、互いを尊重する領域に到達している。
だが結局は殺し合うのだ。

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