忍者と極道 殺島について考える
忍者と極道の殺島の考察記事だと思いますたぶん。
【寂しがりやのドブネズミ】
殺島は、この漫画の中でもとくに初見から劇中の活躍で大きく印象が変わったキャラクターだった。
いやだってこんなウェットな雰囲気の艶いイケメンヤクザどう考えたってヤバい奴でしょ……。
三度の飯より殺しと拷問が好きそうな顔をしている(偏見)。
しかし蓋を開ければ少年時代に暴走族として自由に走り回れたあの頃の思い出から逃れられない、傷つき挫折した大人という等身大なキャラクターだった。
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劇中でそう表現されていないが、私は殺島の性格を寂しがりやだと思っている。
人の好意に応えようとしたり、はぐれ者の少年たちを肯定したがったりするのも大きいが、暴走族神(ゾクガミ)と持ち上げられて、精一杯そうあらんとする姿からとくにそのように見える。
カルト的な熱狂をまとめるだけのカリスマが確かに殺島にはあり、それに乗って酔えるだけの度量も彼は持っているのだが、人生で一番の幸せを感じた瞬間は我が子が産まれて育てていた時期だったというあたり、ものすごく平凡でありきたりな感性をしている。
殺島のカリスマ性とは、この平凡でありきたりな感性をそのまま共感性として人心を掴みあげるところにあるのだと思う。天性のオーラとかそういうヤツではない。
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唯一の家族である母親を少年期に亡くした殺島は、家族愛に餓えていたのだろう。
十代の頃は、暴走族の仲間たちでその欲求を満たしていたのだが、大人になって結婚し子供が生まれることで、より正統にその願望は満たされた。
娘が生まれて初めて芽生えた「ただ与えたい」という無償の愛の感情は、逆に言えば今までは愛情の見返りを求めて好意に応えていたという告白にもなっている。
凶暴な暴走族神殺島の精神性は、彼個人から生まれ出たものではなく、周囲が求める理想的な暴走族のリーダー像たらんと振る舞い続けることで培われ形成されていったものなのだろう。
もっとも、良心のタガが致命的に外れている極道らしさも兼ね備えているので、どこかしらやっぱりヤバい人物ではあるのだが。
【貰ったクルマで走り出す】
忍者くんよく言ったと心の中でガッツポーズ取ってしまった台詞。
私が住んでいる所は地方都市なので、中年暴走族がちらほらいるというのが大きな理由なのだが、一読者の個人的な事情抜きに劇中だけで見ても、この一件での聖華天の振る舞いはかなりカッコ悪い。
盗んだバイクで走り出すのがカッコいいとは言わないが、ボスに強請(おねだり)して貰ったクルマで走り出すのも大概カッコ悪い。
殺島本人は、今までの実績や人柄あってこそこれだけの投資をして貰えたのだという立つ瀬はあるが、呼ばれてくっついて車与えてもらっただけの聖華天メンバーは心底(マジ)カッコ悪い。
そして何処を目指すということもなく逆走してぐるぐる同じ所を周り続けるだけ。
冷静に考えると心底(マジ)身につまされてなぜだか我が身まで辛くなってくるぞ!
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だが殺島含め聖華天のメンバーはこのカッコ悪さを重々承知している。
これだけ大暴れしておきながら、殺島は本当は世間の良識や正誤をちゃんと理解している。
悲しいかな彼は三十九歳の立派な大人だ。
それでもあの頃に戻りたい、現実を見たくない、黄金時代の夢を見たまま人生を終えたいというものすごく後ろ向きだが切実な願いを叶えんとした寂しがり屋のドブネズミがそこにいる。
ちなみに引用した台詞、ただ長々と十五歳のガキに愚痴っている情けない大人の図というだけで終わっていない。
「見ろよ…オレの眼を」で始めることで忍者の意識を自分の眼に向けさせ、真摯に本音を漏らすことによって注意を逸らそうとしている。
だがその実態は、道連れに忍者を一人でも殺そうとするクレバーな悪あがき作戦である。
長い自分語りが作劇上の都合だけでなく、きちんと心理戦として働いているかなり上手い場面である。
そして
その情けない目をきちんと見ていた忍者(しのは)にはその真意が皮肉にも伝わっていた。
忍者はいつだって極道の辛さを理解したうえで、ブッ殺すのだ。
【血で血を洗う報復の連鎖】
ところで、陽日に最大の致命傷を与えたのは殺島なのではないかと読み返していて思った。
普通の人間ならここまで深々とドスを左胸に刺されたら死ぬと思うし、いくら忍者でもやっぱり普通は死ぬと思うが、心臓に直撃していなければ忍者なので血管の収縮とかそんなんで即死を免れるくらいはやりそうである。
実際、陽日はこのように吐血しながらも結構元気に動き回れている。
何より、左虎というゴッドハンドが忍者側にはいる。
とにかく生きた状態でこのまま左虎の治療を受けられたのなら、リハビリ期間を設ける必要はあるかもしれないが、陽日は一命を取り留め戦線復帰することができたのではなかろうかと。
しかし実際にはこの直後、ガムテと殺島の不意討ちを受けて陽日は倒れる。
とくに殺島の弾丸は側頭部を撃ち抜いて貫通している。
というかこれで数分は生きていたっぽい陽日が凄まじい。忍者やっぱおかしいな!!
この後、本稿でも既に書いたように殺島は忍者と戦って、負けて死ぬ。
その死は殺島を兄や父のように慕っていたガムテに大きな衝撃を残す。
そして結果として、ガムテはただでさえ自分の左腕という貸しをこさえた忍者(しのは)に抱いていた執着をより深くし、必ず自らの手で刺して病るという決意を抱かせることになった。
壊左→夢澤→陽日→殺島→色→ガムテと続くこの血で血を洗う忍者と極道の報復の連鎖は、22年7月現在ガムテをプリンスと呼び可愛がっていたらしいDr.孔富に継承されており、まだまだ途切れそうにない。
【元ライバル?】
他の冴えない感じのする聖華天メンバーと違い、キャラが立った風貌をしているこのモブヒゲさん。
風格やサバンナで何かしらの仕事をしているらしい描写から(極道的には密猟か?)、何かただ者ではないものを感じてしまう。
上述した理由以上のものはないが、この人8巻カバー裏の極道新聞で掲載されていた小説で、ポケベルメッセージで登場した鶴見情花(つるみジョーカー)なのではないかと勝手に妄想している。
聖華天は最終的に全国統一したという話なので、鶴見情花率いる暴走族団も聖華天についたのだろうという考え。
集った五万人の悪童(ワルガキ)どもの中には、大人の生活に実はそれほど不満を抱いていない人物だっていたのではないかとこれまた勝手に妄想している。
それでもかつての旧友の呼びかけなら応え、その振る舞いがどんなに情けないものであろうと理解していても、友の嘆きに付き合って一緒に死んであげるという極道らしい仁義の貫き方をした人物もいるのではなかろうかと。
このモブヒゲさんは常にキリッとした表情をしており、結構充実していそうな日常を送っていたからそう思ってしまう。
【狂弾舞踏会 (ピストルディスコ)考察】
殺島の極道技巧(スキル)「狂弾舞踏会 (ピストルディスコ)」は劇中を見る限り基本的に棒立ち状態でしか撃っていない。
車上で撃てるのは当然として、恐らく現役時代は単車での乗車中からも発射していたのだろうと推測できるが、自分の足で移動しながら発動するシーンはないはず。
車体の揺れ程度は弾道計算に入れられるが、歩いたり走ったりすると大きく上下に腕がブレるので、繊細な狙撃スキル(とくに入射角調整)が必要なピストルディスコは発動できないのだと思われる。
本質的に、車上で使うことに特化した極道技巧なのだろう。
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結構能力が似ているホル・ホースのスタンド「皇帝」とピストルディスコだが、これを踏まえると劇中でのピストルディスコはその本領を全く発揮していないと考えられる。
殺島VS忍者戦では遮蔽物がロクにない高速道路上で徒歩同士の戦いだったわけだが、先に挙げたようにそもそもピストルディスコは車上での抗争や車に乗ったまま邪魔な警官(ポリ)や堅気(パンピー)を処理するための技だったのだろう。
徒歩になった時点で殺島は相当不利になっていた。まぁ忍者相手に車上で一方的な射撃戦は事実上不可能だろうが。
だがピストルディスコは、閉所でも役立つ。というか閉所が一番恐ろしい。
例えば総理官邸で、割れた子供たちをピストルディスコで援護射撃し続けることなんぞに徹されたら、忍者側の犠牲者は相当数に上っただろう。
ホル・ホースの取る戦術のように、前衛の援護射撃として使われるピストルディスコの性能は極悪としか言いようが無い。
やろうと思えば射手である殺島が廊下の直角曲がった先にいて、その曲がり角を門番のように夢澤が立っているとかそういう無理ゲーな状態を極道は用意できなくはなかった。
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しかし、極道は忍者を殺すことを目的としているが、殺すことだけが目的ではない。
極道(きわみ)はガムテが殺島にくっついて社会勉強するのを「邪魔者は入れたくない」と止めようとしたくらいに、殺島個人の主張と闘いを尊重している。
極道のかます悪事(わるさ)とは、忍者を嵌める罠ではあるがそれと同時に社会に対する訴え、弱者の叫びなのだ。
なりふり構わず忍者を殺すわけではなく、極道には極道なりの矜持で忍者と対峙しているわけである。
……ただし、極道(きわみ)は仲間を尊重するが自分個人での戦いでそこまで気を遣ってくれる保証はない。
極道(きわみ)もピストルディスコを使えるため、吹っ切られてその特性をフルに活かされた場合はかなり恐ろしいことになるだろう。
【大人になれない自分が……】
たった一人の愛娘である花奈を喪った直後の慟哭シーンであるが、恥ずかしながら私は殺島のこの心境を感覚で理解できず、理詰めで時間をかけて理解するしかなかった。
以下劇中でのモノローグ。
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娘を守れなかった無力で情けない己を憎む気持ちは理解できる。
私事だが、飼っていた猫でそのような経験は何度かあるので。
だが殺島が憎いのは大人になれない自分が憎いのだ。
大人になっていれば、この事態を未然に防げたのだろうか?
防げた可能性はあったのだろう。
まだ未就学児としか思えぬ小さな娘が、大切なアニメのブレスレットをプレゼントしてお父さんとお母さんが仲良くしてほしいなんて、当然のことをお願いしたのだ。
逆説的に、彼女は幼くして既に家庭崩壊の気配を悟って、少女なりに家族を繋ぎ止めたいと願っていたのであろうことが伺える。
殺島が“大人”になって、離婚せず自らの手で娘を守り続けることができたのなら、その死は防げたのかもしれない。
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また、殺島の舎弟である逢魔賀と同じような苦悩も含めた心境だったのかもしれない。
立派な“大人”であれば、ちゃんとした社会人であれば娘の死は辛かろうが、しかし立ち上がりきちんと与えられた仕事と役職を全うするのが本分であろう。
心の悲しさと、仕事を区切るのだ。そうしたことができない己が憎かったのかもしれない。
実際、娘を喪った後の殺島は、忍者に復讐するべく準備をするわけでもなくカチコミされて弱体化した組を立て直すわけでもなく、酒に溺れて何もせずただ死んでいないだけの生きる屍と化していた。
きちんとした大人なら、娘の死を無駄にしないためにも
ふざけるな。そんなの社会の勝手だろう。
身内が死んで、それでも世界は一顧だにせず、我が身もなんともないまま、当たり前のように明日が日常が押し寄せてくる絶望感はずっと心に残り続けて癒されることがないのだ。
先ほども書いたように私事で悪いが殺島の哀しみ自体は本当によくわかるので、世間一般的な常識や責任が殺島の身に降りかかったことを思うとやりきれない。
そんな“大人”と子供が内面で葛藤し、大人になりきれない己が憎いというのなら、それはそれでわかることなのだ。
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正直、殺島は劇中で伺える限りはものすごくちゃんとした大人だと思う。
恩義に報い、与えられた仕事をこなし、家庭を築き育児にも参加し、仕事にも励む。これでヤクザでなければ……。
だが妻に三行半を突きつけられた言葉がこれだったように、殺島は劇中で窺い知れない所で子供っぽい振る舞いが抜け切れない男だった可能性も十分にある。
最早これは客観視の問題ではなく、とにかく殺島の主観で「自分はちゃんとした“大人”になれていない」という点に、あらゆる不幸の原因を集約させて精神崩壊するのを押し留めていたのかもしれない。
また、殺島が本人が思っている以上にちゃんとした大人というのであれば、娘が死んだ責任を忍者と己にだけ向けることで、本当の死因である流れ弾で娘を誤射した極道(みうち)への憎悪を必死に糊塗したとも取れる。
殺島は先ほども書いたようにヤクザにしておくにはもったいない、あまりにも優しく普通の感性を持った男だ。
そんな彼が、娘を喪ったという理由で長年世話になった極道に対して反旗を翻すというのは、ありそうなだけに全く仁義から外れた話だ。
そんなことは、ちゃんとした大人の極道には許されない。
そういった諸々を溢れ出る感情から無意識で悟り、憎悪の矛先をコントロールしていたのかもしれない。
【誰よりも大人だった男】
殺島は、やっぱり誰よりもきちんとした大人だったのではないのだろうか。
そんな彼を苦悩させたのは、“大人”と“子供”という形の無い区分であり概念だ。
法律上、成人と未成人の境界は明確に分けられている。
そして大人らしさとか子供っぽいとか決めるのは、世間である。
そう、この漫画の極道とは法や世間が押しつけてくる概念に打ちのめされた者たちである。
冷静に見ればちゃんとした大人であったとしても、事実を一つ一つ丁寧に見ていけば申し分の無い人物であったとしても、法や世間に社会が観測したものが「否」であれば、該当人物の人格や功績は否定されるのだ。
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殺島が起こしたテロで、彼を苛んだ“大人”と“子供”という苦悩は残念ながら誰にも全く伝わらなかっただろう。
「成し遂げた」と評価した極道(きわみ)さんには悪いが、せいぜい伝えられたのは社会に対する不満を爆発させた暴走行為でしかなく、聖華天の苦悩と哀しみは彼らをブッ殺した忍者たちの中にだけ、ひっそりと仕舞われる結果に収まったとしか言いようがない。
それだけできれば、十分なのかもしれない。