友情と殺意の両立
先日書いた「創作においてのテロル」という記事において触れた作品に、一つ一つ触れていく。
今回は「忍者と極道」の「極道」。
そもそもこの作品に触れたことで「そういえば最後の大隊もサソリも同じようなこと言っていたな……」と思ったので発端とも言える作品。
【強者(にんじゃ)と弱者(ごくどう)】
この作品を一貫するテーマの一つが「忍者は強者で極道は弱者」というもの。
銃弾何発も喰らっておきながら松阪牛食ったら治ったりドスの外科手術で末期癌発症させたり車を炎上爆破させただけでなぜか首ちょんぱさせるような超人たちを弱者と言えるのかどうか大変疑問を覚えるが、極道の言う弱者とはそういうことではない。
社会に従属し適応することができるのが忍者。
社会に弾かれ吹き溜まりに行くことしかできなかったのが極道。
両者を分けるのは個人の超人的な戦闘能力や異能ではなく、実質的にはこのスタンスこそが根幹だと思われる。
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忍者は今の社会を是とする。個人個人ではもちろん不満もあるだろうが、概ね良しとする。
とくに社会の恩恵を受けて生きる無辜の一般市民こそをもっとも大切としている。
彼らがいるから社会は成り立つのであり、ひいては自分たちの暮らしも成り立っているのだと理解しているからである。
そもそも正しい意味での忍者は、一般市民の中に溶け込んで情報収集や工作などを行う諜報員である。社会に適応できないものが忍者になれるはずがない。
極道は逆に今の社会の犠牲者である。つま弾きにされた者たちである。
だからといって、全員が全員社会不適応者なのかといったらそうでもない。極道(きわみ)は大手玩具会社の部長だし、メジャーリーガーのヒーローや世界的なディーヴァだっている。
現社会の中で大いに成功した者も、搾取され尽くされ煮干しの出し殻みたいにされた人も極道に流れ着けば極道になる。
作中ではそこまではっきり言われていないが、私的には極道は現社会を実は否定しているわけではないと思う。
ただ訴えたいだけなのだ。
「お前たちが安穏と暮らしている社会を維持するために、私たちはこんなにも壊れてしまった」と。
だから強者(にんじゃ)と弱者(ごくどう)は相容れない。
どんな社会にも必ず正と負の側面がある。よりよい社会とは、このうち正の部分がどれだけ大きいかということに過ぎない。
社会をサイコロとするのであれば、強者とは当たりの面を引いたものに過ぎず、弱者とはハズレの面を引いただけだとも言える。
1から5まで正の面だとしても、6一つが負の面だとすれば必ず負を引くものが六人に一人はいる。
それでも多くの人が幸せであるのなら、社会はこのハズレの面を無視してしまう。
極道が許せないのはこの無視という行為なのだ。
このあたりの「無視される」ということの辛さは以前書いた記事に引用したパンプキンシザーズのシャウラの台詞が代弁している。
もちろん、無視する人ばかりではないしそういった人たちの声が多く大きくなれば一つ一つ負の面というものは改善されていく。
だが間に合わなければどうしようもない。
弱者(ごくどう)とはただの弱者ではいられないがばかりに、あらゆる意味でもう手遅れになってしまった人々なのだ。
上記のシーンは表情の変化ありきのシーンなので、台詞を引用するだけでは伝わらず画像を借用させていただいたが、思いもかけず内閣総理大臣直々に「君がそのような境遇になった原因を教えてもらいたい。それを改善する責任が私にはある」という趣旨を訴えかけられた直後のページである。
言われた少年ガムテはその意味と相手の立場を完全に理解している。
それ故に2コマも使って内心の葛藤を描いている。
ガムテ個人の願望は「父親に認めてもらいたい」というごく普通のものだが、極道や割れた子供たちという集団としての願望である「弱者たちの声に耳を傾けて」が全く予想していなかったタイミングでこれ以上ないほど素晴らしい形で叶ってしまった巡り合わせの悲劇である。
【共感と否定】
先日書いた記事の「最後の大隊が掲げる「闘争」というコミュニケーション」のヘルシングのテーマに繋がる、闘争によって初めて理解しあえるコミュニケーションが、忍者と極道の間でもやはり行われている。
極道の首魁たる極道(きわみ)は他者と共感することができない。それ故に己の孤独に苛まれ、形は違えど孤独を抱える者に寄り添い救いの手を差し伸べようとする。
一方でガムテは母親からの虐待で身も心も壊されきった児童であり、彼に一般社会の倫理は通用しない。そもそもそれを教えてもらう機会すら与えられなかったのがガムテという少年なのだ。そんな彼が一般社会でまともに生きられるはずは無く、当然彼もまた孤独である。
だが幼くして忍者となった忍者(しのは)もまた、孤独である。
彼は幼少期に親を極道に殺されたトラウマで笑うことができない。それだけでなく、忍者であることを隠さねばならないため他人と胸襟を打ち明けて接することができず、友達を作ることができなかった。
忍者(しのは)に限らず、彼の先輩後輩忍者である色も陽日も孤独を抱えて生きていた。
忍者とガムテの死闘の中で行われた問いかけは罵りあいになり、やがて主張となって忍者に正確にその意図が伝わった。
コミュニケーションが成立し、忍者の中で共感が芽生えた。
そしてその応答は「ブッ殺す」であった。
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理解し合えたとしても、自我(エゴ)を曲げることはできない。
共感できたとしても、それでも相手を否定する。
これはとても悲しいことだが、同時にとても真摯に相手と対等であらんとしている態度でもある。
それこそ普段のサラリーマン極道(きわみ)のように、適当に迎合して頭を下げてヘラヘラ笑ってしまえば、スムーズに社会に適応することができる。
自分がどう思っていようとも、相手が求める態度と言葉を相手に向ければいいのだ。
そんな態度を許さず、相手の主張を理解したうえで、己の主張を真っ直ぐに相手へと伝える。
それが例え、女児向けアニメのオタク談義であれ。
それが例え、相手に対する絶対なる殺意であれ。
両者の間に芽生えた共感と否定は矛盾することなく同居し、対等なる意見や殺意の刃のぶつけ合いとして互いの間で火花を散らす。
それが出来る間柄を何かと問われれば、私はそれを「親友」というのだと思う。
【忍者と極道(ふたりはマブダチ)】
生まれた家庭、育った世間、巣立った社会。
そういうものが全部違ったとしても、時として奇跡のような確率で互いのことがわかりあえる友と出会えることが、あるのかもしれない。
だがその絆が大切で、一緒にいる時間が愛おしくて、相手との関係が壊れることを恐れて、本心でないことを口にしたりすることがあるかもしれない。
こんな風に己を曲げた瞬間、二人の関係は対等ではなく歪んでしまうのに私たちはそれをせざるを得ない。
その瞬間、社会関係というものが二人の間に生まれるのだと私は思う。
親友とかマブダチとか呼ばれる関係性の間に、社会は挟まれない。
二人の間は直通している。そして二人は二人であり、個人ではないから意見も考え方も違う。
立場も所属する社会も違う。
ならば当然、否定し合うこともあるだろう。
だが、だからこそ二人は親友なのだ。
※※※
忍者と極道は殺し合い否定しあうからこそ、だからこそ誰よりも互いのことを理解し尊重している。
そんなにも殺意を交わし合う二人が友情を抱くから尊いのか、あんなにも友情を交わし合った二人が殺意を向け合うから悲しいのか、どちらが主体なのかよくわからないのだが、だがその領域に到達しなければ見えないものが人間関係の中にはあるのだ。