人は弱く生まれて、弱くなって死ぬ
説明不要、平家物語の書き出しです。
桜は咲いて散るからこそ美しいと言いますが、今回の記事はとくに終わりの美学とか退廃美とかそういうのではなく、むしろ仏教用語でいうなら天人五衰(てんにんのごすい)に通じる話です。
【ヒトは未成熟で生まれる動物である】
ホモ・サピエンスの赤ん坊は動物全体で見ても、成体の強さと比較すると非常に弱く未成熟な状態で誕生します。
歩けず、立てず、栄養補給は母乳だけ。
保護者である母親にすらまともな意思疎通もできず、成体になるまで十年以上かかるという気の長さ。
それに比べて生まれた瞬間に既に捕食者であり、独立独歩で生き抜く不完全変態昆虫のカマキリやトンボの強さたるや!
爬虫類や昆虫に魚類などは人間にとって、共感性が湧きにくい動物たちですがそれは彼らが生まれた瞬間に独りで生きていく能力を持っており(なお大半が死に子孫を残せるのは全体のごくわずかですが)、あらゆる点で人類とは観念が違うからというのが私の持論。
人間は他者の庇護を受けなければ大人になることができない動物です。
故に、人は誰でも最初は周囲はみんな自分より強い連中に囲まれている環境を経験します。
自分を庇護する大人たちという強者たちに囲まれて。
そんなわけで己の弱さを心底叩き込まれる機会は誰にでも訪れます。それに付け込んで洗脳するのが教育とも言います。モノは言いよう。
あの頃の言い知れない不安さを忘れてしまっている人も多いでしょうが、たぶん誰でも無意識下では覚えていると思います。
余談ですが私はこのあたりの不安感をよく表現したアーティストのたまが大好きです。
【ヒトは己が弱くなったことを噛み締めないと死ねない】
一方で、現代社会においてヒトが死ぬ時は、概ね己の弱さをよくよく味わってからでないと死ぬことができない環境になっています。
突発的な事故で即死したり、それに類する他殺などは例外ですが、病死、老衰、自殺などでもヒトはどんどん己が全盛期に比べて弱くなっていくこと、惨めになっていくことを自覚する時間が与えられます。
今まで当たり前にできていたことができなくなっていく。
身体も頭のキレも鈍り、弱り果てて遂には他者の助け無しには生きていくことができなくなります。
自殺は理由はそれぞれですが、いずれ周囲の環境に適合しきれず己の弱さを嫌というほど知ることになり、それに耐え切れなくなるパターンが多いでしょう。
そういうのじゃない自殺も中にはあるので何事も例外は考慮すべきかもしれませんが。
【何が言いたいのかと言うと】
うっすら考えていた持論が忍者と極道11巻収録の救済なき医師団との戦いを読むことで明確な形になった「ヒトは弱く生まれて弱くなって死ぬ」なのですが、だからと言って私は別にそれを他人に知ってもらい悲嘆や絶望を分け与えたいわけではないのです。
もっとシンプルな話で「始まりも終わりも弱いのなら、今持っている強さなんて幻だ。自分が強いと勘違いして弱者を甚振るのは勝手だが、自分が弱くなって甚振られる側に回った時のことを考えておけ」ということですね。
まぁ強い時期にどれだけ他者を慈しみ助け回ったところで、必ずしも弱くなった時にお礼のお返しが来るとは限らないのですが。
しかし自分が強い時期に弱者を甚振ったのなら、その記憶は必ず無意識下であったとしても「今度は自分の番だ」という意識がその人の精神を蝕み、心の余裕をさらに奪うだろうということだけは確信を持って言えます。
また、現実的に考えても弱者を許容しない社会が危険なのはこれが理由でもあります。
始まりも終わりも弱く在り、事故や病気でいつ弱者側に回るかもわからない現実である以上、強者の理論と権利だけを振りかざし周囲にそれを強要し続けていれば、それは社会全体が弱者を許容しない世界になりかねず「一度弱者になってしまえば這い上がれない世界」になることを意味します。
実際そうなっている感はありますが、これ以上加速させてはいけないという点では同意してもらいやすいかとは思います。
結局のところ、このように既に簡潔に語られているお話に結びつくのですが。