忍者と極道 「ブッ殺した」という愛の言葉
説明不要忍極の決め台詞。
これを軸に、今回もまた極道のお話をしたいと思います。
【「ブッ殺した」なら使ってもいいッ!】
元ネタは間違いなくコレであろう、プロシュートの兄貴の名言でありある種迷言。
ようするに暗殺チームみたいなプロであればそうそう簡単に殺意なんて抱きすらせず、抱いたらきっちり仕事は遂行するという大変恐ろしいプロ意識の高さである。
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だが本作の「ブッ殺した」とは暗殺チームのそれとは似て非なる。
この漫画の忍者は正々堂々真正面からブッ殺宣言して実行する。
俗に「死人に口なし」と言うように、殺してしまえば自ら明かした正体を知る者はいないので忍ぶ者としての務めは果たせるからである。
いわゆる冥土の土産。
そういう意味では裏社会(ウラ)的には「こんにちは」「さようなら」くらいの感覚なのかもしれない。
物騒極まりねぇな!
【NG例】
本作ではみんな裏社会の礼儀(ウラマナー)がなっている連中ばかりなのでNG例なんてそうそう出てこないわけだが、じゃあダメな例はと考えるとこの妓夫太郎みたいな態度である。
「死んでくれ」なんていうのは最たるダメな例であり、なぜダメなのかというと「己の抱いた殺意」に対する責任放棄にならないからである。
殺意を抱いたならば、我慢するか実行するかのどちらかであれば個人の責任の内に留まる。
しかし我慢も実行もどちらもせずに「死んでくれ」などと呪詛の言葉で相手に要請したならば、己の抱いた殺意に対しても目の前の相手に対してもまっすぐに向き合わず、ただ互いに不快な感情が残るのみである。
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当たり前の話をするがだからと言って殺意を抱いたなら実行するのが良いとは私は一言も言っていないし欠片も思ってはいない。
しかし殺人はあまりにも重すぎる罪であり、それに反して殺意なんていうものは日常的に沸くものだと私は思う。
よって、大抵は我慢するのだが我慢にも限界がありたまには呪詛の一つや二つや三つや四つに五万と吐きたくなるのが人情というものだ。
そう、この呪詛とは、相手の存在価値を認めない言葉とは、貶める暴言とは、責任感の無い誹謗中傷とは、すなわち我々が日常的にあちこちでぶつけられぶつけうんざりし悩まされている、例のアレである。
そして極道とは、さんざんこの呪詛を浴びせられ排斥され居場所がなくなり吹き溜まった社会のつま弾き者なのだ。
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ちなみにこんな例に出しているが私が鬼滅で一番好きなキャラは妓夫太郎である。
妹のことを素直な性格なんて評している彼だが、上記の台詞のように悪意には悪意で返し、「お兄ちゃん大好き♡」な妹には無償の愛情を注いでいるあたり、むしろ彼こそよっぽど素直な性格をしている。
「おいおい幸せな他人から取り立てているのはとばっちりじゃねぇか」と思われる方もいるかもしれないが、妓夫太郎にしろ極道にしろここまで行き着く所まで落ちぶれた人間にとっては、自分に手を差し伸べなかった社会全てが赤の他人であり、取り立て対象であり呪詛返しの相手なのだ。
助けてと思った時に助けてくれなかった。やめてくれと懇願した時にやめてくれなかった。だからそれら悪意を全て、彼らは社会に対して返す。
【極道に差し伸べる手】
殺意を感じたが実際には殺されなかった。
金も、労働力も、人としての尊厳も、あらゆるものを奪い取られたが命だけは取られなかった。
そんな生殺しの、生きているだけその分辛いような人間を生み出してさらに搾り取るのが現実のヤクザなわけだが、忍極の極道とは、社会に適応した無責任な大衆の手によって、落ちぶれ流れ着いた連中なのである。
そんな彼らには、最早ただの救いの手を差し伸べても受け入れてもらえない。
彼らの価値観と倫理観は我々大衆にとって都合の良いものではなくなっている。
こんな連中にまともな言葉や行動は最早届かない。
よって、彼らに伸ばす手と言葉はこれしかないのだ。
【暗き刃】
【斬首斧を持つ神の手】
忍者は極道の気持ち、境遇、辛さ、そういったものが理解できないわけではない。
むしろ誰よりも理解している。
だがそれはそれとしてブッ殺す。
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ここまで論じてきたことからわかるように、極道は最早社会復帰が望めないし、彼らもまた望んではいない。
だから忍者はブッ殺してから「ブッ殺した」と言う。
それは、極道へと落ちるまで彼らがぶつけられた呪詛ではない。
抱いた殺意への責任を果たした者だけが口にしていい言葉なのだろう。
その言葉こそを、この世に居場所を見出せなかった極道たちは望んでいるのかもしれない。
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この漫画の忍者とは、作中でも表現されているがダークヒーローである。
社会に許されざる者を闇から闇へと葬り去る。その責任は殺された者にも、殺されるだけの業を背負わせた社会にも被らせず、殺した忍者個人へと還元させる。
人が人を裁くのは傲慢と言われ、そのため古来より神や霊といった超自然的なものの裁決を人は求めてきた。
忍者とは、そんな傲慢な裁断を進んで殺ってくれる、大衆にとっては大変都合の良い装置である。
極道(きわみ)の怒りとは、ここに端を発するのかもしれない。
【極道の怒りと戸惑い】
何度も書くが、極道たちはなぜ自分たちが忍者に殺されなければいけないのか全く理解していない。
だから忍者はこのようなお伽噺だけを流布させ、極道をブッ殺す。
忍者が目指す処とはつまり、このお伽噺による恐怖心を抑止力とさせ、極道に過ぎた悪事(ワルさ)を自主規制させることなのだと思われる。
いわば現代のブギーマンといったところか。
社会的倫理が通用せず、法も国家も恐れぬ連中に対しては、実際これが最大限の譲歩と言えるかもしれない。
忍者は忍者なりに、極道に対する情を以って接している。
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そこに揺さぶりと問いかけをするのが極道(きわみ)である。
「忍者」というダークヒーローとしての義務、使命、責任は、そのまま忍者というダークヒーローの覆面に守られている。
だが「孤独な者」の守護者を標榜する極道(きわみ)からすれば、そんな大衆にとって都合の良い装置であり、覆面という匿名性に守られた忍者(しのは)という個人であり親友に、こういう問いかけをするのは当然と言えば当然かもしれない。
「じゃあ君個人はどう思ってその手を血に染めているのか」と。
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忍者と極道の娯楽作品として痛快な所は、先に論じたように慈愛の言葉を「ブッ殺した」、救いの手を「忍手“暗刃”」としてシンプルにまとめ、極道自身のそれ以上の凶行を止め、極道へのそれ以上の中傷を快刀乱麻に裁断するところにある。
しかしそれが通用したのは第一幕までのこと。
第二幕開始早々から極道(きわみ)の「そんなの社会の勝手だろう」という極道側の私的な主張でそれすらも「独善」と反論し、そうでありながら独善の追求たる個人のモチベーションを問うという、ある種矛盾した態度を取っている。
だが、どうせありとあらゆる「正義」と呼ばれる行為は独善である。
「私を必要としない社会を傷つけて何が悪い?」とする極道が独善なのは言うまでもなく、彼らになんら具体的な更生案を促すでもなく首ちょんぱする忍者もまた独善だ。
二つの闇の種族を取り巻く社会や世間も己にとって都合の良いものだけを生かし利用するだけであって、他者の掲げる正義を盲目的に信じ込んでいると、それこそなんらかのきっかけで社会から弾き出され極道に落ちかねない。
独善の追求とは、アイデンティティの確立において避けては通れない道だと言える。
【てのひらの形】
ところで極道(きわみ)は知る由もないが、忍者(しのは)は既に劇中で極道と闘う理由を述べている。
忍者(しのは)もまた、そんな生き物になってしまった極道と紙一重の存在なのだ。
だから誰よりも極道に一番近く、情に脆く、優しいが、誰よりも初志を暗き刃として貫徹する。
だが
彼は彼自身の言葉で、己の初志を知らず否定している。
極道へと手向ける慈愛の言葉と、てのひらの形。
忍者(しのは)が忍者ではなく多仲忍者(しのは)として抱いた、この甘ったるく青臭くもかけがえのない願いを叶えたいのであれば、
彼は彼自身の力で、極道へと向ける新たな言葉とてのひらのかたちを模索しなければならない。