忍者と極道 破壊の八極道ってほとんど身内だよね
2024年度になってから初の忍極記事ですが、今後戦闘感想記事は書かないか、もしくはもう少し別のスタンスにしたいと考え直しました。
というのもあまりにも戦闘の流れを追いすぎていていてスクショも多様しているのでネタバレサイトじみた状態になっていると気づいたので。
今まで挙げた記事は講談社様から忠告が無い限りは削除するつもりはありませんが、いくらスクショに甘い忍極と言えど限界はあり、自戒すべき所はしなければ良きファン足りえないだろう、と。
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なんだか堅苦しいことをいきなり書きましたが、記事の内容自体はいつも通りです。
【破壊の八極道とは】
「孤独の王」輝村極道
「忍殺番長」砕涛華虎
「割れた子供達」リーダー:ガムテ(輝村照)
「怪獣医」繰田孔富
「殺戮歌」MAYA
「暴走族神」殺島飛露鬼
「仁義の大侠」夢澤恒星
???:火傷の男
この八人です。
最後の火傷の男は12巻現在では謎が多く、その正体については色々な考察がされていますがとりあえずこの記事ではそれは主体ではないのでサラリと触れる程度で抑えます。
【人物相関図】
ざっと極道さんを中心図とした人物相関図を作ってみました。
上から関係性が濃い人物を並べたつもりです。
もうこれだけでこの記事が終わってしまいかねないですが一人一人ピックアップしていきます。
【夢澤】
コミックス2巻のキャラ設定では「二代目竹本組組長をやっていたら極道が見習いとして入ってきた」「その実力に惹かれ数年前から竹本組の実権を極道に譲っている」と書かれています。
親分である夢澤側から上下関係の逆転を譲渡したため、上記画像のように「極道>夢澤」の関係が穏当に成立しており、極道の盾として、極道の未来を切り拓くための礎として生きて死ぬ覚悟が定まった……まぁ率直狂信者ッスね……。
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ともあれ極道の部下として徹底して働いており、およそ堅気には意味不明な「極道からの誕プレであるドスで腹切して気合入れ」で実際気合が入っちゃうくらいに心酔しています。
いやマジで意味わかんねぇよ。陽日もそりゃドン引きするよ。
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一方で見習い極道である時分から育て上げてきたことから、上記画像のようにまるで実の親か教師かのような感動に打ち震えることも。
これは夢澤側の片思いというわけでもないようで、舞踏鳥戦で「どうやったらこの窮地を乗り越えられる?」と考えようとした極道に対して脳内夢澤が「無我になるんス」と背中を叩いており、極道としても夢澤は信頼できる漢だったことは間違いありません。
他にも夢澤の死を悼むために血化粧で涙を装ったり、事が終わってしまえば「私には出来すぎた゛仲間”だった」と破格の評価をして思い悩むほど大切な人間だったのは本心本音なのでしょう。
でも極道の明日のために使い捨てちゃうんだよなぁ……。
【殺島】
殺島は長沢組若頭なので、竹本組裏組長の極道の厳密な身内ではないのですが「数年間の休職後、復職して極道がバックアップして若頭になった」と4巻設定で明かされているので、長沢組と竹本組は良好な関係だったか、少なくとも敵対関係ではなかったのでしょう。
そして上記画像のように、この二人は友人のような関係。まぁ極道さん本人は忍者を特別な友達として見ているので、殺島との関係はいわば同志に近いか。
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殺島と極道の馴れ初めはこうなので、あの「聖華天」総長暴走族神殺島飛露鬼の落ちぶれた現状やそれに至った過去を調べて接触しに行ったようです。
このあたりガムテ申告の「極道の言葉に耳を貸すな。あいつは秒で殺し合う相手と酒を酌み交わせる」卓越した話術も一応考慮しておくべきではあるのですが。
使えるモノ、利用できるモノは話術で篭絡して使い捨ての駒にする。
一見親しみ深い関係を長い間続けていたとしても、それは表面上であって極道の心は微動だにしていない。
まぁこういう人間だと。
しかし殺島に関しては
こうして殺島の極道技巧狂弾舞踏会を伝授してもらい、黄金球戦で使った時には亡き殺島に感謝の意を抱いていたわけでして。
夢澤と同じく敗死した後は、極道なりの悼みの言葉を送っていたり(ガムテの士気鼓舞の意味合いもあるかもしれないけどそれならフラ☆プリを引き合いに出さないと思います)。
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とまれ殺島が若作りすぎて忘れがちなんですがこの二人、十歳は年齢が離れているのに同年代の友人のように慕い合っている破壊の八極道の仲ではこれまた特別な関係なんですよね。
結論を先取しますが極道にとっては破壊の八極道は一人一人それぞれに特別な想いを寄せて大切にしている仲間である、と思います。
【ガムテ】
事実がどうであろうと、例え同志の孔富が言おうと、自分の息子である。
まぁ伝統的な極道的には血の繋がりよりも濃いのが盃の絆なんで、絶妙にちゃんと極道しているんだよなこの漫画とこの人……。
よって、凡そ余人には理解し難い父子としての愛情が極道とガムテの仲にはあり、ガムテの殺意や悪意も文句一つ言わずに受け止めて対処しているのが総理官邸編の極道さん(なおガムテ以外のグラチルの心は平気で踏み躙る)。
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友人の忍者を巻き込んだことに対しても全然怒っておらず「まぁガムテはそういう奴だし、自分がそういう風に育てたし、むしろよくここまでやって同志に対して最高の狩場を与えた。偉い」と見当外れながらも評価しています。
このあたり、友達を巻き込んだことに対してガチギレした忍者とは対照的ですね。
そもそも「怒るって何?」「恐怖が何か教えてくれないかね」と「自分には感情がわからない」と定義する言動を取るのが極道さんですが、総理官邸編や忍者とのやりとりで内面が描かれた分からには、自覚していないだけで情動はちゃんとあります。
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またガムテが本当に欲しかったものは理解していなかった極道さんですが、それが極上の悪意を以て最後の一太刀として浴びせられた途端にちゃんと理解して息子を真意から賞賛し、人間らしい感情の発露をさせています。
一般論で言うと最悪な親子関係なんですけど、こうすることでしか愛情を交わし合えず、そしてすれ違いは起きないとかいう難儀で妙に憎めない連中なのがこの漫画の極道だからなぁ……。
【孔富】
孔富側からの極道の感情は、孔富が登場してすぐにわかりやすく描かれていたのですが、孔富の過去が判明したことで極道からの孔富への感情も描かれることになりました。
それは(まだ明言されていないけれど)「愛する兄弟を奪われた悲しみと怒りへの共感」。
総理官邸編で忍者を「慎太郎」と呼んで脚本家の脚本から外れて助けるほどの愛情と執着心を見せたこと、一方で忍者もフラ☆プリの初回放送を兄と思しき人物と一緒に見ていた記憶が天国への回数券による作用でフラッシュバックしていたことから、「忍者と極道は兄弟である」というのはもうファンたちの間では共通認識。
余談ですが天国への回数券の効能が「服用者のもっとも幸せなモノを見せる」ことを考慮すると、忍者にとっても忍者として仲間たちに可愛がられている現在より兄と一緒に暮らしていた幼児期の頃の方が幸せだった模様。
……極道は孔富に天国への回数券を処方されていたけど、服用たら一体何が見えているんでしょうかね?
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知り合ったのが20歳の大学時代からなので意外にも破壊の八極道の中で付き合いが長く、医療知識や技術を教授してもらいその後も主治医として付き合い続け、劇中では描かれてないですがスポンサーとして孔富の闇医者の活動をバックアップしていたかと思われます。
闇医者は医療界の支援が得られないので最先端知識の交換や医療器具、消耗品である薬品などの補充が満足にできないため、極道くらいの化け物が後ろ盾していないと藪医者まっしぐらですからね……。
ようするに相互補助の関係であった、と(なお美伴が死に接合手術をしたことで孔富は医療界にいられなくなったので、それまでは孔富が自前でなんとかしていた模様)。
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極道からすれば二重の意味で先生であり、喪失感と怒りを共有する仲と、この後孔富が死亡してからどのようなアクションを取るかでさらに評価は変わりますが硬い絆で結ばれていることは間違いないでしょう。
なおそんな仲でもさすがに「ガムテは遺伝子上実子ではない」という事実を突き付けてきたことに対しては突っぱねたので、そこはそれ、これはこれ。
というかこれは明らかに孔富が無神経に過ぎる。普通憤怒ていい。
【MAYA】
MAYAはまだ悪事かましてないので不確定な所が多いキャラクターなのですが。
劇中から11年前の2009年に放送された「フラッシュ☆プリンセス」の挿入歌「Inherit The Love」をデビュー曲とし、この曲は動画配信サイトで200億再生数突破、収録アルバムは8000万枚の売り上げを突破したという設定が11巻のカバー裏短編ノベルに書かれています。
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大のプリオタで、中でもフラ☆プリをもはや聖書のようにしている極道さんが、この点において全く興味を抱いていない方がおかしいわけでして。
とはいえフラ☆プリはアニメなので関わったスタッフは多く、ディレクターや音楽担当やキャラデザに声優などがいる中で、その中でなぜMAYAだけが破壊の八極道になったのかは――まぁ近藤先生が漫画家として無事な限りいずれわかるでしょうから考えるのは放棄します。
うん近藤先生の心身心配だよ。こんなもん描いていたらそりゃ心身共に病むわ。
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とまれMAYAはこれほど世界を熱狂させる歌姫であるにも関わらずとてつもなく自己肯定感の低い女性であり、そうした心に闇を抱え孤独に嘆く者に寄り添うことを信念とするのが極道というキャラクターなので、フラ☆プリに関わっていたスタッフにそうした少女(外見年齢から察するに当時MAYAは十代だったかと思われる)がいたのなら、まぁ接触しても全然おかしくないわけで。
先述したガムテの台詞通り、極道は話術で以て人の心を動かす技術これ自体が極道技巧と評しても過言ではないレベル。
MAYAの孤独を理解して寄り添い彼女が極道を「推し」として心の支えにしたのだろうということは想像がつきます。
いわば「推し」同士としての関係。互いが互いの無いものを尊ぶ関係。
MAYA自身が世界中多くの人々に「推し」にされているはずなのに、彼女自身は「推し」にしか眼中がないのは、不自然なようでかえってわかるような気もします。
歌姫として多くの顔も名前も知らない人々に感動を与え、心の支えとなり、応援を寄せられるのは承認欲求を満たしてくれるでしょうが、同時にとんでもない圧力が襲い掛かってくる。
ファンたちの期待に応えなければいけないし、謂れなき誹謗中傷を受けることもあるだろうということは今更私が言うまでもない話ですね。
だからそんな芸能界のトップに立つような人物にはプライベートに支える人物がいることが理想なのですが、よりによってそれが極道だった。
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デビュー前後だったと思しきMAYAがその歌声で生きる希望を斗女たんに与えたと思しきシーンがありますが、なぜ斗女たんがいながらにしてMAYAが極道堕ちしたのか、ではなくむしろ斗女たんのようなMAYAによって生きる希望を与えてもらった人たちこそが彼女を極道堕ちさせてしまったのではないか、そんな人たちに歌姫として極道として向き合うスタンスを極道さんが示したのなら――。
【華虎】
華虎ちゃんからは身内とは思えないのですが、もちろん書いていきます。
絶対忍者殴ってブッ殺すマンの華虎ちゃんを正論で殴り返して説得してしまったので、極道さんは華虎ちゃんの「成したいこと」「やるべきこと」を知っているご様子。
それが一体なんなのかはまだわからないのですが
闘争続行に邪魔だからと、慢心への戒めと、自ら小指詰するほどの異常なまでの闘争欲求。
それはもう「闘わねば」となるほどの強迫観念になっている。
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華虎ちゃんは戦後ずっと忍者を殴殺してきた化け物。いや384歳の忍者の長、神賽惨蔵に比べたらまだ若輩でしょうが、華虎ちゃんは華虎ちゃんでこれで70歳越えのおじいちゃんとか非実在。
彼がなぜ忍者を殺すことに拘泥するのかは未だわからないにせよ「忍者と極道」という作品のテーマである「生まれは選べないが死に方は選べる」「どう生きてどう死にたい?」を照らし合わせると、華虎ちゃんはもう既に天へと逝ってしまった大切な誰かに拳を届けるための闘争を求めているのではないか、と。
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一方で極道さんは「慎太郎」という弟らしき人物を喪ったことが癒えない心の傷となっているようで、大切な人物を喪ってそれでも生きている自分が成すべきことはなんなのか、と模索あるいは暴走しているのは同じと見れます。
ちなみにこれは愛する双子の兄である美伴を喪い、兄の人生を知らず使い潰して自分の人生が拓かれていたことを知った孔富にも通じる点ですね。
孔富は「元々自分たちは一身同体の双子。兄だって本当は怪獣になりたかった。じゃあ一緒に怪獣になりましょう」と願望を叶えて忍者への復讐心を燃え滾らせているので、実は似た傷を持つ者同士なのでは?と。
【火傷の男】
『脚本家』であり『幡随院孤屠』であろうと目されている人物。
そして忍者の長、神賽惨蔵と深い接点があるであろうと目されている人物。
彼はあらゆる点で謎の存在であり、「極道は多重人格で、その一つが火傷男なのでは?」「むしろ火傷男の人格の一つが極道なのでは?」などの説もありましたが、
極道アリーナのシーンではちゃんと極道と火傷男は別人として存在しているので、わかりやすい多重人格説は無い模様(人格移転説とかはまだあります)。
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素直に受け取ると「フラ☆プリの脚本家であり制作の中心を担った幡随院孤屠は世間的には死亡したが、実は生きており、フラ☆プリの熱狂的信者である極道が身内に引き入れるのは当然」とも見れます。
というかあまりにも思わせぶりな伏線が多すぎてこの素直で当然な解釈の方がかえって思いつきにくい。
火傷男は上述したように謎だらけなのでもう放り投げます。
【総じて】
正直極道さん、モブ極道のことなんか心底どうでもいいと思っているでしょと。
まぁそうでなきゃ抗争相手に対して報復などの極道として当たり前のことやるわけないので今更な話なのですが。
「極道は孤独な者の居場所」「自分は孤独な者の味方」を標榜しておきながら、平気でモブ極道たちは使い潰す。
そして今まで語ってきたように、身内として本人自身が思っている以上に大切な仲間であり同志である破壊の八極道ですら「極道の明日のために」と死地へと追いやる悪事をかます。
ならば結局極道という男は「孤独な者の味方」という錦の御旗を掲げただけのエゴイストなのか?自分可哀そうに酔った残念なプリオタなのか?
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いやいやそんなことはないのです。
なぜならば「生まれは選べないが死に方は選べる」ことが忍極のテーマの一つである以上「例え同志であり仲間であろうと、破壊の八極道のしたいことは全力で支援し応援してやることこそが極道の目的だから」となるからです。
その結果待つのが死であるとわかっていても、仲間が求める最高の死に場所を与え、そして彼らの孤独の辛さを理解できない堅気に対する復讐となり、そんな堅気を守るために戦う強者である忍者への挑戦になる。
破壊の八極道とは、彼らを束ねる極道とは、非常に不器用で他人様に迷惑をかけるやり方でしか自分の想いを世間や社会に訴えることしかできない人物たちの集団であり、そんな彼らにだけ極道は手を伸ばす。
彼の定義する「孤独な者」とは「誰とも共感できない自分だけが理解できる」人物たちであり、その互助会であると。
だから彼らの意思をどんな形であれ尊重する。
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以上色々述べましたがそんな極道は
まぁこう思われても仕方無ェなァって意見もまぁわかります。
でもそんな堅気に対して極道はこう返す。
そんな不毛なことにならないよう、振り上げた拳を、その手に握る刃を、誰かに刺すか自分に刺すかする前に、素直に「助けて」「理解って」と言え
たらいいんですけどね……。
でも言えなくても、この漫画は極端化されているだけで破壊の八極道と同じような辛さを抱える人たちは多くいるわけだからこそ、売れているわけで。
ならば堅気の我々は極道にならないように他者や社会に助けを求め、同時に極道を生み出さないためにも「孤独な者」の辛さを否定せずせめて寄り添うことこそが、忍者でも極道でもない我々にしかできないことじゃないかな、と。
私はそう思うのですよ。