鬼滅の刃 強くあらねばならないという弱さ
久々の鬼滅記事です。
【最初に】
忍者と極道を題材とした自筆した記事でよく触れているテーマに「強さ」と「弱さ」がある。
そもそも鬼滅と忍極はよく比較されるくらいにテーマが似通った作風である。話の内容うんぬん以前にお互いよく首が飛ぶ漫画だからな……。
とまれ、強さと弱さというのはバトル漫画のみならずあらゆる点で論議に挙がる話題である。
当然、私もまたそれに一家言持っているので、今回はそういうお話である。
【最初に持論】
私は思春期の頃に読んだ「ブギーポップ」シリーズの直撃世代である。
で、このブギーポップシリーズの中の1タイトルであるエンブリオ侵食の序文があるのだが
そしてこの「エンブリオ侵食」の下巻的存在である「エンブリオ炎生」で、一度「最強」フォルテッシモに敗れた「イナズマ」高代亨がリベンジを果たした直後の台詞がこれである。
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で、大体同時期に同じく電撃文庫で発行された作品なのだが
こちらは実本を部屋の奥深く仕舞いこんで作中引用がきちんとできないのであらすじを書くのだが。
ディーは守ろうと思った人のために赤の他人を斬ったが、それはディー自身が守りたかった家族その人だったのである。
結果、ディーは何もかも失い苦悩する。
「強さとはなんだ?」と。
【強さへの疑問】
思春期の頃に立て続けにこういった「強さと弱さ」をテーマとしたラノベを読んで、私は二十年経過した今もまだこの「強さと弱さ」を考え続けることになった。
たぶん、今の若い人たちも同じく鬼滅を読んで「強さと弱さ」を自分なりに考える機会を得られる人も多いであろうとも思う。
ただ、私は鬼滅作中で論じられる「強さと弱さ」についてどうにも納得しがたい部分が多い。
1000文字以上かけてようやく前置きが終わったことに我ながら呆れるが、これでも前置きです今から本題です。
【強さへの渇望の末路】
今まで炭治郎が、鬼殺隊が強くならんと鍛えてきた展開を何年もかけて描き続けてきて、鬼滅の終盤は怒涛の勢いで強さを求め続けた鬼の哀れな末路を描いている。
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狛治の強さへの渇望の本質は、弱者がさらなる弱者を虐げる憎悪、そして何よりそんな弱者から大切なモノを何一つ守れない弱い弱い己への自己嫌悪だった。
巌勝の強さへの渇望の実態は、弟への愛情と羨望と憧憬と嫉妬の裏返しに過ぎなかった。
他にも獪岳もそうなのだが、無限城決戦で対決した鬼の多くは「自分の弱さに対して向き合えず、鬼という強さに逃げた」代償を支払う結果が描かれている。
【生命を賭けて得る強さ】
鬼滅のテーマの一つには
「完成された個」と「不完全な群」
「永遠の個」と「継承される血や技や意志」
「先天的な強さ」と「後天的な強さ」
といったものがあると思う。
主人公の炭治郎は全て後者の方で、とくに天才型の強さの者が多い柱と自分を比較して、その穴を埋めるべく努力と鍛錬を大事にしている。
しかしその結果がコレである。
百倍の力の代償がタダのはずもなく、痣を発現させた結果炭治郎は妓夫太郎戦で若くして夭折することが確定してしまった。
この当時その代償に自覚はなかったとはいえ、明らかに異常な高熱と心拍数を維持して繰り出すリミッター解除が健康に良いはずが無いのは生物的本能で察せられるレベルのヤバさである。
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以前書いた記事でも言及したのだが、私はこんな無謀無思慮に命を賭けることは本当の強さではないと思っている。
炭治郎は確かに大して強くない剣士だ(った)。
だが生まれ持った嗅覚と、その嗅覚を媒介とした超能力的な共感性は、はっきり言ってただ鬼の首を刎ねるだけにしか使えない剣腕なんぞよりはるかに価値があるものだと思う。
オマケに炭治郎は平時では温和でお人好しな人当たりのいい少年なので初対面の相手とも打ち解けやすく、これらの能力を総合すると昼間に鬼の被害地と思しき場所で情報収集役に徹した斥候こそが天職であり、戦わずして鬼殺隊を支える「隠」に近い立場の方が組織に貢献できたはずだろう。
ぶっちゃけコレは人生経験の浅い炭治郎が悪いのではなく鬼殺隊が悪いのだが、そんなことに微塵も劇中で触れていないので究極的にはこういったことに触れない気付けないワニ先生が悪いというお話になってしまう。
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後方支援役はそれはそれで心理的に辛いことも多いだろう。
組織に貢献しているのに給与は少なく、現場で鬼を斬る剣士たちには蔑視されやすく、それでいて鬼が暗躍している場所で働くので結局は命の危険性が常にあるというかなり損な立場だ。
(実際に善逸は遊郭編で潜行偵察任務をした結果、生還できたのが奇跡といっていいレベルの危機に逢っている)
それでも、単純な強弱では評価できない己の長所の希少性を理解して、無力さを噛み締めながら死地からみっともなく逃げ出し生き残るというのは間違いなくある種の強さだと私は思う。
【己の価値を知らぬ者は強いのか?】
鬼滅を読んでいて強く強く本当に強く疑問を覚える点がコレである。
炭治郎はすぐ命を賭けてでも赤の他人を守ろうとする。
だが、彼は忘れていないだろうか?
炭治郎がもし戦地で死んだとしよう。
その結果残された妹の禰豆子は、鬼殺隊という組織の中で保護者がいなくなった鬼の禰豆子はどうなる?
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いくらこの後恩師の鱗滝さんと冨岡さんが取りなしてくれたとはいえ、禰豆子の立場が大変危ういことになんら変わりはない。
唯一生き残った大切な家族の妹を守りたいなら、炭治郎は仲間の鬼殺隊から禰豆子を守るために決して死んではならない。
一方で、鬼殺隊の中で成績も挙げなければ、禰豆子が処分される可能性だって常にある。
この矛盾と葛藤を抱き、それでも決して心折れずに運命に抗い続ける。
そういう話であれば私は鬼滅という漫画は実に名作だと褒め称えたいのだが、実際に劇中で描かれたことといえば炭治郎は一時の激情で喚き散らしながらポン刀振り回し、妹に助けられたり妹の暴走を土壇場で止めたり妹に蹴っ飛ばされたり単に運が良いだけで自分と妹の命だけは助かったりしただけに過ぎないように、私には見える。
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そもそも炭治郎は大変に運が良い。
恵まれている。
本人は自分に剣才が無いことに劣等感を抱いているが、貧しいながらも愛情豊かな両親の下で長男として健康な身体で生まれたという時点で、他キャラの悲惨な境遇を見れば超ラッキーボーイである。
そんな家族を無惨に食い殺されたことは確かに大変な不運だが、大抵の場合は自分一人生き残るか、家族全滅するかの中で炭治郎は妹一人だけは助けられることができた。
この幸運を噛み締め、感謝し、維持することに対してあまりにも彼は無神経になっていないだろうか?
不死川兄は炭治郎にこんこんと小一時間説教する権利と責任があると思う。
そして極め付き、彼は剣才は確かになかったかもしれないが、異常嗅覚と人脈には恵まれた。
とくに珠世との出会いは彼女の能力や執念を考えればほぼ必然ではあったのだろうが、それでもその有難みを要所要所で彼は思い出していいくらいに、彼女に世話になっている。
本作の不幸な境遇のキャラクターたちの多くは、この炭治郎が得た幸運の一欠片でもあれば、あのような醜悪な鬼や恐ろしい復讐鬼にならずに済んだ者たちがたくさんいただろう。
そのことを自覚せず、ただ我武者羅に鍛えて努力し目の前の人を反射的に助けて戦い続ける。
そんなものはただの自己満足であり、強さとは正反対の現実を見据えられない弱さであるとすら私は評価する。
【弱さの肯定】
鬼滅という作品で足りなかったのは、この点であると私は評している。
確かに、弱さに甘えることは許されない。
だが、強さに溺れたり逃げることもまた破滅を呼ぶだけだ。
ならば、何が必要なのかというと
現在の弱い自分を正しく認識する
弱さを受け入れて、自分には何ができるかを模索する
この二つだと私は思う。ようするに
弱いままではいられないから強くなろうとするのは、裏返しの弱さなのだというのが私の持論なのでる。
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私論の反論としてこのシーンを挙げる人もいるかもしれないが、しかしここで炭治郎が誇らしげに語る「予想外の動き」とは先述したように結局は生命の前借りでやってはならないリミッター解除だった。
もっとメタ的であえて悪意ある見方をすれば「ワニ先生実戦はチームプレイのスポーツじゃねーぞ」と言いたい。
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だが、わかりにくいしワニ先生自身自覚していたのかどうか怪しいと思うのだが、弱さを肯定し、だからこそ暴力的な強さとその連鎖を断ち切れた人物がいる。
この記事で書いたように、それは禰豆子と珠世である。
人間に戻り、もはやかつての力はなく成す術なく兄に食い殺される危険しかなかったはずの禰豆子は、それでも家族愛で兄を人間に戻さんと暴力無しで戦い抜いた。
個人の力では憎き無惨を滅ぼせないと自覚したからこそ、珠世は永い時間をかけて討伐チャンスが訪れた時のために、そして討伐チャンスを作るための兆しをずっと見逃さずに数百年孤独に戦い続けていた。
弱さを内包したまま、弱さを自覚したまま、わかりやすい強さというものに惑わされず、逃げず、自分の目的を決して忘れずに貫徹する。
これこそが本当の強さではなかろうかと。
【メタ的な余談】
上述した禰豆子と珠世こそが、ある意味で最弱にして最強という持論なのだが、こういう展開が最後の最後のラストバトルの後のイベントバトル的な所に持ってこられたこと。
そして鬼滅連載当初の頃の非常に苛烈な弱さへの糾弾。
この二つを鑑みると、鬼滅を執筆しながら実はワニ先生の中でも強弱の価値観に揺れ動きが生まれたのではなかろうかと私は妄想している。
途中で担当編集者が変わったというのもあったらしいのだが、無限城決戦編あたりから鬼滅の面白さは爆発的に盛り上がっている。
ワニ先生が漫画家として成長を遂げたのだろう。
だから、私はワニ先生はこのまま終わっていい作家ではないと思っている。
彼女はこのまま粗削りな鬼滅の刃という作品の過剰評価という刃に滅ぼされていい作家ではない。
人の心を穿つ恐るべき確かな才能を持つ作家だ。
「鬼滅に比べてつまんねーな」「もう才能枯れたんだろう」などと言われながらも、これだけ売れたのだから経済的にも仕事をする必要がなくとも、それでも何かを描いてほしい。
それこそが作家としての本当の強さじゃないのかと私は思っている。