創作における人喰いにつひて
読書の秋、芸術の秋、食欲の秋と言いますがさて皆さん残暑がここ100年レベルでキッツい令和5年の秋……秋?をどう楽しんでいらっしゃられるでしょうか。
今回は食欲の秋がテーマ!
ヘッド画像はグロテスクにならないよう暗喩のザクロをお借りしましたが、食欲減衰してもおかしくない記事内容なので、ご注意を。
というか本当にダメな人はダメな漫画のスクショ画像を貼っていくので、引き返すなら今のうちです。
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物騒でグロテスクな記事タイトルでありますが、フィクションにおいて「人間が食べられる」描写は子供向けの作品の時点で結構多いです。
日本の童話に鬼が出てきたらまず人喰い鬼であることが基本です。
基本すぎて、人を喰いそびれるエピソードの方が多いですね。
というか、主人公が食われてしまっては話にならないので安達ケ原の山姥よろしく、食べ終わった後の人骨や本人(人?)の「人間臭いぞ」などの発言などで人を喰う存在だと示唆するに終わり、マジで喰っているシーンのある童話は……まぁありますけど、情操教育を考慮され省略されがちです。
で、フィクション、サブカルにおいての「人喰い」描写については、私は趣味嗜好にこだわりがある方で悪趣味なお話ですが興味のある方はお付き合いくださいませ。
【残虐無惨残酷非道】
大人気少年漫画ではここ十年くらいでカニバリズム描写がグンと増えた……ような気がします(個人的な意見です)。
正確に言うと、衝撃的な描写が増えたというべきでしょうか。
進撃の巨人、序盤も序盤のシーンですが数年の訓練で苦難を共にし友情を深めた仲間たちが、無造作に食べられてしまう絵面は本作がいかなる漫画かを明確に物語りました。
鬼滅の刃でも食人シーンはグロテスクに描写されており、読者の生理的嫌悪感を煽ってきています。
ただ「衝撃的でグロテスクなシーンを入れたら売れる」わけではなく「衝撃的でグロテスクなシーンがあっても、少年漫画として受け入れられる世の中になった」と考えるべきでしょう。
一応昭和末期でも北斗の拳とかデビルマンとか人喰っているよりある意味もっと衝撃的でグロテスクな絵面の名作はあるのですが。
たぶん20世紀時代の少年漫画家も「バリバリに食人シーン入れたくってたまらないぜ!でも編集が許してくれないから別に変えたり婉曲的表現で我慢したぜ!」って作家は少なくなかったかと。
【なぜ残虐と感じるのか】
別に人が喰われている描写に限らず、肉食動物の補食風景も慣れていなければ、大体生理的嫌悪を覚えるのが普通の感性でしょう。
私だって好き好んで瀕死のネコがカラスに啄まれている様子は見たくねーですし、クマさんがシャケを無造作に狩りとってムシャムシャしていたり、ハチに刺されるのもお構いなしに巣を破壊してハチミツをナメナメしているのを見ると空恐ろしいです。
また、ウチの故ネコがネズミやゴキブリを仕留めてハラワタや脚を床に散乱させていた時はうぎゃあとなりました。二重の意味で(寄生虫!!)。
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そして私自身の生理的な感覚であり、万人が必ずしもそうではないと思うのですが、クジラの補食シーンを残虐に感じる人は少ないと思われます。
クジラはれっきとした肉食獣です。ただオキアミとかプランクトンとか小魚とかを丸呑みしているので、我々の目から見ると「食事をしている」感がとても少ない。共感を抱きにくい。
同じ理屈で、クモやヘビの補食シーンを残虐に思う人も……ちょっとは少なくなるのではないのでしょうか。ヘビも丸呑み、クモは体液を吸い取りますからね。ただクモやヘビはこいつら自体が気持ち悪いという人が多いので絶対見たくねぇって意見は尊重します。(だから動画も挙げません)
そういう意味では蚊の方が例としては適切だったかもしれません。
蚊に刺されて「ウザい」「痒い」と思っても「グロい」と思う人は少なくないかと。
ぶっ叩いて殺して血が付着するとうぎゃあってなることはあるでしょうが。
ニワトリがミミズを啄んだり、カエルがバッタやコオロギを丸呑みしているのはどうでもいい風景の一つでしょう(あんまり見る機会ない世の中になっていますが)。
【生理的嫌悪=共感】
つまるところ、食人シーンが残虐で生理的嫌悪感を覚えるのは、雑食を極めて生態系の頂点に立ったとも言える我々ホモ・サピエンスにとって(人間が把握できない超高度知性生命体はこんな雑文読まないと思うので人間限定とします)捕食者側にも、被食者側にも共感性を覚えるからこそではないでしょうか。
食べられるのは恐ろしいです。ただ死ぬことですら怖いというのに、自分の肉体が食べられて消化されるというのは、普段自分がやっている行為だけにぐうの音も出ない正統で理不尽な死の具現化です。
補食される動物が我々に近ければ近いほど、その様はグロテスクで残虐に感じ、忌避するのは「明日は我が身」を本能的に感じさせられるからでしょう。
そうして生物は、人間は食べられないように工夫し進化し生きています。
【生物濃色、感染病への本能的忌避】
生態系の頂点に立つ我々ホモ・サピエンスは生物濃縮による汚染が強い、という見方もあります。
そうでなくとも、補食することで感染病や寄生虫を取り入れてしまうことも多いです。似た動物どころか、共食いならばその危険性はより高い。
こういった事情もあって、道徳的以外に本能的にも教訓的にも人喰い描写、ましてやカニバリズムをグロテスクに感じ、嫌悪感を覚え、忌避するのは当然と言えます。
より正確に言えば、順序が逆転してこういった現実的問題があったからこそ道徳的にも避けなければいけないのでしょう。
【禁忌ほど甘い蜜はない】
ゆえにだからこそ、人は禁忌を犯したがるのです。
【生食描写と調理描写、どちらが残酷か】
「ンなもん演出次第だよ」という自己結論は出ているのですが、本記事を書くうえで中核となる点はこの点だったりします。
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チェンソーマンの一部ラストで行われた通称「マキマ定食」の衝撃は大きかったことは記憶に新しいことでしょう。
……ちなみに私、チェンソーマンは読めません。そのうえでこの記事書いているのでとんちんかんなことを書いていたら生暖かい目でバカにしてください。
いや試しに読んだのですが
……ここに至るまで丁寧に描かれたポチタとデンジの友情が尊く、一身同体になったとしてももう二度とポチタには触れ合えないし、ポチタが(デンジの一方的な)約束を破ってデンジの命を優先した愛がつらすぎて読めなかったのです。
20年以上も四足歩行動物と一緒に暮らしてきて、それらがやっと全員虹の橋の向こうに渡った後の人間に、コレ読める精神状態になるためには十年単位はかかりそうよ?
閑話休題。
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ともあれ、上述の鬼滅の童麿のように生でムシャムシャ人を喰うのと、デンジが丁寧にマキマさんを調理して喰うのと、どっちがエグくてどっちが残酷かは人によって意見が分かれるでしょう。
調理は人間の持つある意味最強の技術です。
ホモ・サピエンスがここまで発展してこれた理由の二つは、物をブン投げられることと食材を調理できることだと私は堅く信じています。
というのも「調理」とは本来食べられないモノを食べられるようにする、という一種の動物が長い年数をかけて進化して獲得する生態能力を消化器官の外で済ませてしまい、さらには保存貯蓄というこれまたラクダの瘤よろしく生態能力で獲得しなければいけない所までも技術で済ませてしまう正にチート能力。
そのため、調理するという行為は非常に人間的なのです。
その人間的な行為で以て、共食いをする。
理性と狂気の結婚式!
【お料理の秘訣は愛情よ♡】
「愛情を込めた料理」とか「愛情は最高の調味料」とか言いますが、調理という行為にはなぜだか文化的に愛情が関わってくることが多いです。
現実的にはどうだか知ったこっちゃねーですが、本記事はあくまでも「創作、サブカルにおける人喰い描写について」なので、同じく創作サブカルでよく言及される表現は無視できないということを考慮していただきたい所存でございます。
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実際的な話、私は日常的に料理をし続けている毎日を送っているのですが愛情はともかくとして、調理という行為と過程においては「食材」「食べる相手」両者のことを考えなければいけません。
お肉を柔らかくしっとりと仕上げる加熱調理するコツはなんなのか。
食材を傷めず運搬保存する方法はなんなのか。
食べる人の好みや体調に合わせた料理を作ること。
季節の状況に合わせて、食材も料理も臨機応変に変えてゆくこと。
こういったことを突き詰めて考えてゆくと、自然に「食材」と「食べる相手」両者のことを想うようになります。想像力が無ければ日常的な料理は成り立たない(ハレの日に作る凝った料理は知らねーです)。
ゆえに「食材にたいしていただきます」「作ってくれた人にたいしていただきます」と日本人は食事前に料理に手を合わせます。良い文化だ。
それなら「食材」も「食べる人」も両方人間だったのであれば、
それはとっても愛情の籠もった行為なんじゃないのかなって!!
狂気の発想ですね。少なくとも私は調理側も食べる側でもごめん被ります。
でも仮にそう想って実行した人がいたならば、法的には裁かれるべきですが困ったことに私は思考が理解ができてしまう。
まして現実でないフィクションでならばなおのこと。
この「残虐さと愛情」「生理的嫌悪と相手への敬意」という、本来矛盾するものが一つのお皿に綺麗にお料理されて盛りつけられサービスされるのが、人肉調理というフィクションでの表現なのです(毎度そうとも限らないけど)。
矛盾した二つの要素を併せ呑む行為……実に人間的ではありませんか。
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なおこういった食肉に対するスタンスは名作「ミノタウロスの皿」にてとっくの昔に提示されたテーマではあります。
ただ個人的にミノタウロスの皿という作品は、人間と家畜の立場を入れ替えて家畜の方がより道徳的で文化的に優れた知性存在という、ガリバー旅行記の馬の国のオマージュ面の方が強いかな、という感想を抱いています。
補食側も被食側も合意し互いを尊重し合うユートピアを描くことで、逆説的に飽食の現代社会を皮肉った風刺になっているあたりも、カニバリズムの禁忌性とはちょっと方向性が違う気も。
【メタ的な話、人肉調理表現は面倒臭い】
しかし人肉調理という表現は色々と面倒臭いです。
先述した例のチェンソーマンでの通称「マキマ定食」は担当編集さんと藤本先生との間に激論が交わされ、そして藤本先生は己の漫画家魂を貫徹しジャンプ誌上に載せられた次第だそうです。
それほどまでに難しい表現です。当然ですね。むしろ諸手を挙げて賛成する少年漫画編集者がいたらそっちの方が怖い。
まず倫理的にヤバい。大前提すぎます。
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そしてもう一つ問題なのは「調理されてしまった人肉はただの肉料理とほとんど見分けがつかない」という点もあります。
ベルセルクも大概人喰い描写の多い作品ですが、調理して食事をしているシーンは少なく、上述画像でも三ページかけてやっと人肉料理を食べていたということがわかるようになっています。
いちいちこんな悪趣味な描写に紙幅や尺を割くのは大変です。ただでさえ前提として倫理的にどうなのよってお話ですのに。
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これらの事情を顧みると、人喰い描写を描くうえにおいてバリバリ生で食べるシーンばかりになってしまうのは仕方ないと言えます。
言えるのですが、事情も理解できるのですが、人と同じかそれ以上の知性や情緒と技術を持つ存在がフィクションに登場した時、やはり人間だけ生食しているのは個人的に違和感を覚えます。
普段はおにぎりや鮭の粕汁食っているのに、豚だけバリバリムシャムシャ生食する人はそういないでしょう。バキワールドではいそうだけど。
故に、だからこそ、これらの面倒臭さを越えてまで人肉調理描写を入れることには深い意義があるのだ――という謎の熱い持論を持っています。
【余談・性癖こじらせたきっかけ】
東方Projectが原因です。
紅魔郷では一面ボスのルーミアの「あなたは食べてもいい人間?」から始まり、ラスボスのおぜうは吸血鬼で、メイドの咲夜さんに人肉料理だか人の血が混じった紅茶だかをサービスさせていることを示唆するテキストがわんさかあります。
妖怪は人を食べるもの。でも別に、生でバリバリ食べるわけでもない――その意味するところは、人肉調理するというだけでなく恐怖心やその妖怪のアイデンティティを満たす感情を人間から抽出させるという意味もあったわけですが、そんなに設定が開示されておらず同人ゲーと00年代ネット時代にあった特有のアングラ感もあり「美少女が人肉料理を微笑ましく食べる」という倒錯性にやられたのが全ての始まり。
……東方排水溝が無くなって寂しい毎日です。