見出し画像

かつて猫屋敷だった頃の或るお噺

#うちの保護いぬ保護ねこ

というコンテストが行われているので、この機会に見苦しいが本アカウントに合わないお話をさせていただこうと思う。

だが本題は、犬や猫の話ではない。
それを取り巻く、人間の話が本稿のテーマである。

【救うという傲慢さ】

私が普段よく書いていると忍者と極道記事で多引用しているこの炸羅の台詞だが、なぜこんなにこの台詞が私に刺さったのかというと、その実感を味わったからに他ならない。

※※※

あなたは知っているか?

カラスにつつかれて腹に穴が空いた瀕死の猫をどうにかしようとした幼い子どもの気持ちを。
本能的に「嗚呼この猫はもう助からないんだな」とわかりつつも、猫を発見した友達にそのことを言えず無力に看取るしかなかった気持ちを。

※※※

あなたは知っているか?

溝に嵌まってズブ濡れになりご近所総出で助け上げた仔猫はそのままなんの奇蹟も起こらず、低体温で奪われた体力を取り戻せず苦しんで死んでいくのを無力に看取るしかなかった気持ちを。

※※※

あなたは知っているか?

そうやって身寄りの無い哀れな仔猫を預けられる場所だといつのまにかご近所で定着させられ、あちこちから拾った仔猫を押し付けられる人間とその家族の気持ちを。

※※※

あなたは知っているか?

そんなこんなでウチで面倒を見るしかない個体、引き取り先が見つけられる個体、引き取り先が信用できるかどうかを選別する労苦、そんなものを知りもしないくせに押し付けてくる善意と救うという傲慢さに酩酊した人間たちに囲まれた気持ちが。

※※※

あなたは知っているか?

そんな経緯で保護された猫は概ね先天的に弱いのだ。
弱肉強食はこの世の掟だ。
弱いから死ぬのは自然の摂理なのだ。
それでも、その摂理に抗い命を救わんとする、語感だけは美しいがその実態に待っている介護の労苦を。

弱いからこそ手がかかる。
手がかかれば愛着が湧く。
情も生まれる。

でも弱いから、生まれ持って弱いから、生きていること自体が不自然だから。

……そんな別れを、両手の指で越えるほど経験してきた人間の気持ちがわかるか?

※※※

私は、この人生で一度たりとて犬も猫も拾ったこともなければ保護しようとしたこともない。
ただ、そうした家族を支えてきただけだ。
そうした人と通いの獣医でよく会話してきただけだ。

故に私は思う。
救うというのは傲慢なことなのだと。

【キャパシティオーバー】

どう考えても、あの時期は一家庭のキャパシティ限界を越えていた。
何度も私は家人に忠告したのだが、立場の弱さで改善もできず実際に目の前にいる罪の無い命を放り出すこともできなかった。

今は法によって、保護猫や保護犬を引き渡す家庭の条件が細かく定められている。
……のだが、ンなもん全く介さず個人で押し付けにくる善意に酩酊した人間はいるし、これはもう昔の話なので色々と現在とは状況が違う。

保護猫がこれ以上増えるのを食い止めるため、引越ししてその善意に満ちたご近所さんから逃げ出したはいいが、既にいる猫たちは放り出せないし、獣医費用が嵩んで助けられる命も助けられなかったし、そのくせ金がないのもあって避妊去勢手術が間に合わず増えるし、増えた命はやはり放り出せないので面倒見るし、でも弱い個体と弱い個体が掛け合わさって生まれた個体がどうなのかというとそんなものは火を見るより明らかであって――

※※※

生命が尽きるまでの過程を知っている現代日本人は存外少ない。

色々あるが、とくに辛いのは以下のパターンだ。

まず一割くらい身体機能が死ぬ。
早期発見で良かった。今ならまだ延命治療が間に合うぞ。

延命治療はその名の通りである。
三割四割と身体機能が死んでいく。
それを補ってやるのが、命を預かった責任というものだろう。

八割身体機能が死んでも生きている生命の哀れさは筆舌に尽くし難い。
私は、こんなに苦しいのなら、苦しそうならばもうこの手で縊り殺してやりたくなったこととて一度や二度や三度や四度ではない。
結局そんなことは一度もしていないのだが。

やっと死んだ時に安心感を覚える自己嫌悪と、やっと休めるという哀しみはそう何度も味わいたくは無いものだ。

※※※

色々あるが、印象的な話をしよう。

さる茶虎で大柄で人懐こく繊細な猫がいた。
猫の死因の定例で、腎不全だったのだが、よく面倒を見ていた私に懐いていた。

お前の苦しみの根元を取り去ってやることができないのだと、だがその苦しみを少しでも緩和することはできるのだと、点滴や投薬や強制給餌など辛い目に遭わせざるを得ない日々が続いていた。

ある日を境に、ヤツは家中誰かを探し回るようになった。
それは最初は私だった。
だが、末期の頃は私ではなくなった。
今の苦しい介護という名の拷問を加える冷酷な私ではなく、優しく一緒に無邪気に遊んでいられたあの日の私を探していたのだと、ボロボロの身体で誰かを探し続け、私に対して抗議の声で鳴くヤツを見て私は悟った。

……結局ヤツは、家族がふと目を離した僅かな隙を狙ったかのように逝った。
人懐こいが、ヤツはプライドは妙に高い猫だった。
今までヤツ自身も多くの猫を見送ってきただけに、あんな送られ方はされたくなかったのだろうと私は解釈している。

【まつりばやし】

「3丁目のタマ うちのタマ知りませんか?」屈指のトラウマエピソードと名高いアレである。

この話で印象深いシーンはいくつもあるのだが、恐らくこのお話を製作指揮したスタッフは猫の死を看取った経験があるのだろうと思う。

ノラ「寒いんだ」
タマ「え?こんなに暑いのに?」

……弱った身体では体温が下がっていく。
目ヤニや鼻水が固まり、本にゃん自身たまらなく不快なのだろうがそれを自ら取り払う体力も気力も無い。

人間が大体なんとかしてきたが、ウチはこういう環境で、そして長年君臨してきたボス猫はとても面倒見が良く死神がすぐ傍にいる猫に最後まで寄り添ってくれた、頼もしい方だった。

そして同時に、死の匂いが濃厚な個体に多くの猫は寄り添えなかった。
親しくしていた個体ですらも、遠巻きにジッと死に震える友やきょうだいを見据えているだけだった。
弱く生まれついたが故にもっとも死との付き合い方を誰よりも知っていた猫がいたのだが、そうした時の彼女はソレに寄り添うと自分も向こう側に逝ってしまうのだろうと気づいていたのだと思う。

【終わってしまった話】

ウチにもう保護猫はいない。
二十年かけて、やっと、いなくなった。

保護猫が産んで残した最後の一匹が、これを書いている私の周りで今もにゃーにゃー構え構えと鳴いているわけだが、今年で二十歳を迎えたことを考えると、こんなのんきなことを書ける時間もそう長くは残されていないだろう。

※※※

私は運命論者である。

細かくなんだかよくわからないシナリオじみたものが用意されているとかどうかはよくわからない。
だが両手両足の指を総動員してもなお余る、犬と猫の様々な死を見てきて、わけのわからない超低確率で運良く保護されて実にのんびりとした飼い猫ライフを送った個体もいれば、九死に一生を得て日を保たずにあっさりと逝った個体も見たことがある。
苦しむためだけに生まれたとしか思えない固体もいた。

死は最終的に平等にあらゆるものに降りかかるが、境遇も順番も実に気まぐれで理不尽で、その形も不平等で納得がしがたい。
生命というのは人間の意志や技術をはるかに超越した気まぐれな何かに与奪権があるのだと諦めるしかなかった。

二十年抗い続けて、私はもう疲れた。
こんな経験は、自ら望んで覚悟を決めた人間だけがするべきものだ。
手を差し伸べる人を私は尊敬する。
だが、手を差し伸べたつもりで、誰かに放り投げる人間を私は軽蔑する。

結局のところ、そういう話である。

いいなと思ったら応援しよう!