るろ剣90年代版と北海道編は続編だけど別ジャンル 後編
前編記事は90年代版=割とちゃんと当時の少年漫画していたというお話に始終していましたが、今回は現在連載中の北海道編につひて。
【北海道編は『戦闘』ではなく『戦争』】
北海道編の敵はたった一つ。
武装集団組織として完全に統一されている「劍客兵器」。
部隊将の一席たる異號・凍座白哉いわく、その興りと目的は以下。
鎌倉時代、海外からの侵略に備えるために集った護国の士たちが、その目的故に何処にも属さぬ武装集団として、極北の果てたる北海道まで流れ着いた
鎖国が解かれ明治になった現在、いよいよ海外戦争が起こるであろうと判断したため、護国の士たる役割を担うために動き出す
だが自分たちは数百年も鍛え続けてきただけで実戦経験に乏しいことから、実検戦闘と称し、自他共に鍛え上げ猛者を見出すために北海道全域でテロ活動を行う
以上のことは凍座の自白に過ぎないため、彼個人の偏見や彼に伝達されていない目的がある可能性もアリ
この「護国の士」を自称しながら日本政府に対してテロルする行為はツッコミ所しか無いため、永倉新八には
「実検戦闘なんてバカな真似止めて、明治政府の軍隊育成してくんない?そしたらwinwinじゃない」
という至極真っ当な提案をされていますが、それでも止まってくれませんでした。
いわく猛者とは地獄の産物であり、北海道を地獄にすることで猛者を見出すのが目的だとか……意味不明すぎる。
【結局のところテロ集団】
交渉決裂の結果、明治政府からも直々に「劍客兵器はただのテロ集団」とされ、制圧することが求められました。当然の反応すぎる。
しかし、腐っても対世界戦闘を想定して鍛え上げてきた連中なので90年代版に登場した敵組織とは次元が違う強さと面倒臭さを兼ね備えており
真正面からの戦闘のみならず、情報収集・陽動・兵站・諜報・治安破壊・暗殺など戦争するうえでの必須科目をテストしており、有機的な組織活動を実現できている
弱めの劍客兵器ですら十本刀中堅クラスくらいには強い。部隊将クラスともなると、十本刀上位から各編ラスボス相応に強い
少数精鋭が過ぎて生じている人数不足問題はプロの傭兵集団を雇ってカバー
など「実検戦闘=訓練」に過ぎないくせにテロ行為のガチさがるろ剣史上、最凶最悪クラス。
志々雄は復讐と自分の信念を証明するための国盗りであってテロ行為に関してはかなり趣味と嫌味に走った結果失敗、雪代縁はただの剣心個人への嫌がらせであって結果的にテロに近い行為になっていただけなど、今までの敵と違ってテロルへの真剣味が違いすぎるんですね。
なんでこれで護国の士なんだよ。
【対テロ戦はもはや個人戦ではない】
結果、北海道編は90年代版るろ剣では当たり前だった「一対一の戦闘」シチュエーションが非常に少なく、剣心たち政府側の対テロ戦では、律儀に一対一で戦っていません。
乱入、横槍なんでもアリです。
新撰組VS雹辺戦に至っては乱入してきたのは元新撰組&御陵衛士のおっさんたちであり、元々雹辺と戦闘していた銃警官隊と抜刀隊が決着をつける始末。
他にも戦力外と侮っていた観柳&阿爛がガトリングガンを奪ったことで敗北した本多、
互いに一対一で戦っていたつもりが声真似の猿芝居で補助してくれた旭のおかげで時間稼ぎで復活し、逆転勝利できた左之助、
自分の命で作ったわずかな隙と引き換えに必ず斎藤なら凍座を倒すと覚悟を決めた栄次の行動に感銘を受けて退いた凍座、
などなど「一騎当千の猛者を見出すための実検戦闘のはずが、一騎当千でも猛者でもなんでもない者たちの加勢で劍客兵器は敗退している」という方向でストーリーが進んでいるんですよね。
※※※
劍客兵器は、上述したようにガチのテロルをやってくるぐらい、近代戦を理解した武装集団ではあるのです。
しかしまだ明治15年の日本。この数十年後にやってくる非戦闘員の銃後を含めた国家間総力戦という悪夢のような未来はさすがに予想できていないためか、理屈では知っていても一騎当千の猛者という幻想に何百年も浸かってきたためか、取るに足らない弱者を侮ってしまう。
強さこそが全てであり、任務に失敗した劍客兵器を部隊将が独断で始末してしまうなど、個人の戦闘能力に彼らは意識的か無意識か異常に固執してしまっている歪な組織体系を取っています。
そんな彼らが弱者に足下をすくわれて敗北するのは、ある種のカタルシスであり北海道編の魅力の一つとも言えます。
【北海道編は群像劇】
90年代るろ剣本編は剣心の贖罪の旅が一段落つくまでを描いた物語でしたが、北海道編は剣心と同等くらいには明治生まれの少年少女たちである明日朗、阿爛、旭の通称アの三馬鹿が主人公でもあり、
90年代版に登場した時点で危うさを秘めていた栄次は強さと正義を求めて軍人となって登場しメインキャラ扱いになっているなど「幕末で地獄とテロと戦争を味わった中年たち」と「新時代の中で自分なりの生き方を模索する若者」が手を組んで、「数百年も昔の感覚がどこか抜け切っていない自称護国の士」たちと戦う群像劇になっているんですね。
剣心の贖罪は「剣と心を賭してこの闘いの人生を完遂する」なので、生きている限り贖罪は続きます。
でもそれは単に剣心個人のエゴであって、世界は彼も周囲も巻き込んで戦渦を起こし、そしてこれまた剣心のエゴである「自分の目の前では誰も死なせたくない」も無視して、敵味方ともに時代の激流に巻き込まれてゆく。
北海道編はあらゆる意味で「一騎当千の猛者」「幕末の英雄」などという肩書きや強さを無視して逆転劇が起こり得る物語であり、この点はフランケンシュタインでもなんでもない一般人でも最後まで戦い抜いた群像劇「エンバーミング」の系譜とも言えます。
【「本当にお疲れ様」とは】
現在アニメで放映している90年代版るろ剣は、流浪人をしていた剣心の贖罪の旅に一区切りがつき「とりあえずお疲れ様」と妻子に労われることで終わりを迎えます。
で、北海道編が連載開始決定した際にワッキーこと和月先生は「『とりあえずお疲れ様』が『本当にお疲れ様』になる終わりが閃いた」と述べていました。
星霜編のような、死ではない「本当にお疲れ様」とはなんなのかは、群像劇であり強者と強者が闘うだけでは終わらない北海道編の有様を見て、なんとなく見えてきた気がします。
ようするに、剣心や元新撰組などの中年のおっさんたちは
「もう時代遅れのロートルであり、旧時代の負の遺産と戦うことはできるが新時代を拓いたけれど作れない」
「だから新時代を歩む若者の背中を眩しく見守る」
ことこそが「本当にお疲れ様」なんじゃないかと。
明日朗が悪太郎だったように、そして明治以降の世界情勢を考えると歯がゆく見守ることしかできないことも含めて「お疲れ様」という皮肉があるような気もしますが……。
※※※
それにしてもキン肉マンといい北海道編るろ剣といい、21世紀に復活した20世紀のジャンプ漫画の正統続編に「老害」「負の遺産」がある程度テーマに入っているのは、作家先生自身の自戒と未来への希望を強く感じますね。
キン肉マンも北海道編も、さすがにバカ売れした漫画を何十年と描き続けてきた先生が手がけているだけあって、面白い。読みやすい。
でも「こんな小奇麗にまとめるんじゃなくて、お前はお前の描きたいモノを描け!」という叱咤激励をどことなく感じたりもして、このたびの記事は締めさせていただきます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?