私は性善説の信奉者
最初から台無しの前置きをしますが「善悪の概念など時代と場所で変わり、定義も個人次第なので性善説性悪説は水掛け論にしかならない」という意見に私も賛同しています。
それでも敢えて私は己を性善説を推していると定義しています。
人間の本性は善性である。
人間の根源は善であると。
【持論「善」の定義】
最初に書いたように人それぞれで「善」の定義がブレッブレなので、持論の善を提示しなければ性善説は語ることが出来ません。
ざっと挙げると
自己の利益や安全より、他者の利や安全を優先する(利他性)
所属する社会、組織において「善」とされる定義を実行する
性善説の本来の意味合いを考えるなら、一番目の事項しか当て嵌めることはできませんね。
二番目の事項は、ヒトは後天的に社会や組織に属していくものなので性善説を騙る(誤字変換したけどむしろ合っているような気がしたのでこのままにします)うえで、考慮に入れるべき事ではないと定義できます。
しかし、さらなる持論として私はこう考えています。
ヒトは、ホモ・サピエンスは社会的動物である。
人間は社会に属さなければ生きていけない動物である。
依って、二番目の事項「所属する社会、組織において「善」とされる定義を実行する」は性善説を騙るうえで問題なく機能します。
なおこういう論調を詭弁、論点のすり替えなどと言います。良い子は真似しちゃだめだぞ。
【利他性=善と定義する理由】
一銭の得にもならないのに、他人を助けることは善いことだと思うのはひねくれ者でもなければ大体同意してくれると思います。
時と場合とによりますけどね。
「良い子ちゃんぶっている」「点数稼ぎ」「承認欲求満たしたいだけ」などと、利他性に対する反論は陰険ですが、一端の真実を帯びているのも事実です。
依って、この「利他性」は性善説の根拠となるものではない――と性悪説を推奨するうえでは定義できます。
しかし、上述した通りヒトは社会的動物です。
社会に属するうえで、利他的な行動は社会全体の幸福や安全を保証するものとなるケースが多いため、自己より他者を優先することは善なのです。
まぁ「生存本能由来の利他性を性善説の根拠にはできない」という反論もできますけどね。
こういうのだから性善説性悪説は水掛け論になるのです。
実に不毛ですね。私はこの不毛な行為を社会的動物である人間性がとってもよく現れた一面だと思っています。
【所属する社会、組織においての「善」】
さて、ヒトは社会的動物であるため、社会や組織に属さなければ生存できません。
その中での「善」とされる行動をヒトは優先的に取りたがる傾向にあります。故に私は性善説を推すのです。
例えば、学校の教室でA君を無視し、なじり、弱みを握り、暴力を振り、彼の私生活も尊厳もボロボロに踏み躙る行為があったとしましょう。
でもそれは教室過半数の生徒が容認、黙認をしたのなら「善」なのです。
論点がおかしいって?ははーんお前A君の味方なんだ。先生にチクる?エラいねぇ、立派だねぇ、ところでスマホ出せよ。あとちょっとトイレ付き合ってくんない?
ハイこれにてA君を虐げる行為は善性に依るものになりました。とにかくその教室では。あるいはごく少数のグループ内では。
いやいや、そもそもA君が悪いのですよ。せっかく教室の中では一目置かれるB君が優しく接してあげたのに、怯えたり拒否するような態度を取るから。
B君はわざわざ自分の時間を割いてA君と交友を深める好意を寄せてくれたのですから、これは善性に依るものです。それを無碍にしたA君はそれ相応の報いを受けるのが筋なのです。とにかくその教室では。あるいはごく少数のグループ内では。
※※※
私が性善説を強く推すのはこういった事例があるからこそです。
ヒトはわざわざ属する組織、社会内で「悪」とされる行為を進んで行うことの方が少ない生き物です。
いわゆる「イキっている」とされる行為も、特定組織やコミュニティ内で肯定されているのならその内では善です。
不文律の、暗黙のルールという「善」に従って行動する者こそが善なのです。
まぁうっかりそれがわからず「悪」とされる行動を取っちゃうこともありますけどね!でも言われなくてもわかんないそいつが悪いんだよ。ちゃんと教えてあげるのが「善」いことですよね。
嗚呼、なんと素晴らしき人間が生来持ち得る善性に依った、自発的な善意の応酬なのでしょうか!
中指をおっ立ててやりたくなりますね。
【善意は水のようなもの】
道教での言葉ですが、確かに善意は水のようなものです。
いくらでも状況次第で姿形を変え、誰もが掴みきれないのでどうにでも定義でき、あらゆる生物は水が無ければ生きられないのと同じように善意もそうであり、故に奪い合うことで争いが起き、下に流れることで澱みを帯びてヘドロになる。
善意は水のようなものですね。
そういえば、水掛け論という言葉もこの記事では何度か使いましたね。
善意は水のようなものですね。
【ミクロ視点とマクロ視点】
先例では学校でのいじめ問題をあえて露悪的に「人の善性に依るもの」と例えましたが、当たり前ですが学校を出て社会全体、日本の法律に沿って見ればいじめは犯罪です。
犯罪は悪です。
社会、国家という大きな枠に属しその恩恵を預かることによってヒトは生きています。だから人間が自分たちで決めたルールを破った場合、これは間違いなく悪です。
でも、人は入れ子構造の社会の中で生きる動物でもあるのです。
わかりやすく単純化した画像で説明してみましょう。
こんな感じで、個人個人属する場所が違います。
同じ国の国民同士でも属する社会や組織が変われば、そこでの「善悪の定義」は変わるので、ヒトは衝突を起こすモノなのです。
概ね、互いの善意に依って争いは起きます。
悪意の権化としか言いようのない事例も人類史を紐解けば数えきれないほどあり、阿片戦争なども他国の治安や人民を蹂躙してでも自国に利益が得られるのなら、それは善性に依る行為なのだと定義できてしまいます。
【虫眼鏡の使い分け】
性善説を説くうえで、上述画像を考慮するならヒトはその場その場に応じて、囲いの中の善性を使い分けて生きている動物だと言えます。
いじめは犯罪だというのが、国の定めた法律に沿えば適用できます。
依って、「学校、教室という社会と組織」の中では「いじめは善性に依る行為である」としても、国の法に殉じるのであれば犯罪であり悪だと裁くことが……できるといいんだけどなぁ……。
結局のところより入れ子構造の外側部分のルールが優先されるわけではなく、状況に応じて最適解の善意的行為を実行する人が「良い人」と評価されるのが現実であると言えましょう。
状況に応じて属する場所を虫眼鏡でフォーカスするように、都合よく正しく善意を使い分けする、ということは大多数の人間が行っていることです。
つまるところ、この世の人間のほとんどは善人なのです。
善悪の選択があるとすれば、属する組織や社会を選ぶ瞬間や、フォーカスする視点と言えますね。
いじめに加担することによって、「教室」という枠組み内の善人となることと引き換えに社会的、国家的には悪人となるか。
国家に命令された軍人として罪の無い民間人を虐殺し、任務を全うしても社会的、人道的倫理に沿えば人殺しと罵られるか。
……まぁ大体選択肢なんてあって無いモノばっかですね。
【弱者と主張し続ければ善人で在れる】
「持論性善説」の結論としては、こうなります。
常に弱者のポジションに立ち続けることが善人になるコツです。
本当の弱者になってはいけないというのが最大のポイントです。
弱者であるという評価を受け、弱者としての善性に依った行為をし続け、弱者ならではの社会的恩恵や組織補助を受け、国家からは見逃される程度の――言わば小市民。
小市民は善人です。悪意なんてありません。
例えいじめに加担しようが、歩きスマホしようが、信号無視しようが、SNSで炎上している人間を叩きまくろうが、傍から見ればドリルの如く都合良く手の平返ししていようが、善人です。悪意なんてありません。
【本当の弱者は排除されるのが生物的には善】
弱肉強食、適者生存という自然の摂理に沿えば、本当の弱者は排除されることが全体幸福に繋がります。
社会や組織運営の足を引っ張り、生存に余分なコストを支払わせる害悪です。弱さは罪だ。
依って、今まで述べた持論性善説的には、本当の弱者は、小市民になることもできないほどの弱者は小市民から「お前は悪だ」と迫害されることは必然です。いやむしろ、それこそが社会での存在意義とすら言えます。
そもそも、社会的動物ではどうしても社会からの恩恵や補助だけを受け、社会に対して相応の利益を上げていない怠け者が生まれがちです。
そういう怠け者を排除するのは善意による行為です。正義です。弱さは罪だ。
だから私は、ヒトは性善説――善性を最初から生まれ持った生き物だと定義します。
【おわりに】
性悪説をひっくり返しただけの暴論じゃねーか
と言われたら肯定します。
最初に「善悪の定義なんて曖昧」と言ったのはこういうことです。
でも、私としてはこの世は善意に満ちていると考えた方が納得できるのです。
善意じゃなければこんなにも満ち溢れて沈んで澱んだ腐海になんてならないのだと。
ただ私は思うのです。
そんな善意に満ち満ちた腐海の海流に流されて、小市民として善意というさらなる澱みを生み出す人々が何処に行き着くのか。
流れ着いた果てが腐海の底だったり渦潮だったり腐海に住まう強者たるクジラにプランクトンよろしく喰われてしまったりした場合、どうするのか。
少なくとも私は腐った善意の海の底で溺れてあがいて中指おっ立てる生き方がしたいです。