芸術ってなんだ 感性ってなんだ 後編
前回は「感性」を主軸とした話だったが、今回は「芸術」を主軸。
【芸術は足枷となるのか?】
去年リリースされたENDER LILIESは私の中で小さくない衝撃を生み、背景から読み取れる多くの物語とその退廃的ながらも美しい世界観から「これはもはや芸術なのでは?」と思ったりした。
そして「ゲームは芸術足り得るのか?」という議論はとうの昔に世界的に行われていたことを知った。
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この小島氏の論から私は「芸術とかいう金にならない権威がゲームにくっつくとこちとら商売上がったりだからえんがちょ切っておきたい」というのが行間から読み取れるように感じた。
ゲームを作るのにおいて、芸術的センスは必要である。
しかし、ゲームは芸術であると持ち上げられると、ユーザーが恐縮して市場が閉塞する。
つまりはそういうことではなかろうかと私は受け止めたわけである。
【芸術は万人受けしないからこそ芸術なのである】
最初に断っておきたいが、これは私的な偏見に満ちた持論である。
そもそも芸術とは何か?
本稿前半の「感性」のお話では私は「芸術的」なものについて語った。
ここで語るのは歴史から俯瞰した「芸術」である。
人類史において、感性で「良い」と思うものを大切にして何かを表現するというのは、ずっと行われてきたことである。
エジプトの遺跡に眠る壁画しかり、ナスカの地上絵しかり。
ここらへんは信仰と感性がない交ぜになった……というより現代文明が捨て去った感性と信仰が見事に調和した、現代語では表現できない何かが構築されたモノがあったのだろう。
ともあれ、それは芸術ではない。人間という生物種が持つ本能と、信仰という文明が融合した全く別の文化である。
じゃあ芸術は何かってなると、そういう捨て去られたモノや万人が理解できないモノに対して、金持ったインテリが箔つけただけの得体なく実体のない情報概念である。
戦国時代において武将たちの間で茶器が流行ると、ぐんぐん茶器の価値が上がっていった話があるが、アレなんかいい例である。
今世において権威を持った何者かが、独自の解釈でナニかに本来付与されていない価値を与える。
同じく権威を持つ何者かがその価値に共感ないし乗っかると、そこに芸術的価値というものが生まれる。
芸術というのは、芸術的価値の後から生まれる。
これが私の持論である。
こういった経緯を持つため、芸術は誰もがわかるモノであってはダメなのである。
わかる者にはわかる。それこそがステータスなのだ。
これは生きるのに決して必要でない無駄を尊んでこそ良しとする余裕とも見れるし、そういう余裕のない者を低俗で非文化的な野蛮人と見下せる傲慢とも見れる。
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情報の流動が遅かった近代以前では、おそらくこのやり方で芸術というものは上手く金を生み出すことができていたのだろうと思われる。
しかし20世紀以降、凄まじい速さで情報のやり取りが行われる世の中となり芸術的価値というものを語る場が増え、そしてその難解さによって市場価値が以前より落ちてきているのが現状なのではなかろうかと思う。
ざっくり言ってしまうと「わかんないものに価値はない」とはっきり言える世の中になってしまった。
【芸術の定義は変わってゆくのか?】
「感性」は人間が元来持っているものなので、これからも芸術的な素晴らしいモノはたくさん生まれていくだろう。
だが芸術という文化そのものはこのままでは尻すぼみしていくことだろうとも思う。
おそらく、今後どんどん芸術という言葉は忌避されていくと思われる。
文化的価値があるとか、人類史的価値があるとか、そういう言葉にガンガン置き換えられているのが現状なわけなのだ。
芸術では食っていけないとは昔から言われているとおり、定義の変換が行われ続けている最中なのではなかろうか。
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芸術的なものを楽しむ余裕が無い文化は御免被りたいものである。
感性を大事にしない文化なぞとんだディストピアではないか。
だが芸術的なものがわからない者を嘲笑するような文化もどうかと思う。
よって「わからないものはわからない」と胸張って言えるし、それでいて感性で楽しめるコンテンツが溢れている今の世の中は中々どうして素晴らしいのではないかと私は思う。