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「共感なんていらない」という共感が欲しい

割と今回はタイトルそのまんまのお話です。


【サブカルは共感を得るための消耗品】

こんなこと認めたくなかったのですが、私が愛する漫画やゲームやアニメ(たまにしか見ないけど見るとなったら真剣に見る)は、どうも消耗品のようです。
ゲームでは発売日や配信開始と同時に早速遊び、twitterでの感想や生配信などで「共感」を得ますし、漫画では掲載されている雑誌の早売りネタバレサイトが問題になって久しいくらいには感想という「共感」を重視しています。

アニメだと放送時間に合わせて実況中継するのは古くは20年前の2ちゃんねる時代からありました。
バルスでサーバーが落ちるのは共感の力の偉大さの証明ですね!

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ただ、上述の例はリアルタイムでの感想と共感を得るためのモノなのです。
一か月後、一年後、十年後に「その作品に触れてどう思っていたのか」を想定していない。
もちろん、個人の中には深く刺さる棘となる作品も、名作と語り継がれる作品もあります。
先例の「バルスでサーバーが落ちる」天空の城ラピュタなんかは正に何十年も多くの人が認めてきた名作だから起きる現象と言えましょう。
でも「じゃあバルスのシーンで『バルス!』とSNSで唱える必要ってなんなの?共感得るためじゃねーの?」というお話でもあります。

【大衆娯楽そのものが消耗品】

ただ、人類文化史を紐解くと大衆娯楽全般が共感を得るための消耗品であり別に現在のサブカルに始まった話じゃねーって事実があります。

江戸時代ではいわゆる千両役者の浮世絵や、屈強な横綱を題材とした相撲絵なんかがありました。

歌舞伎役者なんかは今で言うアイドルに近いですね。
美人画や春画もありますし、黄表紙なんか超下世話な大衆娯楽本です。
瓦版とかもう正に消耗品のゴシップです。

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こうなると海外を見渡してもオペラなどの劇場に出演する俳優たちや、新聞紙に吟遊詩人たちが伝える歌なども大衆娯楽であり消耗品であったと言えます(オペラはちょっと高級すぎるかも)。

そして古今東西どちらでも在り、そして現在はタブーとなっている見世物小屋は、経営側はともかくとしてお金を払って見る側は完全に見世物にされているモノを消耗品として扱っていました。

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今まで挙げた娯楽は、全て製作者や経営者に演者は必死でした。
高潔な志を持って、大衆に自分の意志を訴えようという製作者や演者も少なくなかったでしょう。
でもそんなもん伝わらなくても生きていけるし、明日の天気の方が重要だったりしますし、結局大衆娯楽とは「一時の共感」を得るための消耗品で終わることがほとんどなのです。

とは言っても、私は搾取はダメだけど消費文化自体はOKだという考えなのでようは
「歴史的に見てサブカルが消耗品扱いされるのは正しいと理解はしている(納得はしたくない)」
という結論に行き着きます。

【行き過ぎた共感は集団心理の暴走に繋がる】

これは今更私が言うまでもないことですね。
大体は逆のパターンで「集団心理を利用して目的を果たすための道具として『共感』という快感を使う」方が定例パターンです。
平和なところでは商品の売り上げ、物騒なところでは戦争や虐殺の言い訳として共感は使われます。
「チーム一丸となって〇〇を果たそう!」という学生生活から社会人に至るまでの綺麗事は正に共感を道具としたものです。
それの接着剤替わりに私の愛するサブカルを共感の道具として使われるのが腹立つ。

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娯楽と言えども、そこに人生の糧となるモノはあります。
人によっては人生の心の支えとなるほどの『答え』を得ることすらあります。
でもそれは自分自身で見つけてほしいし、大切な宝物として抱えてほしい。
他人の感想、他人の考え、他人の言葉を受けて「私もそう思う」や、
あなた自身の感想や考えを他人に押しつけて「お前もそう思うよな?」なんてことには使ってほしくない。
他人の共感で得た娯楽作品の言葉やテーマを人生の支えなんかには、絶対にしてほしくない。

だってそれは「共感」をしない人に対する攻撃理由にもなるのですから。

【共感できねー奴は敵だ】

フリーライダーという言葉があります。

元々は「ただ乗り」という言葉で、バスや電車などの公共交通機関において、お金を払わずに利用する人のことを指す意味でした。
しかし、この概念を組織、経済、国、世界とマクロでグローバルに広げて当て嵌めて、人間心理を分析する言葉として現在は使われる傾向にあります。

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まぁこの記事において難しい話ではないです。

「この○○って映画、興味無いけど話題についていけないと困るから見ておくか」

ようするにこれが「共感できない者への攻撃性発露」「フリーライダー探し」に繋がるわけです。

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これが暴論ではないってことはそれこそ共感してもらえると思います。
共通する話題についていけない者の排除、みんなが好むモノを嫌う人が厭われるのはよくある話です。それが嫌だからみんな共感するし、共感しているフリをする。

「フリーライダー探し」をしてしまう心理は人間が群れで生きる生物である以上、必ず必要な本能です。
貢献しないのに恩恵だけを受ける者を不平等だと思うのは当然の心理です。そんなヤツばっかになったら組織も社会も立ち行かないので、見つけて是正させたり排除しなければいけないのは仕方ないことです。
でも厄介なことに「フリーライダーを見つける」こと自体が貢献になるという心理がどうやら人間には備わっているらしく、さらに厄介なことに「フリーライダーをみんなで排除する」という行為自体も強い共感を覚えてしまうのです。

結果起こる悲劇に喜劇に惨劇が「共感できねー奴は敵だ」になるのです。
本能が命じる「フリーライダーを見つけてマイナスを無くす」はずの機能が「共感を得るために居もしないフリーライダーを作って引きずり出す」になっちゃっているんですね。
スケープゴートという言葉もあります。

【でもこの記事自体が私が共感してほしいこと】

そしてタイトルに戻り、さんざん「共感」を否定してきておいて、でもやっぱりこんな記事を書くこと自体が「なぁ誰かわかってくれるよな?」という共感を求めているという矛盾が生じているわけです。

今まで書いてきたヴィランが好きだという記事も正に「共感なんていらないという共感が欲しい」という自己矛盾の発露です。

忍者と極道の極道(きわみ)さんの台詞に共感を覚えるのも正にソレ。

私自身も結局は愛するサブカルを共感の道具として使っているに過ぎない薄汚い人間です。

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でも、だからこそ「それは違う」「アンタの考えには共感できない」という想いが発露したのなら、それは大事に大事にして、攻撃するための武器ではなくあなたがあなた自身らしくあれる糧にしてほしい。

逆に「わかる」「私もそう思っていた」という共感があるのなら、それは私の言葉だけに捉われず己自身の大切な宝物に昇華してほしい。

私は「共感なんていらない」という共感が欲しいけれど、でもただそれだけの、噛み付き合いにも、傷の舐め合いにも終わってほしくなんかないのです。

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