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食べるということは生きること 生きるということは文化

年末年始は何かと食べる機会が増えます。
そういうわけで今回は「食べる」と「文化」は切っても切り離せない、という持論についてのお話になります。


【料理とは人類最強の技術】

この論は割と一般論レベルで認知されているかと思います。
しかしものすごくシンプルにまとめた一言なので、大雑把にまとめると

  • 食べてエネルギーを得ないと基本的に多くの生物は死ぬ

  • だから生物は食べることにリソースの多くを割く

  • 料理とは極論食べられないモノを食べられるようにする技術である

  • 結果、人類は他の生物より多様な食物を摂取することで繁栄した

まぁこんな感じです。
多くの動物はその種に応じて食べられるモノが限られています。人類も生食においては限界がありますが、料理や調理を挟むことによって食べられるモノが格段に増えます。

現在、肉類等の生食は危険と認識されています。なぜなら食中毒や寄生虫などの心配があるからです。そのため生食可能な肉類等はそうあるように安全性が管理されて市場に出荷されています。
でも調理することで殺菌、寄生虫を取り除くことで安全性の確保が可能です。
これこそが食べられないモノを食べられるようにする技術です。

【「食べられないモノを食べられるようにする」の広義的解釈】

動物性たんぱく質の摂取の安全性確保を例にしましたが、「食べられないモノを食べられるようにする」とはこんな生やさしいものではありません。

「煮ても焼いても食えない」という言葉はありますが、そういう場合は「腐敗」という微生物の干渉をコントロールする「発酵」技術を駆使することで食べられるようにしたりします。
さらには発酵に、煮炊きや焼いたり揚げたり炒めたりを組み合わせたコンボ技を発動させるとさらに食べられるモノが増えます。

逆に乾燥させ水分を抜くことで「腐敗」を抑制コントロールする「干物・渇物」という調理保存技術もあります。
これによってその場では食べきれないほどの余剰食物が出た場合、明日に備えて食べ物を貯蓄保存することができます。
「その日その日食べるモノを得るのが精一杯」とは大変悲惨な状況を表す言葉ですが、人類がちょっと変なだけで多くの生物はそんなもんです。

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さらに人類は上述した技術を駆使してもなお食べられないモノですらも、迂遠に食べられるようにするノウハウを獲得しています。

「肥料」「餌」と呼ばれるものがそれに当たります。
自分たちが食べられない有機物があるのなら、それを食べられる生き物に与えて、その生物を食べる。
このワンクッションを挟むことでさらにさらに食べられるものが増えます。

もはやここまで来ると料理や調理という技術を越えていますので、次のお話に移りたいと思います。

【食べ物の歴史はその土地の文化と歴史】

この食べ物を獲得する様々な手段、技術、文化は土地ごとにできることできないことがあります。

日本は湿度が高く水源が豊かな土地のため、食べ物が腐敗しやすく稲作文化が発達しやすい風土であったと定義できます。
また島国でもあるため海産物や塩の入手が比較的容易な方であり、仏教で肉食が禁じられてもまぁ誤魔化し誤魔化しやっていける国ではありました。
また、そもそも食肉専用の家畜を飼うほどの拓けた土地が、湿地と山地と河川だらけのこの国では得にくかったという所もあります。
あくまで牛馬は農耕や移動用の家畜であり、野生のイノシシや鹿を狩るのがちょうどいいバランスだったのでしょう。熊さんはやべぇヤツだからホラ……。

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一方で大陸では、水源に乏しい土地では直に飲めるほど清浄な真水が貴重なため果実や家畜などの乳にお茶や発酵させた酒類で水分を獲得していました。
結果的に牧畜文明が発展する土地もあれば、麦を発酵させて主食にしつつビールやエールにして飲み物にもしたり、葡萄でワイン造ったり……。

このため、各国の郷土料理の歴史を辿っていくとその国の歴史や風土が自然とわかってくるようになります。
もっとも、近代化の時に伝えられず消滅してしまった郷土料理も相当数あるようなのですが。
個人的にはこの「郷土料理を調べることでその土地の歴史を知る」という考え方は、結構気に入っており思わぬところで思わぬ土地と食べ物が繋がって大変面白いです。

【交易と交流そして戦争と略奪】

で、必然的に「その土地で余剰した食料品」同士を交換しあうことで共存共栄をする交易という人間同士の交流が頻繁に、広く行われるようになりました。

これによって各地の郷土料理は文化が混ざり合い、カオスなことになっていきます。
この過程が面白く、同じ食材を使っても全く違う料理になってしまう理由を調べていけば、その土地ごとの風土や元々の文化に根差していることが判明し、大変興味深い。

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一方で交易をしていると、不平等な取引がどうしても行われたりします。
そもそも公正な取引など最初っからするつもりなど無いケースの方がほとんどだったりします。誰だって自分や自分の家族や自分の故郷の方が大切なのは仕方ない。

結果、搾取、略奪、戦争に至ったりします。食べ物の恨みは恐ろしい。

皮肉なことに、この戦争のせいでさらなる新たな食品が発明されたりします。近代で有名なのはナポレオンが発明させた缶詰ですね。
兵士たちの遠征に耐え得るよう保存食品の運搬に工夫を利かせたり、戦争中に食事できるように知恵を働かせたり。

これを面白いと言ってしまうのは不謹慎ですが、しかしそれも人類文明史であるとも私は考えています。

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なお私が衝撃を受けたアフリカ民話の中でこのようなお話があります。

昔々あるところに、人間によって母親を殺された二頭の牛姉妹がいました。
彼女たちは人間に対して復讐をするため相談をします。

妹牛はこう言いました。
「私はこの足で人間を踏み潰し、この角で突き殺してやるわ」

一方で姉牛はこう言いました。
「私は人間たちの下へ行って働くことにするわ。
重い荷物を運び、畑や荒地を耕し、最後には食べられることにする」


妹牛は、母親を殺した人間への隷属を決意する姉牛を説得して引き止めようとしましたが、姉牛の決意は固く止めることはできませんでした。
果たして、妹牛はスイギュウとなりその力強い足と角で人間を殺しました。

一方で姉牛は働いて働いて多くの子どもを産み、彼女の子どもたちも同様でした。
人間はこの姉牛とその子どもたちを大変に重宝し、財産とし、飼うための利権、土地、生み出される資源を巡って人間たち同士で憎み、争うことを覚えてしまいました。

姉妹どちらの牛が多くの人間を殺したのかは言うまでもありません。

文明が決して人間に平和と幸福だけをもたらすわけではないことを諭す教訓話ですね。

【近代から現代では?】

文明が発展した近代から現代では、元々あった郷土料理と新しく入ってきた食文化との融合過程の資料が多く残っており、詳しく調べることができます。
有名なのは肉じゃがとビーフシチューとカレーライスの起源って一緒なのでは説とかですね。

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アメリカは多くの国からの移民と先住民族たちとの衝突で成立し、無理に近代化を進めたためそりゃあもうカオスなことになっています。
超絶的なインパクトを誇るシカゴピザはじめ、アメリカ式ピザはイタリアでは造れたピッツァ用竃が移民当時の技術では再現できなかったため妥協の産物が発展していったものだったりします。

これらを調べていくと「故郷の味が恋しいけど再現がどうやったって無理なんだよう!」という悲嘆が垣間見えたりします。それが今のアメリカ料理になっているんだから皮肉ですが、歴史の闇に埋もれてしまっただけで古代から人類はこんなことを繰り返していたのでしょう。

【創作について思うこと】

で、最後にオタクらしくこういった論の最後に、昨今のグルメ系作品についてなのですが。

食べるということは他の生物を殺すことに繋がっています。
一見温厚に見える農耕文化は、農耕地を維持確保するために自然や人間同士で争う機会が増えるため、むしろより凄惨な事態を巻き起こします。
他の土地から持ち込まれた食料品によって起こった交易と交流が略奪と戦争に繋がるのは上述した通りです。

食べるということは生きるということ。生きるということは文化であり、文化は人間を幸せにするとは限らない。
飽食の時代に生まれた私たちは往々にしてこのことを忘れがちで、そういったグルメ系作品はなんだかもやっとします。

先人たちはそんな風に驕りがちな自分たちを戒めるため、食前において「いただきます」と生産者やこれから食べるモノに対して感謝の意を示す文化を考案しました。
改めて「いただきます」の意志を忘れたくないものです。

なおヘッド画像に引用したこいつは部下を部下とも思ってもおらず非常食くらいにしか考えていない暴君です

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