こころの時代~宗教・人生~「地域がつなぐ“こころとこころ”精神科医・高木俊介」

京都の精神科医・高木俊介さんは統合失調症患者を地域のチームで在宅支援している。なぜ入院ではなく在宅医療を重視するのか。釈徹宗氏を聞き手に、高木医師の半生に迫る。 ♬~

精神科医の高木俊介さん。

高木さんは 医師や看護師
精神保健福祉士などと チームを作り

重い症状を抱える精神障害者が 地域で
生活できるよう支援を続けています。

どうも おはようございます。

高木さんが
この活動を始めたのは 2004年。

患者の多くは 「統合失調症」という

幻覚や妄想が特徴的な
精神疾患を抱えています。

差別や偏見のため 自宅ではなく病院での
長期入院を強いられるケースも多い中

高木さんは 自宅での生活を優先し

地域との接点を保つことが
重要だと考えています。

(読経)

今回 高木さんに話を聞くのは
僧侶の 釈徹宗さん。

宗教学者としても 幅広く活動しています。

地域のつながりを大切にしながら

統合失調症への支援を続ける
高木俊介さん。

その半生に迫ります。

♬~

ここは 高木さんが 在宅訪問医療の
拠点としている 京都のクリニックです。

本日は おつきあい
どうぞ よろしくお願いいたします。

こちらこそ よろしくお願いします。

このお部屋っていうのは どういうふうに
普段 使われてるところなんでしょうか?

このお部屋はですね
普段のスタッフの会議とか

それから改まって 当事者さんや
その ご家族が来られた時に

ゆっくり話をするための お部屋ですね。

その他にも 勉強会に使ったり

スタッフ以外の よその人たちを呼んで
ここで勉強会を行ったりしてます。

高木さんの 現在の活動について
少し お話を伺いたいんですが。

重度の精神障害を持った人に
訪問診療っていうのを行ってます。

その訪問診療も ただ往診行って
診察するっていうんじゃなくて

福祉と医療を総合して いろんな
多職種の人がいるチームで 訪問して

生活の現場で その障害に
なっているものを 取り除いていったり

外に出られない人と一緒に出たり

それから 病気が急に悪くなった時の
応対をするということで

24時間 365日の体制で
やるんですけれども

これは アメリカで始まった方法で

アメリカが
大きな精神病院を 解体していく中で

地域に戻って 支えがなくなってる人を
どうするかということで始まった

「ACT」っていう やり方なんですね。

地域に積極に出ていく
「Treatment」支えですよね 支援。

そういう やり方を取り入れた
活動をやってます。

ACTとは
患者が 地域で生活できるよう

医療と福祉の両面から
支援する仕組みです。

高木さんは 一人の患者に対し
医師 看護師の他

生活に必要な能力を回復させる
作業療法士や

社会への自立をサポートする
精神保健福祉士らと

チームを作って ケアに当たっています。

スタッフが
それぞれの専門性を生かすことで

多彩な支援ができるように
しているのです。

治療や支援の方針は
高木さんが指示するのではなく

それぞれが 話し合って決めます。

20人ほどのスタッフで 京都市内を中心に
およそ150人をケアしています。

いろんなスタッフでやる。

医者なら医者の見方
医者は その病気っていうのは

薬で何とかなるもんだと どうしても
思っちゃってるから 薬だけになる。

でも例えば ケースワーカーは

この人は こういう経済的なことの不安で
困ってるなということが

見れるわけですよね。

そうしたら 医者が薬を出さなくても

その経済的な不安なところを
手当てしてあげるだけで

幻覚や妄想の世界にまで
行っちゃわなくてすむ。

あるいは 幻覚や妄想があっても
とりあえず 現実生活が安心できる。

そしたら 一緒に
やっていけるじゃないですか。

そういうことを考えてます。

在宅訪問医療を受けている人のほとんどは
統合失調症を抱えています。

何を言うてんの?
あっ もう何をするのよ。

ふざけやがって。

統合失調症とは
幻覚や妄想が特徴的な精神疾患で

100人に1人は
発症すると言われています。

周りの人には
理解しづらい症状に苦しみ

誰のことも 信用できなくなるといいます。

統合失調症の人は
現在 80万人いると言われ

地域で生活するための
理解や支援を受けられないことで

病院での長期入院を
余儀なくされる人もいます。

統合失調症というような病気
どのようなものなんでしょうか?

まず分かりやすいもので言えば 幻覚。

つまり 目の前にいない人の声が聞こえる。
それから妄想ですね。

自分は 何かに いじめられている。
何か自分を襲ってくるものがあると。

自分の家の部屋の中にいても
そういう感覚が起こってくる。

特徴的なのは 何か分からない世の中の
全てから 自分が排斥されてる。

世間の何か大きな組織があって
そこが 自分を狙ってるとかですね

何かこう 世の中 組織
世界っていうものに対して

何かこう
すごくこう 不信感があるんですね。

だから世の中 社会から籠もってしまう。

それ以外で言えばですね
思考のまとまりが悪くなるし

我々が 物事を順序立って
考えていったり

冷静に 周りのことを認識するって
いうことが すごく しにくくなります。

そのためもあって
感情的に すごく不安定になりますね。

そういうことも含めて
統合失調症というんですけれども

これ 決して 珍しい病気ではなくて

今 現在 100人に1人はいるだろうと
言われてます。

おおよそ1%くらい。
1%ぐらいの人が。

今 お話伺ってると

人間社会という 大変複雑なゲームの中に
放り込まれてる 我々としましては

一度や二度 精神の変調を起こしたり

あるいは
バランスを崩したりっていうのを

恐らく ほとんどの方が
経験するような事態じゃないかと。

例えば 山で遭難したりしたら
みんな 幻覚 見るわけですよ。

それから 何も刺激のない部屋に
ず~っと 2日3日 監禁されたら

幻覚 妄想 起こります。

そういう誰もが経験して
誰もが ちょっと おかしくなる。

誰もが ちょっと世の中から

引き籠もりたく
なってしまうことに対して

我々以上に より過敏なところがある方
じゃないかなと思いますね。

そうなってくると その方の人生全般を
見なきゃいけない部分もあるでしょうし

その症状だけを 何かでグッと抑えると

うまくいくっていうもんでも
なさそうな気がするんですけど。

ないですよね。 例えば その人が
ほんとに何か言いたいこと

ほんとに苦しいことがあって 病状が出る。

で 周りが あっ これは大変だと思う。
何とかしなきゃと思う。

それを 薬で
その病状の部分だけ抑えちゃうと

じゃあ 周りは これでよかった。

薬をのんでさえいれば
それで いいんだと思うと

今度は その背後にある問題や
その人の人生の 全部の生きづらさとか

そういうことを ほったらかしにしちゃう。

そういうことに対して
目が向かなくなるから

その人にとっては 余計に苦しいですよね。
あっ また再発しちゃったと。

やっぱり これは再発して どんどん
悪くなる病気なんだっていうふうに

本人も 周りも思っちゃう。

統合失調症の経過というのは
非常に バラエティーに富んでて

本当に 予測もつかないし
一人一人 違うんですよね。

中には 幻覚や妄想が全く消えてしまって
外から見たら 全く病気じゃない

治ってるなと
思えるような時もあります。

そういうふうなのが 続く人もあれば
また不安定になるという人があって

ほんとに 非常に
それぞれなんですけども

どんなに悪い人でも すごく落ち着いて
穏やかな時が来るわけですよ。

そういう時っていうのは
どういう時なのかなと思うと

何者からも脅かされずに
安心してるところなんですね。

もし 自分が ちょっとでも頑張って

自分が 「これをしたい」っていうことを
言った時に

すっと受け入れてくれる人が
周りにいる そういう安心感を得てる時

それで穏やかでいる時っていうのが

統合失調症の人が 楽にいられる
よくなってる時じゃないかと思いますね。

完全に
症状がなくなってるわけじゃなくても

症状があっても 安心して暮らせる。
そうですよね。

それが いわば 目指すべき方向
ということでしょうか。

安心して暮らせるし ほんとに
自分のしたいことが言える自由ですよね。

1957年 高木さんは
広島県 因島に生まれました。

医師だった父が 開業することになり
一家は 岡山に移ります。

母は 病院を懸命に支え

高木家は 地元の名士と
うたわれるようになりました。

うちが 病院
内科と小児科の開業医だったんですね。

家は 家と病院が一緒で 1階が全部病院で
2階に家族が住んでて

高度成長に乗って どんどん
町も大きくなって 病院も大きくして

ちょうど開業医が ほんとに

いくらでも お金が
入ってくるっていう時だったですね。

だから 大当てして おやじは
そのお金を 湯水のように使って

まず 写真が趣味で
そこら辺じゅう 写真機だらけで

車は 車も趣味だから
外車が 5台ぐらい並んでるわけですよ。

診察は 患者さんと看護婦さんだけが
何か話してて

親父は 庭で 大きな池つくって
錦鯉 飼ってて

その錦鯉に バンバンって
餌やっているという 田中角栄ですよね。

おふくろはですね 東京の人なんですね。

東京から岡山に来て 知り合いいなくて

棟梁の娘で
気位は すごく高かったですよね。

どうも その岡山という土地が
水に合わなかって

自分は 都落ちしてきたんだと。

しかも 結婚したはいいけど
ものすごい 道楽者の夫でしょう。

でも その開業だから 夫婦でその

妻としては その
経営 守らなきゃいけないわけですよ。

岡山に住んでるっていうことを
すごく何か悔やんでるところがあって

おふくろは それを嘆いてるのしか
聞かないじゃないですか。

自分の人生が うまく
自分の不本意だったことを

全部 僕に
ぶつけてきてたようなとこがあって

僕は そっから
逃げたかったですね すごく。

もう ず~っと おふくろから
逃げることばっかり考えてた。

だから おふくろや おやじとも
口をきかないっていうのが

ほぼ何年も続いて

今になってみればね
感謝するしかないですけどね。

自分を取り巻く環境から逃れたかった
高木さんは 岡山を離れ

1977年 京都大学 医学部に進学します。

大学に入ってからも そういう医学が
やりたくて入ったんじゃないんで

文化人類学の教室に入り浸って
アフリカに行ったり

それから 友人に 水俣病の告発する会
いうのを やってる人がいて

それに誘われて 水俣に行って
ちょっと その支援に のめりこんでたり。

授業とか 大学の授業なんて
ほとんど出たことないですよね。

医学部に進学したあと
精神科医を 目指すことになるんですが

この辺りは 個人的な思いというのは
おありだったんじゃないですか?

京大の精神科と東大の精神科だけが
当時も学生運動の時のやり方を守ってて

教授を追い出して 自分たちで
自主運営を供出してたんです。

もう そういう学生運動も かなり下火に
なってる頃じゃないかと思うんですが。

そうですね 下火でした。
でも 京大は ちょっと特殊で

まだ昼休みになると
ヘルメットとマスクで ゲバ棒 持って

軍事訓練 やってましたけどね。

そういう連中とも
何だか知り合えるわけですよね。

その彼らが
医学部で そういう活動をしてて

勉強して 精神医学をやることは
精神障害者に対する抑圧になるから

精神科に行って遊べと言われたんですよ。
すごい理屈ですね。

本気で言ってるんです 向こうも。

京大の精神科っていうところ
入ってみると

ものすごく牧歌的なところで
広~い敷地があって 庭があって

真ん中に噴水があって
病棟は 開放化されてるから

で 古~い患者さんたちが多いんですよ。

そういう患者さんと
散歩しながら のんびり遊んでて

あっ これは精神科って いいところ
じゃないかって思ったんですね。

高木さんが 医師になって すぐの1984年。

精神医療を問う
衝撃的な事件が起きます。

宇都宮市の
900床ある大きな精神病院で

看護職員の暴行によって
2人の患者が死亡した

いわゆる「宇都宮病院事件」です。

病院内での日常的な暴力や

患者を強制的に働かせていた事実なども
明らかになり

国際的にも 大きな批判を浴びました。

日本では まだ
病院に 完全に収容主義で

その病院は 完全に密室で
その中では 医者や スタッフからの

患者さんへの暴力っていうのが
もう日常茶飯事だった。

それまでも 小さな事件は
いっぱい あったけど

表沙汰にならなかったですね。

で まあ そういうことが 他の病院でも
同じようなんだよっていうことが

どんどん明らかになって

日本は 精神医療 このままでいいのかって
いうのが 宇都宮病院事件で分かって

それはね ちょっと やっぱり
ショックでした。

戦後の高度経済成長期

労働需要が高まった都心に
人が集中します。

同じ頃 精神障害者の 病院への隔離
収容が 国策として進められ

病床数は 増加の一途をたどりました。

1950年代に 戦後の復興から
高度成長が始まって

その高度成長が始まる中で 障害者を
どんどん隔離していくようになった。

これは 産業構造が変わって

地方にいた労働力を
都会に集めなきゃいけない。

そのために 地方で 家族や
コミュニティーが障害者を見てたら

そういう人口移動が できないんで
国策としてやったんですよ。

精神障害者は 特に
そのころは 精神病だから

施設ではなくて
病院が必要だということで

日本中に ばく大な数の
精神病院つくったんです。

いっぺんに 10年~20年で

それまで 1万 2万という
ベッドしかなかった精神病院が

35万ベッド できるんですね。

病院全体の病床数の 4つに1つです。

宇都宮病院事件で
衝撃を受けた 高木さんは

京大病院を出て
大阪の病院に勤務します。

そのころは
精神病院を いかに開放化するか。

その閉鎖的な精神病院で
患者さんは 一歩も外に出れない。

そういう病院から 患者さんが
自由に外に出てもいい

病院にしようという動きが
全国に ようやく広まった頃なんですね。

精神障害者の人権を守ろうということを
考えて

活動している病院というのがありまして
そこの病院に就職したんです。

そこで ちょっと精神医療改革について
やっぱり 自分 ちょっと やろうと。

これ やらなきゃ駄目じゃんかと。

ご自身も志を持って 勤務に着任された。
行ったんですね はい。

で びっくりしました。

着任して すぐに
鍵の束 持たされるわけじゃないですか。

各病室の鍵ですか?
病棟の鍵の束。

で この鍵を 絶対になくしたらいかん

というようなことから
教えられるわけですね。

で 開放的な病院のはずなんだけど

そういう鍵のかかってるところは
まだ たくさんあって

で その鍵を 自分は開けて

病棟に まずは新人ですということで
紹介されに行くんだけど

まあ その病院でも 閉鎖病棟っていうのは
ものすごく何というか 狭くて

においもするし 「えっ これが病院?」
というような感じですよね。

その病棟の中に入れば 狭いところに
ベッドが ずらっと並べられてたり

そのベッドと ベッドの間は ほんとに
野戦病院みたいなもんですよね。

カーテンも何もない
ベッドがある部屋は まだましで

多くの部屋は 畳部屋ですよね。

大きな畳部屋で
10人以上の人が 雑魚寝してる。

当時 あとで知ったんですけども
「超過入院」っていって

病床の120%ぐらいの患者さんを
入れているのが 当たり前だったんです。

もう定員を超える人を 入れている。
そうです はい。

畳部屋の中では
そこも 私物を置く場所ないから

押し入れのとこに
それぞれの人の固まるようにして

自分の乏しい私物を
置いてるわけじゃないですか。

どこに 誰が布団敷くかも
決まってないから

しょっちゅう 場所の取り合いとかで
ケンカが起こっちゃうわけです。

私物を取った 取られた 触ったって。

廊下で寝てるような人もいるんですよね。

そういうところで 当然 すごい もう
密なんてもんじゃないですよね。

ものすごいところに 閉じ込められてて
自由に 出入りはできない。

しかも たばこ一本もらうにも
看護師さんに 頭下げなきゃいけない。

そういう状態だと 精神疾患を
持ってない人でも 大変なストレスで

異様な行動に走ってしまいそうな
気もしますけども。 なると思います。

大変だったのは そんな中で
勤め始めて すぐの頃の当直で

ケンカがあって
頭が割れちゃった人がいて

救急車を呼ぼうかというような
今だったら すぐ そうするような

看護の人も平気で 「けが人が出ましたから
先生 縫って下さい」って言ったんですね。

医学部の学生だったからといっても
今でも縫えるわけじゃない。

そこで 本人の処置をするけど

これ 家族に言わないわけに
いかないじゃないですか。

ところが 次の日の朝に

その加害者 被害者の家族が
両方とも飛んでくるわけですよ。

ああ 来た。 どうしようと思ってたら

こっちが何か言う前に 家族の方が

「先生 お願いですから
病院を追い出さないで下さい」と。

「このことは 絶対に責任も問いませんし
公にもしませんから

この病院に置いて下さい」って。

どっちの加害者の方も被害者の方も
それ言うんですよね。

もう何が起ころうが
捨てられた人たちなんだなと思った。

しょっちゅう暴力沙汰が起こったりしてて
ちょっと聞いたら

「なんだ やっぱり精神障害者って
怖いんじゃない」って

思われる方が いるかもしれないけど

僕が辞める前ぐらいに
病院が きれいに改装したんですね。

それで 超過入院というのもなくなって

どこも ちゃんと プライバシーが
ちゃんと保たれたベッドの部屋になって

そういう病棟に
5~6年目でしたかね なったんですよ。

もう見事に 暴力沙汰が減ったんです
なくなりました。

患者さんが そうやって荒れている。

ほんとに 荒れた状況というのは
実は 環境のせいだったんだなって…。

患者を取り巻く過酷な環境を
目の当たりにした 高木さん。

疑問を持ちながらも 患者に対して 次第に
強い態度をとるようになったと言います。

そのころは 往診に行って
患者さんを連れてくるわけですけど

入院のための往診というのは
たくさんしました。

入院して治療することは
いいことだと思ってたから。

で そういう時でも 自分で
自分で まずは患者さんの家に入って

そこで 最終的に
連れていく時は 自分で手を引っ張ると。

そうやって 自分は いいことをするために
そうやって 力を使ってると思うから

いい気になっちゃうんですね。
だんだんと。

いい気になるとは どういうことですか?
自分は いいことしていると。

自分は これは暴力じゃなくて
必要な力だと思ってるから。

必要なことなんだと。

こうやって 治療に乗せたら
それで 薬のんでくれたら

患者さん よくなって 家族からも

それから地域の その頑張ってた
保健師さんたちからも

お礼 言われちゃうじゃないですか。

ああ 大変な往診だったけど
してよかったなと。

中には 患者さん自身も あの時 先生に
無理やり 連れてきてもらわなかったら

自分は 大変なことになってましたって。

どれだけ嫌がってても 無理やりでも
入院させるのが 家族のためでもあり

本人のためでもある。
そうそうそう。

そういう信念で 自ら先頭に立って
やっておられたということ。

そうですよね。

でも 自分が辞める時に
自分が連れてきて

急性期の病棟で治療して 収まったから

慢性期の病棟に行ってもらった人って
いうのが たくさんいたんです。

そういう人は みんな
例えば 薬は 絶対のまないとか

看護者とも 誰とも話さない。
うずくまって じ~っとしてたり…。

そういう人を 自分が
いっぱい作っちゃってたなというのを

気付いたんですよね。

じゃあ 僕が やってたことって
何だったんだろうなってね。

誰かが誰かに 何かをしないと
いけないっていうことは

それが 病院の中でもあるんだと思って
やってたけども

そういう力っていうのは
本来 英語で言えば forceであって

人を動かす力 人間同士の中で
お互いに使う力なんですね。

ところが それを病院の中で 十分な
説明もなく それをする時っていうのは

同じ力でも violenceになる。

この violenceは
一方が 一方的に振るう力。

日本語では
同じ「力」になっちゃうんだよね。

病院という「力」を利用して
個人に バイオレンスしてたんだなと。

1993年 日本の精神医療に
大きな転機が訪れます。

「精神分裂病」という病名は
差別的として

精神障害者の家族会の全国組織が
学会へ 病名の変更を要請します。

当時 精神医療の在り方に
疑問を抱いていた高木さんも

この運動に 参加しました。

私が 精神科医になった頃には

統合失調症というのは 精神分裂病
というふうに言われてたんですね。

この用語に じゃあ問題ありというふうに
お感じになられたんですね?

そうですね。
もともと その感じた きっかけは

統合失調症の人たちの
家族会の活動でしたね。

精神障害者家族連合会っていうのが
当時ありまして 1992年ぐらいに

いろんな精神障害に対する
差別をなくそうという運動の中で

精神分裂病という名前を変えてほしい
という要望書を 家族会が出したんです。

精神が分裂してる。 「あなたは
精神分裂病ですよ」って言ったら

「俺の精神は 分裂してるのか?」でしょう。

「あの人 精神分裂病だよ」と言ったら

「あっ 分裂してるんじゃ
ちょっと 話はできないよね」って。

そうですね。 何かもう

コミュニケーション不可能のような
印象を持ちますが。

精神分裂病などという
病名を付けられたことによって

本人も家族も
病気の苦しみと 病名の苦しみの

二重の苦しみを負ってるんだと。

自分たちは こういう病気を持ってます。

自分たちは こういう家族を持ってます
ということを

誰にも言えないっていう。

で それが出た時って

「インフォームド コンセント」っていうのが
日本で言われだした頃だったので

インフォームド コンセントを やっていけば

当然 どの医療でも
患者中心っていうこと。

患者自身が
自分の病気について 自分で知っていく。

自分は こういう病気である
ということを知って

医学を利用していかなきゃ
いけないですよね。

これからは そういう時代になると。

で 医学の病名も

我々が いろんなところで聞く
一つの情報になるはずだと。

大事な情報になるはずなんですね。

差別をなくすとかと同時に

これは 研究者 学者 医者としても
その名前を使って

インフォームド コンセントが できるように
ならなきゃ おかしいだろって。

2002年 「精神分裂病」という名称は

「統合失調症」に
変更されることになりました。

さまざまな誤解や偏見をなくしたいという
家族たちの思いが 実を結んだのです。

僕たち人間っていうのは みんな
常に常に 感覚に入ってくるものを

何らかの その場に そぐった形で
統合してるんですね。

統合っていうのは
世界を まとめ上げていくことなんですね。

今 ここが こういう場所で
今 前にいるのが釈さんだということも

ほんとは 僕の刺激に入ってるものが
声も目も バラバラじゃないですか。

それを 今ここで 釈さんという
人間として まとめ上げているのは

僕たちの 精神の働きですよね。

そういう統合を
常に常に していってるわけ。

ところが その統合って

例えば 僕たちは 酔っ払った時に
ふにゃっとなりますよね。

何か いろんな原因で
実は崩れるんですね。

はい。
統合失調症っていう病気は

何かの原因で その統合が
いきなり崩れちゃうことがある。

そうすると
世界に裂け目が出来ちゃって

今 目の前にあるもの
ここにあるものが何なんだと。

こういうふうに 釈さんだったら
釈さんとして まとまってる以外の

いろんなものが入ってきて
どう まとめ上げていいか分からない。

自分の経験の中に
ないものになってしまうんですね。

それを 何とか
言葉で まとめ上げようとすると

妄想になったり
「何か とても不気味なことが起こってる

大変なことが 世界で起こってる」に
なったりするんですね。

そういう統合が
何らかの原因で 崩れてしまったもの。

そこに見える世界が

統合失調症の人が見てきた
世界じゃないかなと…。

ただ 統合失調症っていうのは
ず~っと そうじゃないから

やっぱり戻るんですね 元に。
元に戻って

また あっ 現実 こう
釈さんじゃないかって分かるわけです。

そういう 一貫して
ず~っと あるわけじゃなくて

「失調」っていう言葉だから
失調する時と しない時がある。

崩れる時と 崩れない時があるんですね。

そういう 一貫して
この人が ず~っと そんな状態。

精神分裂の状態なんではないよ
という意味が 「失調」にはある。

私たちも 常に
物事を統合しようとしてる。

でも 時々 その統合が
意識せずに外れることがある。

そういう意味では
僕たちも 統合失調症の人も

ず~っと 薄~く 連続してるはずですね。

統合失調症の人の見てる
世界っていうのは

全く 僕たちと別だ
僕たちから隔絶してるわけじゃなくて

どっかで連続してて 言ってしまえば
みんな 浅く統合失調してると うん。

明確に こう 線引きができるもんじゃ
なさそうな気はいたします。

そういうことも
統合失調症という名前と共に

広まってくれたらいいなと
思いますね。

2004年 高木さんは
統合失調症の在宅訪問医療を始めます。

統合失調症の人を
病院に入院させるのではなく

自宅での生活を続けながら

地域が支えていく仕組みを
作りたいと考えたのです。

♬~

おはようございま~す。
(一同)おはようございます。

高木さんは
より多彩な支援ができるよう

医師や看護師だけでなく

社会への自立をサポートする
精神保健福祉士などを集めました。

それぞれが 専門性を生かしながら
24時間365日 支援ができます。

高木さんは 患者と
信頼関係を築くことを大切にしています。

出会った当時 高木さんの問いかけに
全く反応をしなかった男性に対して

高木さんは ある行動に出ます。

妄想などからくる 緊張で こわばった体を
ほぐしてもらう男性。

その隣で 目線を合わせて話しかけます。

男性の心は 少しずつ解きほぐされ

その後 高木さんと一緒に
食事や外出を楽しめるまでになりました。

では どうも失礼します。

一人一人に合った
寄り添い方をすることで

患者が 心を開くきっかけを
探しているのです。

統合失調症の方にとって
こう 望ましい環境っていうのは

どういうものを
考えられるもんなんでしょう?

やっぱり その人が住み慣れて

その人が ちゃんと自分で
コントロールできる そういう環境。

その中で 病気と対決するのが
いいんだっていうことを

言ってるんですよね。

世界も そうだけど 日本の精神医療は
特に 全然やらずにきたんですね。

で そういう 暮らし慣れたところで
自分が顔見知りの

自分の歴史やら
自分の いろんなことを知ってる

なじんだ人たちが 周りにいる中で

自分が安心できる生き方っていうのを
見つけていく。

幻覚や妄想があったとしても
それと つきあいながら

現実も現実として
ちゃんと見ていけるような生活を

探していくっていうことだと思いますね。

どうも おはようございます。

高木さんたちが
在宅訪問医療を始めた当初に出会った

育子さん。

中学生の頃のいじめが きっかけで
精神的に不安定になり

高校に進学して すぐ
病気が明らかになりました。

(泣き声)

支援を受けるまでの育子さんは
絶えず襲ってくる 妄想や幻覚に苦しみ

何度も 自ら命を絶とうとするなど
入退院を繰り返していました。

おはようございます。

は~い。

しかし 高木さんたちが
在宅ケアを続ける中で

少しずつ変わっていったといいます。

♬「約束を守れたなら」

♬「願いを叶えてあげる」

育子さんっていう方なんですけれども
中学生の頃に 発病されたんですね。

それまでの 発病前の写真を見ても

もう とっても はつらつとして
笑顔がよくて スポーツマン。

中学生の発病っていうのは

早い方になるんですね。
ちょっと早いですね。

まあ 最初… 発病の 初めの頃かな…
で 中学生ぐらいの発病っていうのは

思春期で 自分とは何かっていうことに
すごく悩んでる。 誰でも。

そういう時代じゃないですか。

そこに そういう悩みは
誰でも持ってるところに

統合失調症の人の
統合が 一度 崩れるっていう

衝撃的な感覚を持たれたんですね。

それによって ものすごく こう
興奮したり 感情不安定になったり

興奮したり もう訳が分からないから
暴れるしかなくてって症状が激しくて

何回も
入院を繰り返されてる方なんですが

入院を繰り返しても
なかなか ほんとに合う薬もなくて

合う環境もなくて

入院すると 症状が激しいから
まあ え~… 隔離されちゃうわけですね。

でも 入院になると
ず~っと個室に閉じ込められてる。

で あるいは 大量の薬で
ボーッと なってしまってる。

お父さん お母さんも
そういう娘の姿に見かねて…

で もう 病院で まだ保護室…

病院からの隔離室の中から
出れないような状況でも

もう 自分たちも耐えられない
ということで 退院させるんですね。

病院は とても退院なんて無理だろう
ということで 言ってたんだけども

おうちに戻られて

で もう お父さんお母さんが
それぞれ寝ずに

うん 交代で 付きっきりで
見ておられたんです。

付きっきりで見てても
まあ 本人が興奮したりすると暴れて

壁には 穴は開くわ
夜中でも飛び出すし

それから 何か
その辺にあるもの 危ないものでも

すぐに 口に入れてしまうっていう
病状があって。

育子さんの書いた詩があるっていうふうに
伺ってるんですけども

ご紹介頂けますでしょうか。
はい。

この育子さんの詩は
彼女が発病して… 発病の初期ですから

最初は 非常に また よくなる…
一度 よくなったり

また再発したりですけど

再発して すぐの頃かな
再発して すぐの頃に

よくなった時に書いた詩なんですね。

恐らく 彼女が
病気が発病した時に見た世界

統合が崩れてしまった時に見た世界の
孤独感

そういう世界を
自分しか持ってない孤独感。

そして今でも こういう世界を
ほんとは 抱えてるんだと思うんです。

ただ それを
僕たちに通じる言葉で 今は言えない。

何とか言葉にしたのが
この詩だと思います。

で ちょうど その時に
私が ACT 始めるということで。

我々 私も含めて
おうちに行くんですけど

それは大変で まずは ちゃんと
話をしてくれるなんてないですよね。

というか 言ってることが
何を言ってるのか さっぱり分からない。

で 突然 こう
ピュッと どっかに飛び出しちゃうから。

でも まあ あの…
お父さん お母さんも含めて

もう一緒に
とにかく 見きろうということで

うちの いろんなスタッフが
交代交代で行って

とにかく 何があっても
じっと そばにいると。

で 「大丈夫よ」と安心させてあげる。

そういうことを繰り返してて
ようやく 少しずつ言葉が

何か月も繰り返して

言葉が よくなったのか

こちらが 彼女の言葉を
少しでも 分かりやすくなったのかな。

そういうことですか。
うん 小さな言葉も

小さなことが
少しずつ 分かるようになって。

それが出てくるまで 皆さんが
こう じっと そばに居続けたっていう

この期間が 恐らく 相当大事。
相当だったと思います。

ご家族は その間
大変だったと思いますけどね

そこから だんだんと
いろんなことが できて

もちろん 病気も
相当 悪い時もあったり

薬にも かなり頼らなきゃいけない時も
あったりしたんだけども

だいぶ よくなってから
今度は また 2年後3年後かな

「何がしたい?」っていう時に
「成人式」 ポロッと出たんですよね。

成人式 じゃあ二十歳の時に
出られなかった? してない。

病院の中ですよ。
病院の中だったんですね。

で 彼女に着物を着せて 化粧もして
何人かのスタッフと一緒に

成人式だけど 4月にやりましたけどね。

成人式で 桜の下でね パチッとこう…
そしたら もう ほんとに満面の笑顔で。

そうですか。

このように
具体的な事例を お伺いすると

ACTの活動っていうのが
うまく こう…

我々も こう
イメージすることが できてきました。

例えば 病院にいると
しなくてもいい苦労が

自宅 あるいは在宅で暮らしてると

さまざま 襲ってくるんじゃないか
そんな気もするんですけども。

病院にいると
確かに苦労はないと思いますよね。

3食 ベッド付きで。

でも その分
管理されてる者に従えばいい

そんな生活に どんどん慣れてきたら
病院の中にいてすら

その中で起こることに
対処できなくなってくるじゃないですか。

人間というのは やっぱり
生活する場の中で

いろんな苦労が 襲いかかってきて

それを じゃあ
どうしようかということで

乗り越えなきゃいけないもの

ほったらかしとかなきゃ
しょうがないもの

誰かに 助けを求めなきゃ
いけないものって

そりゃ いろいろ あるわけで

じゃ それを それぞれ どうしていくか
っていうことで成長していく。

「成長」っていうことが おかしければ
それが 人生の生きがいみたいな

何か 生きてるっていう感じに
つながっていくわけでしょう。

苦労が なかったら
生きてる感じもないですよね。

暮らしていれば
当然 引き受けなければいけない苦労を

病院は奪ってしまってる。
奪ってしまってると思いますね。

で もちろん その苦労は

統合失調症のような病気を
持ってる人にとっては

大きすぎる苦労だったかもしれない。

病院で守ってあげることが
よいかもしれない。

でも 生活の場の方に
「じゃ それだけの苦労でも

一緒に苦労しましょうよ」いう人がいたら
いいわけですよ。

一緒に苦労する
一緒に乗り越え方 考えよう

あるいは そこは ちょっと
こっちが取ってあげるから みたいな。

何でもいいんだけど そういう人たちが
一緒にいるっていうことが

大事なんじゃないかと思いますね。

そう考えますと
家族だけが 全て負担するっていうのも

かなり 困難なことになりますね。
そりゃそうだと思いますね。

よく 病院の人が言うのは

退院させたいけど
退院させようとしても

家族が受け入れないよっていうことが
よく言われますよね。

で 例えば ACTの活動
大変 すばらしいと思うけども

もう 入院してくれた方が
楽なんだっていう ご家族も

恐らく おられるんじゃないですか?
たくさん いますね。

それだけの苦労をしてきたし

恐らく 今の日本の精神医療の体制が

ご家族には そういう苦労を強いてきたと
思うんですけども

あの… だから
ご家族も 実は SOSを持ってるんだと。

その ご家族に対する支えが
必要なんだっていうことを

していかなきゃいけないけども

病院に…
病院は そこまでのね 生活の…

家族は 病院の外側にいるから
病院は そこまでのことができないし。

そのために
いわば 地域が関わるっていう

そういう面が
必要となってくるわけですね。

ACTが ご家族の支援を
同時にしてもいいし

ご家族を支援するような…
支援できる人や 組織を

私たちが 家族のもとに
引っ張ってきてもいいし。

お話を聞いてると 何かこう

病気を 何とか治さなきゃいけないって
いうような

何か 結果を出そうというよりは

むしろ そのままで暮らしていけば
いいじゃないかという

そういう方向に聞ける…
お伺いするんですが

私 認知症の方の介護に
関わってるんですが

最初に 認知症って

自分でも知識もありませんし
経験もないんで

ものすごい怖いものだって
思ってたんですよね。

山の斜面に お寺 建ってるでしょ?
はい。

釈さんは 2003年
寺の裏にある古民家を利用して

認知症の人のための
グループホームをつくりました。

昔ながらの
木造の日本家屋での共同生活は

地元の人が遊びに来たり

中学生が
ボランティアに来たりするなど

一つの大きな家のようです。

釈さんが目指すのは

認知症の人も 地域の中で
共に暮らせるような施設です。

とにかく まあ
「認知症だけにはなりたくない」

そのぐらいの気分だったんですけども

ず~っと関わってるうちに
ある日 ふと

「あれ 認知症 あんまり怖くなくなってる」
っていう自分に気が付いて

ちょっと びっくりしたんですよね。

認知症を ひたすら見ないようにしたり
隔離したり

あるいは 恐れるのではなくて

認知症になったら
認知症者としての暮らしがある。

あるいは 統合失調者は
統合失調者としての暮らしがある。

そういう こう ものの見方といいますか
取り組みの在り方っていうのは

ACTにはあるんじゃないかと
思うんですが…。 そうです。

だから 「これは 病気の症状だから

それを取ってしまおう」というのとは
違うし

また 取ってしまおうとして
取れるもんじゃないんですね。

今 いろんな薬が出てて
「この薬で 脳の この活動を抑えれば

病気の活動を抑えれば 治りますよ」と
いうふうに 製薬会社は言うけども

それで治ってる人は
僕は いないと思うんですね。

治ってる人は いろんな偶然
いろんな いいことが

いろんな うまくいくことがあって
薬も含めて

その偶然の いろんな出会いの中で
たまたま よく いってる。

で 僕たちが関わってる重度の人

つまり 今まで
よくなりたいと思ってきたけども

そうじゃなくて
この病気と つきあっていかんといかん

この障害を抱えて
生きていかんといかんというふうに

腹くくった
そういうふうにせざるをえない

そういう方に対しては

僕たちが その人が 少しでも楽になる
少しでも 現実を うまく受け止めて

現実の中で やっていくための
僕らの関わりも含めて

たくさんの偶然を こう寄せ集める。

地域での生活 家での生活
いろんなことがある。

先ほど おっしゃった
かえって苦しいこともある。

そんな生活の中で
偶然の力を集めていく。

その偶然の力が どっかで
彼 彼女を楽にする。

それを 僕らは
引き寄せることを

仕事にしてる感じですね。

さまざまな出会いや
人との関わり合いから生まれる 偶然の力。

高木さんは この偶然の力を
母の看取りで実感したと言います。

実は 私の母も認知症で
最期まで 家で看取ったんですね。

その時の話を
ちょっと させて下さい。

気位の高い母でしたから
介護者に対しても

ものすごく 被害的になったり
攻撃的になったりして

大変だったんですけど

経験や知識もあるケアマネージャーさんと
一緒にやってて

そういう ケアマネージャーさんに
いろいろ組織してもらって

で 24時間体制にしたんですね。

そうしていくと だんだんと こう
ケアを受け入れてくる中で

気位の高い人でしたから

かえって いろいろ ズバズバ
物 言ったりするのが 好かれちゃって。

例えば ヘルパーさんたちが

自分の自宅に うちの親を連れていって
パーティーやったり…。

そうなんですか。

そういうことを
してくれるようになったんですね。

でも それから がんになって
まあ 最期を看取るいう時に

まあ だんだんと
胃がんで食事が入らなくて

水分だけで
見ていってるわけですけども

最期まで すごく機嫌がよくて
ニコニコして

ヘルパーさんたちや 訪問看護の人たちに
かわいがられる存在。

で いよいよ最期だなっていう
時がきて

まあ 呼吸が 下顎呼吸になって
ちょっと乱れてきたと。

これは もう 息子さんを
呼ばなきゃいけないというふうに

皆 思ったらしいんですね。

僕としては すごく もう覚悟はしてたし

みんなが これだけ
よくやってくれるんだから

いつ 亡くなっても そりゃいいよねと。

別に 死に目にあわなきゃいけない
というような考え方 なかったから

のんびりしてたんですよ。

だけど ケアする方は
気が気じゃないわけ。

「息子さんが帰ってくるまで
死ねないわよね」みたいな。

よくある話ですけど。

それで みんなで 「頑張れ お母さん
頑張れ もうすぐ来るから」つって。

「もうすぐ 息子さん来るよ」つって。
で こっちは のんびり行って

まあ そろそろ もう駄目なのかなって
思って パッて開けたら

「ようやく来た~」っちゅうことになって。

で 僕が 母の前に行くんですけども

まあ 母は こっち見たような
見てないような 僕は よく分かんない。

だけど そこで
ことっと 息が切れたんですね。

僕には よく分かんないんだけど
でも 周りから見たら

やっぱり 「息子さんの顔を見て
安心して逝かれました」つって

「すごく穏やかに にっこりしました」。
来るのを待ってた!

「待ってましたよ お母さんは」って
言うんですよ。

どう見たって そうじゃなくて。
たまたま?

偶然 今 僕が…。

でも それ ほんとに偶然なのか
どうなのかって考えるんですよね。

もしかしたら 周りの 緊張して

「これは もう あなたは 息子さんに
会わなきゃいけない 会うべきだ

息子さんが間に合うように来てる」って。

「頑張って 息子さんも 今 走ってるよ」
みたいな

そういう 何か場の力がですね

彼女の… 母の命を
生かしてきたんじゃないかと そこまで。

ところが
僕が パッと入っていった途端に

周りの人たちの方が安心しちゃって

その 命を支えてた力みたいなものが
ふっと緩んだんでしょうね。

で 母も一緒に緩んで
ふっと 逝ったと。

じゃあ その場に集った全員で
その臨終の場を演出したっていう。

そうでしょうね。 それには もう
死んだ時刻まで関わってるっていう

すごい偶然だと思います。

偶然の力が そういう必然の物語を
呼び込んだんだと思うんですね。

♬~(ピアノ)

高木さんたちが支援し続ける
育子さんです。

♬~(ピアノ)

終わり? (育子)うん。
終わりか そうか。

ヘルパーの支援を受けながら
1人暮らしを始めています。

これまで面倒を見てきた
父は3年前

そして 母は
5か月前に 病気で入院しました。

重い症状を抱える育子さんが
1人でも この家で暮らしていけるよう

福祉分野の専門家も
支援に加わりました。

今 福祉制度を利用することで

ヘルパーが2人 24時間交代制で
育子さんの暮らしを支えています。

わ~… やややや~!

高木さんたちが出会った 17年前には

親しい人以外には
心を閉ざしていた育子さん。

地域とのつながりを持ちながら
歩み始めています。

偶然でしか うまく いかないんだけど
偶然を待ってるだけではいけない。

で 偶然は起きるんですよね。

うまくいった時には
必ず 偶然 いい結果をもたらす偶然。

いい結果をもたらす偶然というのは
僕は 奇跡と言っていいと思うんだけど

それは起きるけども
それが起こった時に

それを ちゃんと次に また同じことを
少しでも同じことをできる

そういう見極めが
できる力がないといけない。

♬~

♬~

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?