こころの時代~宗教・人生~「地域がつなぐ“こころとこころ”精神科医・高木俊介」 15 Asao Itaya 2021年5月6日 06:52 京都の精神科医・高木俊介さんは統合失調症患者を地域のチームで在宅支援している。なぜ入院ではなく在宅医療を重視するのか。釈徹宗氏を聞き手に、高木医師の半生に迫る。 ♬~精神科医の高木俊介さん。高木さんは 医師や看護師精神保健福祉士などと チームを作り重い症状を抱える精神障害者が 地域で生活できるよう支援を続けています。どうも おはようございます。高木さんがこの活動を始めたのは 2004年。患者の多くは 「統合失調症」という幻覚や妄想が特徴的な精神疾患を抱えています。差別や偏見のため 自宅ではなく病院での長期入院を強いられるケースも多い中高木さんは 自宅での生活を優先し地域との接点を保つことが重要だと考えています。(読経)今回 高木さんに話を聞くのは僧侶の 釈徹宗さん。宗教学者としても 幅広く活動しています。地域のつながりを大切にしながら統合失調症への支援を続ける高木俊介さん。その半生に迫ります。♬~ここは 高木さんが 在宅訪問医療の拠点としている 京都のクリニックです。本日は おつきあいどうぞ よろしくお願いいたします。こちらこそ よろしくお願いします。このお部屋っていうのは どういうふうに普段 使われてるところなんでしょうか?このお部屋はですね普段のスタッフの会議とかそれから改まって 当事者さんやその ご家族が来られた時にゆっくり話をするための お部屋ですね。その他にも 勉強会に使ったりスタッフ以外の よその人たちを呼んでここで勉強会を行ったりしてます。高木さんの 現在の活動について少し お話を伺いたいんですが。重度の精神障害を持った人に訪問診療っていうのを行ってます。その訪問診療も ただ往診行って診察するっていうんじゃなくて福祉と医療を総合して いろんな多職種の人がいるチームで 訪問して生活の現場で その障害になっているものを 取り除いていったり外に出られない人と一緒に出たりそれから 病気が急に悪くなった時の応対をするということで24時間 365日の体制でやるんですけれどもこれは アメリカで始まった方法でアメリカが大きな精神病院を 解体していく中で地域に戻って 支えがなくなってる人をどうするかということで始まった「ACT」っていう やり方なんですね。地域に積極に出ていく「Treatment」支えですよね 支援。そういう やり方を取り入れた活動をやってます。ACTとは患者が 地域で生活できるよう医療と福祉の両面から支援する仕組みです。高木さんは 一人の患者に対し医師 看護師の他生活に必要な能力を回復させる作業療法士や社会への自立をサポートする精神保健福祉士らとチームを作って ケアに当たっています。スタッフがそれぞれの専門性を生かすことで多彩な支援ができるようにしているのです。治療や支援の方針は高木さんが指示するのではなくそれぞれが 話し合って決めます。20人ほどのスタッフで 京都市内を中心におよそ150人をケアしています。いろんなスタッフでやる。医者なら医者の見方医者は その病気っていうのは薬で何とかなるもんだと どうしても思っちゃってるから 薬だけになる。でも例えば ケースワーカーはこの人は こういう経済的なことの不安で困ってるなということが見れるわけですよね。そうしたら 医者が薬を出さなくてもその経済的な不安なところを手当てしてあげるだけで幻覚や妄想の世界にまで行っちゃわなくてすむ。あるいは 幻覚や妄想があってもとりあえず 現実生活が安心できる。そしたら 一緒にやっていけるじゃないですか。そういうことを考えてます。在宅訪問医療を受けている人のほとんどは統合失調症を抱えています。何を言うてんの?あっ もう何をするのよ。ふざけやがって。統合失調症とは幻覚や妄想が特徴的な精神疾患で100人に1人は発症すると言われています。周りの人には理解しづらい症状に苦しみ誰のことも 信用できなくなるといいます。統合失調症の人は現在 80万人いると言われ地域で生活するための理解や支援を受けられないことで病院での長期入院を余儀なくされる人もいます。統合失調症というような病気どのようなものなんでしょうか?まず分かりやすいもので言えば 幻覚。つまり 目の前にいない人の声が聞こえる。それから妄想ですね。自分は 何かに いじめられている。何か自分を襲ってくるものがあると。自分の家の部屋の中にいてもそういう感覚が起こってくる。特徴的なのは 何か分からない世の中の全てから 自分が排斥されてる。世間の何か大きな組織があってそこが 自分を狙ってるとかですね何かこう 世の中 組織世界っていうものに対して何かこうすごくこう 不信感があるんですね。だから世の中 社会から籠もってしまう。それ以外で言えばですね思考のまとまりが悪くなるし我々が 物事を順序立って考えていったり冷静に 周りのことを認識するっていうことが すごく しにくくなります。そのためもあって感情的に すごく不安定になりますね。そういうことも含めて統合失調症というんですけれどもこれ 決して 珍しい病気ではなくて今 現在 100人に1人はいるだろうと言われてます。おおよそ1%くらい。1%ぐらいの人が。今 お話伺ってると人間社会という 大変複雑なゲームの中に放り込まれてる 我々としましては一度や二度 精神の変調を起こしたりあるいはバランスを崩したりっていうのを恐らく ほとんどの方が経験するような事態じゃないかと。例えば 山で遭難したりしたらみんな 幻覚 見るわけですよ。それから 何も刺激のない部屋にず~っと 2日3日 監禁されたら幻覚 妄想 起こります。そういう誰もが経験して誰もが ちょっと おかしくなる。誰もが ちょっと世の中から引き籠もりたくなってしまうことに対して我々以上に より過敏なところがある方じゃないかなと思いますね。そうなってくると その方の人生全般を見なきゃいけない部分もあるでしょうしその症状だけを 何かでグッと抑えるとうまくいくっていうもんでもなさそうな気がするんですけど。ないですよね。 例えば その人がほんとに何か言いたいことほんとに苦しいことがあって 病状が出る。で 周りが あっ これは大変だと思う。何とかしなきゃと思う。それを 薬でその病状の部分だけ抑えちゃうとじゃあ 周りは これでよかった。薬をのんでさえいればそれで いいんだと思うと今度は その背後にある問題やその人の人生の 全部の生きづらさとかそういうことを ほったらかしにしちゃう。そういうことに対して目が向かなくなるからその人にとっては 余計に苦しいですよね。あっ また再発しちゃったと。やっぱり これは再発して どんどん悪くなる病気なんだっていうふうに本人も 周りも思っちゃう。統合失調症の経過というのは非常に バラエティーに富んでて本当に 予測もつかないし一人一人 違うんですよね。中には 幻覚や妄想が全く消えてしまって外から見たら 全く病気じゃない治ってるなと思えるような時もあります。そういうふうなのが 続く人もあればまた不安定になるという人があってほんとに 非常にそれぞれなんですけどもどんなに悪い人でも すごく落ち着いて穏やかな時が来るわけですよ。そういう時っていうのはどういう時なのかなと思うと何者からも脅かされずに安心してるところなんですね。もし 自分が ちょっとでも頑張って自分が 「これをしたい」っていうことを言った時にすっと受け入れてくれる人が周りにいる そういう安心感を得てる時それで穏やかでいる時っていうのが統合失調症の人が 楽にいられるよくなってる時じゃないかと思いますね。完全に症状がなくなってるわけじゃなくても症状があっても 安心して暮らせる。そうですよね。それが いわば 目指すべき方向ということでしょうか。安心して暮らせるし ほんとに自分のしたいことが言える自由ですよね。1957年 高木さんは広島県 因島に生まれました。医師だった父が 開業することになり一家は 岡山に移ります。母は 病院を懸命に支え高木家は 地元の名士とうたわれるようになりました。うちが 病院内科と小児科の開業医だったんですね。家は 家と病院が一緒で 1階が全部病院で2階に家族が住んでて高度成長に乗って どんどん町も大きくなって 病院も大きくしてちょうど開業医が ほんとにいくらでも お金が入ってくるっていう時だったですね。だから 大当てして おやじはそのお金を 湯水のように使ってまず 写真が趣味でそこら辺じゅう 写真機だらけで車は 車も趣味だから外車が 5台ぐらい並んでるわけですよ。診察は 患者さんと看護婦さんだけが何か話してて親父は 庭で 大きな池つくって錦鯉 飼っててその錦鯉に バンバンって餌やっているという 田中角栄ですよね。おふくろはですね 東京の人なんですね。東京から岡山に来て 知り合いいなくて棟梁の娘で気位は すごく高かったですよね。どうも その岡山という土地が水に合わなかって自分は 都落ちしてきたんだと。しかも 結婚したはいいけどものすごい 道楽者の夫でしょう。でも その開業だから 夫婦でその妻としては その経営 守らなきゃいけないわけですよ。岡山に住んでるっていうことをすごく何か悔やんでるところがあっておふくろは それを嘆いてるのしか聞かないじゃないですか。自分の人生が うまく自分の不本意だったことを全部 僕にぶつけてきてたようなとこがあって僕は そっから逃げたかったですね すごく。もう ず~っと おふくろから逃げることばっかり考えてた。だから おふくろや おやじとも口をきかないっていうのがほぼ何年も続いて今になってみればね感謝するしかないですけどね。自分を取り巻く環境から逃れたかった高木さんは 岡山を離れ1977年 京都大学 医学部に進学します。大学に入ってからも そういう医学がやりたくて入ったんじゃないんで文化人類学の教室に入り浸ってアフリカに行ったりそれから 友人に 水俣病の告発する会いうのを やってる人がいてそれに誘われて 水俣に行ってちょっと その支援に のめりこんでたり。授業とか 大学の授業なんてほとんど出たことないですよね。医学部に進学したあと精神科医を 目指すことになるんですがこの辺りは 個人的な思いというのはおありだったんじゃないですか?京大の精神科と東大の精神科だけが当時も学生運動の時のやり方を守ってて教授を追い出して 自分たちで自主運営を供出してたんです。もう そういう学生運動も かなり下火になってる頃じゃないかと思うんですが。そうですね 下火でした。でも 京大は ちょっと特殊でまだ昼休みになるとヘルメットとマスクで ゲバ棒 持って軍事訓練 やってましたけどね。そういう連中とも何だか知り合えるわけですよね。その彼らが医学部で そういう活動をしてて勉強して 精神医学をやることは精神障害者に対する抑圧になるから精神科に行って遊べと言われたんですよ。すごい理屈ですね。本気で言ってるんです 向こうも。京大の精神科っていうところ入ってみるとものすごく牧歌的なところで広~い敷地があって 庭があって真ん中に噴水があって病棟は 開放化されてるからで 古~い患者さんたちが多いんですよ。そういう患者さんと散歩しながら のんびり遊んでてあっ これは精神科って いいところじゃないかって思ったんですね。高木さんが 医師になって すぐの1984年。精神医療を問う衝撃的な事件が起きます。宇都宮市の900床ある大きな精神病院で看護職員の暴行によって2人の患者が死亡したいわゆる「宇都宮病院事件」です。病院内での日常的な暴力や患者を強制的に働かせていた事実なども明らかになり国際的にも 大きな批判を浴びました。日本では まだ病院に 完全に収容主義でその病院は 完全に密室でその中では 医者や スタッフからの患者さんへの暴力っていうのがもう日常茶飯事だった。それまでも 小さな事件はいっぱい あったけど表沙汰にならなかったですね。で まあ そういうことが 他の病院でも同じようなんだよっていうことがどんどん明らかになって日本は 精神医療 このままでいいのかっていうのが 宇都宮病院事件で分かってそれはね ちょっと やっぱりショックでした。戦後の高度経済成長期労働需要が高まった都心に人が集中します。同じ頃 精神障害者の 病院への隔離収容が 国策として進められ病床数は 増加の一途をたどりました。1950年代に 戦後の復興から高度成長が始まってその高度成長が始まる中で 障害者をどんどん隔離していくようになった。これは 産業構造が変わって地方にいた労働力を都会に集めなきゃいけない。そのために 地方で 家族やコミュニティーが障害者を見てたらそういう人口移動が できないんで国策としてやったんですよ。精神障害者は 特にそのころは 精神病だから施設ではなくて病院が必要だということで日本中に ばく大な数の精神病院つくったんです。いっぺんに 10年~20年でそれまで 1万 2万というベッドしかなかった精神病院が35万ベッド できるんですね。病院全体の病床数の 4つに1つです。宇都宮病院事件で衝撃を受けた 高木さんは京大病院を出て大阪の病院に勤務します。そのころは精神病院を いかに開放化するか。その閉鎖的な精神病院で患者さんは 一歩も外に出れない。そういう病院から 患者さんが自由に外に出てもいい病院にしようという動きが全国に ようやく広まった頃なんですね。精神障害者の人権を守ろうということを考えて活動している病院というのがありましてそこの病院に就職したんです。そこで ちょっと精神医療改革についてやっぱり 自分 ちょっと やろうと。これ やらなきゃ駄目じゃんかと。ご自身も志を持って 勤務に着任された。行ったんですね はい。で びっくりしました。着任して すぐに鍵の束 持たされるわけじゃないですか。各病室の鍵ですか?病棟の鍵の束。で この鍵を 絶対になくしたらいかんというようなことから教えられるわけですね。で 開放的な病院のはずなんだけどそういう鍵のかかってるところはまだ たくさんあってで その鍵を 自分は開けて病棟に まずは新人ですということで紹介されに行くんだけどまあ その病院でも 閉鎖病棟っていうのはものすごく何というか 狭くてにおいもするし 「えっ これが病院?」というような感じですよね。その病棟の中に入れば 狭いところにベッドが ずらっと並べられてたりそのベッドと ベッドの間は ほんとに野戦病院みたいなもんですよね。カーテンも何もないベッドがある部屋は まだましで多くの部屋は 畳部屋ですよね。大きな畳部屋で10人以上の人が 雑魚寝してる。当時 あとで知ったんですけども「超過入院」っていって病床の120%ぐらいの患者さんを入れているのが 当たり前だったんです。もう定員を超える人を 入れている。そうです はい。畳部屋の中ではそこも 私物を置く場所ないから押し入れのとこにそれぞれの人の固まるようにして自分の乏しい私物を置いてるわけじゃないですか。どこに 誰が布団敷くかも決まってないからしょっちゅう 場所の取り合いとかでケンカが起こっちゃうわけです。私物を取った 取られた 触ったって。廊下で寝てるような人もいるんですよね。そういうところで 当然 すごい もう密なんてもんじゃないですよね。ものすごいところに 閉じ込められてて自由に 出入りはできない。しかも たばこ一本もらうにも看護師さんに 頭下げなきゃいけない。そういう状態だと 精神疾患を持ってない人でも 大変なストレスで異様な行動に走ってしまいそうな気もしますけども。 なると思います。大変だったのは そんな中で勤め始めて すぐの頃の当直でケンカがあって頭が割れちゃった人がいて救急車を呼ぼうかというような今だったら すぐ そうするような看護の人も平気で 「けが人が出ましたから先生 縫って下さい」って言ったんですね。医学部の学生だったからといっても今でも縫えるわけじゃない。そこで 本人の処置をするけどこれ 家族に言わないわけにいかないじゃないですか。ところが 次の日の朝にその加害者 被害者の家族が両方とも飛んでくるわけですよ。ああ 来た。 どうしようと思ってたらこっちが何か言う前に 家族の方が「先生 お願いですから病院を追い出さないで下さい」と。「このことは 絶対に責任も問いませんし公にもしませんからこの病院に置いて下さい」って。どっちの加害者の方も被害者の方もそれ言うんですよね。もう何が起ころうが捨てられた人たちなんだなと思った。しょっちゅう暴力沙汰が起こったりしててちょっと聞いたら「なんだ やっぱり精神障害者って怖いんじゃない」って思われる方が いるかもしれないけど僕が辞める前ぐらいに病院が きれいに改装したんですね。それで 超過入院というのもなくなってどこも ちゃんと プライバシーがちゃんと保たれたベッドの部屋になってそういう病棟に5~6年目でしたかね なったんですよ。もう見事に 暴力沙汰が減ったんですなくなりました。患者さんが そうやって荒れている。ほんとに 荒れた状況というのは実は 環境のせいだったんだなって…。患者を取り巻く過酷な環境を目の当たりにした 高木さん。疑問を持ちながらも 患者に対して 次第に強い態度をとるようになったと言います。そのころは 往診に行って患者さんを連れてくるわけですけど入院のための往診というのはたくさんしました。入院して治療することはいいことだと思ってたから。で そういう時でも 自分で自分で まずは患者さんの家に入ってそこで 最終的に連れていく時は 自分で手を引っ張ると。そうやって 自分は いいことをするためにそうやって 力を使ってると思うからいい気になっちゃうんですね。だんだんと。いい気になるとは どういうことですか?自分は いいことしていると。自分は これは暴力じゃなくて必要な力だと思ってるから。必要なことなんだと。こうやって 治療に乗せたらそれで 薬のんでくれたら患者さん よくなって 家族からもそれから地域の その頑張ってた保健師さんたちからもお礼 言われちゃうじゃないですか。ああ 大変な往診だったけどしてよかったなと。中には 患者さん自身も あの時 先生に無理やり 連れてきてもらわなかったら自分は 大変なことになってましたって。どれだけ嫌がってても 無理やりでも入院させるのが 家族のためでもあり本人のためでもある。そうそうそう。そういう信念で 自ら先頭に立ってやっておられたということ。そうですよね。でも 自分が辞める時に自分が連れてきて急性期の病棟で治療して 収まったから慢性期の病棟に行ってもらった人っていうのが たくさんいたんです。そういう人は みんな例えば 薬は 絶対のまないとか看護者とも 誰とも話さない。うずくまって じ~っとしてたり…。そういう人を 自分がいっぱい作っちゃってたなというのを気付いたんですよね。じゃあ 僕が やってたことって何だったんだろうなってね。誰かが誰かに 何かをしないといけないっていうことはそれが 病院の中でもあるんだと思ってやってたけどもそういう力っていうのは本来 英語で言えば forceであって人を動かす力 人間同士の中でお互いに使う力なんですね。ところが それを病院の中で 十分な説明もなく それをする時っていうのは同じ力でも violenceになる。この violenceは一方が 一方的に振るう力。日本語では同じ「力」になっちゃうんだよね。病院という「力」を利用して個人に バイオレンスしてたんだなと。1993年 日本の精神医療に大きな転機が訪れます。「精神分裂病」という病名は差別的として精神障害者の家族会の全国組織が学会へ 病名の変更を要請します。当時 精神医療の在り方に疑問を抱いていた高木さんもこの運動に 参加しました。私が 精神科医になった頃には統合失調症というのは 精神分裂病というふうに言われてたんですね。この用語に じゃあ問題ありというふうにお感じになられたんですね?そうですね。もともと その感じた きっかけは統合失調症の人たちの家族会の活動でしたね。精神障害者家族連合会っていうのが当時ありまして 1992年ぐらいにいろんな精神障害に対する差別をなくそうという運動の中で精神分裂病という名前を変えてほしいという要望書を 家族会が出したんです。精神が分裂してる。 「あなたは精神分裂病ですよ」って言ったら「俺の精神は 分裂してるのか?」でしょう。「あの人 精神分裂病だよ」と言ったら「あっ 分裂してるんじゃちょっと 話はできないよね」って。そうですね。 何かもうコミュニケーション不可能のような印象を持ちますが。精神分裂病などという病名を付けられたことによって本人も家族も病気の苦しみと 病名の苦しみの二重の苦しみを負ってるんだと。自分たちは こういう病気を持ってます。自分たちは こういう家族を持ってますということを誰にも言えないっていう。で それが出た時って「インフォームド コンセント」っていうのが日本で言われだした頃だったのでインフォームド コンセントを やっていけば当然 どの医療でも患者中心っていうこと。患者自身が自分の病気について 自分で知っていく。自分は こういう病気であるということを知って医学を利用していかなきゃいけないですよね。これからは そういう時代になると。で 医学の病名も我々が いろんなところで聞く一つの情報になるはずだと。大事な情報になるはずなんですね。差別をなくすとかと同時にこれは 研究者 学者 医者としてもその名前を使ってインフォームド コンセントが できるようにならなきゃ おかしいだろって。2002年 「精神分裂病」という名称は「統合失調症」に変更されることになりました。さまざまな誤解や偏見をなくしたいという家族たちの思いが 実を結んだのです。僕たち人間っていうのは みんな常に常に 感覚に入ってくるものを何らかの その場に そぐった形で統合してるんですね。統合っていうのは世界を まとめ上げていくことなんですね。今 ここが こういう場所で今 前にいるのが釈さんだということもほんとは 僕の刺激に入ってるものが声も目も バラバラじゃないですか。それを 今ここで 釈さんという人間として まとめ上げているのは僕たちの 精神の働きですよね。そういう統合を常に常に していってるわけ。ところが その統合って例えば 僕たちは 酔っ払った時にふにゃっとなりますよね。何か いろんな原因で実は崩れるんですね。はい。統合失調症っていう病気は何かの原因で その統合がいきなり崩れちゃうことがある。そうすると世界に裂け目が出来ちゃって今 目の前にあるものここにあるものが何なんだと。こういうふうに 釈さんだったら釈さんとして まとまってる以外のいろんなものが入ってきてどう まとめ上げていいか分からない。自分の経験の中にないものになってしまうんですね。それを 何とか言葉で まとめ上げようとすると妄想になったり「何か とても不気味なことが起こってる大変なことが 世界で起こってる」になったりするんですね。そういう統合が何らかの原因で 崩れてしまったもの。そこに見える世界が統合失調症の人が見てきた世界じゃないかなと…。ただ 統合失調症っていうのはず~っと そうじゃないからやっぱり戻るんですね 元に。元に戻ってまた あっ 現実 こう釈さんじゃないかって分かるわけです。そういう 一貫してず~っと あるわけじゃなくて「失調」っていう言葉だから失調する時と しない時がある。崩れる時と 崩れない時があるんですね。そういう 一貫してこの人が ず~っと そんな状態。精神分裂の状態なんではないよという意味が 「失調」にはある。私たちも 常に物事を統合しようとしてる。でも 時々 その統合が意識せずに外れることがある。そういう意味では僕たちも 統合失調症の人もず~っと 薄~く 連続してるはずですね。統合失調症の人の見てる世界っていうのは全く 僕たちと別だ僕たちから隔絶してるわけじゃなくてどっかで連続してて 言ってしまえばみんな 浅く統合失調してると うん。明確に こう 線引きができるもんじゃなさそうな気はいたします。そういうことも統合失調症という名前と共に広まってくれたらいいなと思いますね。2004年 高木さんは統合失調症の在宅訪問医療を始めます。統合失調症の人を病院に入院させるのではなく自宅での生活を続けながら地域が支えていく仕組みを作りたいと考えたのです。♬~おはようございま~す。(一同)おはようございます。高木さんはより多彩な支援ができるよう医師や看護師だけでなく社会への自立をサポートする精神保健福祉士などを集めました。それぞれが 専門性を生かしながら24時間365日 支援ができます。高木さんは 患者と信頼関係を築くことを大切にしています。出会った当時 高木さんの問いかけに全く反応をしなかった男性に対して高木さんは ある行動に出ます。妄想などからくる 緊張で こわばった体をほぐしてもらう男性。その隣で 目線を合わせて話しかけます。男性の心は 少しずつ解きほぐされその後 高木さんと一緒に食事や外出を楽しめるまでになりました。では どうも失礼します。一人一人に合った寄り添い方をすることで患者が 心を開くきっかけを探しているのです。統合失調症の方にとってこう 望ましい環境っていうのはどういうものを考えられるもんなんでしょう?やっぱり その人が住み慣れてその人が ちゃんと自分でコントロールできる そういう環境。その中で 病気と対決するのがいいんだっていうことを言ってるんですよね。世界も そうだけど 日本の精神医療は特に 全然やらずにきたんですね。で そういう 暮らし慣れたところで自分が顔見知りの自分の歴史やら自分の いろんなことを知ってるなじんだ人たちが 周りにいる中で自分が安心できる生き方っていうのを見つけていく。幻覚や妄想があったとしてもそれと つきあいながら現実も現実としてちゃんと見ていけるような生活を探していくっていうことだと思いますね。どうも おはようございます。高木さんたちが在宅訪問医療を始めた当初に出会った育子さん。中学生の頃のいじめが きっかけで精神的に不安定になり高校に進学して すぐ病気が明らかになりました。(泣き声)支援を受けるまでの育子さんは絶えず襲ってくる 妄想や幻覚に苦しみ何度も 自ら命を絶とうとするなど入退院を繰り返していました。おはようございます。は~い。しかし 高木さんたちが在宅ケアを続ける中で少しずつ変わっていったといいます。♬「約束を守れたなら」♬「願いを叶えてあげる」育子さんっていう方なんですけれども中学生の頃に 発病されたんですね。それまでの 発病前の写真を見てももう とっても はつらつとして笑顔がよくて スポーツマン。中学生の発病っていうのは早い方になるんですね。ちょっと早いですね。まあ 最初… 発病の 初めの頃かな…で 中学生ぐらいの発病っていうのは思春期で 自分とは何かっていうことにすごく悩んでる。 誰でも。そういう時代じゃないですか。そこに そういう悩みは誰でも持ってるところに統合失調症の人の統合が 一度 崩れるっていう衝撃的な感覚を持たれたんですね。それによって ものすごく こう興奮したり 感情不安定になったり興奮したり もう訳が分からないから暴れるしかなくてって症状が激しくて何回も入院を繰り返されてる方なんですが入院を繰り返してもなかなか ほんとに合う薬もなくて合う環境もなくて入院すると 症状が激しいからまあ え~… 隔離されちゃうわけですね。でも 入院になるとず~っと個室に閉じ込められてる。で あるいは 大量の薬でボーッと なってしまってる。お父さん お母さんもそういう娘の姿に見かねて…で もう 病院で まだ保護室…病院からの隔離室の中から出れないような状況でももう 自分たちも耐えられないということで 退院させるんですね。病院は とても退院なんて無理だろうということで 言ってたんだけどもおうちに戻られてで もう お父さんお母さんがそれぞれ寝ずにうん 交代で 付きっきりで見ておられたんです。付きっきりで見ててもまあ 本人が興奮したりすると暴れて壁には 穴は開くわ夜中でも飛び出すしそれから 何かその辺にあるもの 危ないものでもすぐに 口に入れてしまうっていう病状があって。育子さんの書いた詩があるっていうふうに伺ってるんですけどもご紹介頂けますでしょうか。はい。この育子さんの詩は彼女が発病して… 発病の初期ですから最初は 非常に また よくなる…一度 よくなったりまた再発したりですけど再発して すぐの頃かな再発して すぐの頃によくなった時に書いた詩なんですね。恐らく 彼女が病気が発病した時に見た世界統合が崩れてしまった時に見た世界の孤独感そういう世界を自分しか持ってない孤独感。そして今でも こういう世界をほんとは 抱えてるんだと思うんです。ただ それを僕たちに通じる言葉で 今は言えない。何とか言葉にしたのがこの詩だと思います。で ちょうど その時に私が ACT 始めるということで。我々 私も含めておうちに行くんですけどそれは大変で まずは ちゃんと話をしてくれるなんてないですよね。というか 言ってることが何を言ってるのか さっぱり分からない。で 突然 こうピュッと どっかに飛び出しちゃうから。でも まあ あの…お父さん お母さんも含めてもう一緒にとにかく 見きろうということでうちの いろんなスタッフが交代交代で行ってとにかく 何があってもじっと そばにいると。で 「大丈夫よ」と安心させてあげる。そういうことを繰り返しててようやく 少しずつ言葉が何か月も繰り返して言葉が よくなったのかこちらが 彼女の言葉を少しでも 分かりやすくなったのかな。そういうことですか。うん 小さな言葉も小さなことが少しずつ 分かるようになって。それが出てくるまで 皆さんがこう じっと そばに居続けたっていうこの期間が 恐らく 相当大事。相当だったと思います。ご家族は その間大変だったと思いますけどねそこから だんだんといろんなことが できてもちろん 病気も相当 悪い時もあったり薬にも かなり頼らなきゃいけない時もあったりしたんだけどもだいぶ よくなってから今度は また 2年後3年後かな「何がしたい?」っていう時に「成人式」 ポロッと出たんですよね。成人式 じゃあ二十歳の時に出られなかった? してない。病院の中ですよ。病院の中だったんですね。で 彼女に着物を着せて 化粧もして何人かのスタッフと一緒に成人式だけど 4月にやりましたけどね。成人式で 桜の下でね パチッとこう…そしたら もう ほんとに満面の笑顔で。そうですか。このように具体的な事例を お伺いするとACTの活動っていうのがうまく こう…我々も こうイメージすることが できてきました。例えば 病院にいるとしなくてもいい苦労が自宅 あるいは在宅で暮らしてるとさまざま 襲ってくるんじゃないかそんな気もするんですけども。病院にいると確かに苦労はないと思いますよね。3食 ベッド付きで。でも その分管理されてる者に従えばいいそんな生活に どんどん慣れてきたら病院の中にいてすらその中で起こることに対処できなくなってくるじゃないですか。人間というのは やっぱり生活する場の中でいろんな苦労が 襲いかかってきてそれを じゃあどうしようかということで乗り越えなきゃいけないものほったらかしとかなきゃしょうがないもの誰かに 助けを求めなきゃいけないものってそりゃ いろいろ あるわけでじゃ それを それぞれ どうしていくかっていうことで成長していく。「成長」っていうことが おかしければそれが 人生の生きがいみたいな何か 生きてるっていう感じにつながっていくわけでしょう。苦労が なかったら生きてる感じもないですよね。暮らしていれば当然 引き受けなければいけない苦労を病院は奪ってしまってる。奪ってしまってると思いますね。で もちろん その苦労は統合失調症のような病気を持ってる人にとっては大きすぎる苦労だったかもしれない。病院で守ってあげることがよいかもしれない。でも 生活の場の方に「じゃ それだけの苦労でも一緒に苦労しましょうよ」いう人がいたらいいわけですよ。一緒に苦労する一緒に乗り越え方 考えようあるいは そこは ちょっとこっちが取ってあげるから みたいな。何でもいいんだけど そういう人たちが一緒にいるっていうことが大事なんじゃないかと思いますね。そう考えますと家族だけが 全て負担するっていうのもかなり 困難なことになりますね。そりゃそうだと思いますね。よく 病院の人が言うのは退院させたいけど退院させようとしても家族が受け入れないよっていうことがよく言われますよね。で 例えば ACTの活動大変 すばらしいと思うけどももう 入院してくれた方が楽なんだっていう ご家族も恐らく おられるんじゃないですか?たくさん いますね。それだけの苦労をしてきたし恐らく 今の日本の精神医療の体制がご家族には そういう苦労を強いてきたと思うんですけどもあの… だからご家族も 実は SOSを持ってるんだと。その ご家族に対する支えが必要なんだっていうことをしていかなきゃいけないけども病院に…病院は そこまでのね 生活の…家族は 病院の外側にいるから病院は そこまでのことができないし。そのためにいわば 地域が関わるっていうそういう面が必要となってくるわけですね。ACTが ご家族の支援を同時にしてもいいしご家族を支援するような…支援できる人や 組織を私たちが 家族のもとに引っ張ってきてもいいし。お話を聞いてると 何かこう病気を 何とか治さなきゃいけないっていうような何か 結果を出そうというよりはむしろ そのままで暮らしていけばいいじゃないかというそういう方向に聞ける…お伺いするんですが私 認知症の方の介護に関わってるんですが最初に 認知症って自分でも知識もありませんし経験もないんでものすごい怖いものだって思ってたんですよね。山の斜面に お寺 建ってるでしょ?はい。釈さんは 2003年寺の裏にある古民家を利用して認知症の人のためのグループホームをつくりました。昔ながらの木造の日本家屋での共同生活は地元の人が遊びに来たり中学生がボランティアに来たりするなど一つの大きな家のようです。釈さんが目指すのは認知症の人も 地域の中で共に暮らせるような施設です。とにかく まあ「認知症だけにはなりたくない」そのぐらいの気分だったんですけどもず~っと関わってるうちにある日 ふと「あれ 認知症 あんまり怖くなくなってる」っていう自分に気が付いてちょっと びっくりしたんですよね。認知症を ひたすら見ないようにしたり隔離したりあるいは 恐れるのではなくて認知症になったら認知症者としての暮らしがある。あるいは 統合失調者は統合失調者としての暮らしがある。そういう こう ものの見方といいますか取り組みの在り方っていうのはACTにはあるんじゃないかと思うんですが…。 そうです。だから 「これは 病気の症状だからそれを取ってしまおう」というのとは違うしまた 取ってしまおうとして取れるもんじゃないんですね。今 いろんな薬が出てて「この薬で 脳の この活動を抑えれば病気の活動を抑えれば 治りますよ」というふうに 製薬会社は言うけどもそれで治ってる人は僕は いないと思うんですね。治ってる人は いろんな偶然いろんな いいことがいろんな うまくいくことがあって薬も含めてその偶然の いろんな出会いの中でたまたま よく いってる。で 僕たちが関わってる重度の人つまり 今までよくなりたいと思ってきたけどもそうじゃなくてこの病気と つきあっていかんといかんこの障害を抱えて生きていかんといかんというふうに腹くくったそういうふうにせざるをえないそういう方に対しては僕たちが その人が 少しでも楽になる少しでも 現実を うまく受け止めて現実の中で やっていくための僕らの関わりも含めてたくさんの偶然を こう寄せ集める。地域での生活 家での生活いろんなことがある。先ほど おっしゃったかえって苦しいこともある。そんな生活の中で偶然の力を集めていく。その偶然の力が どっかで彼 彼女を楽にする。それを 僕らは引き寄せることを仕事にしてる感じですね。さまざまな出会いや人との関わり合いから生まれる 偶然の力。高木さんは この偶然の力を母の看取りで実感したと言います。実は 私の母も認知症で最期まで 家で看取ったんですね。その時の話をちょっと させて下さい。気位の高い母でしたから介護者に対してもものすごく 被害的になったり攻撃的になったりして大変だったんですけど経験や知識もあるケアマネージャーさんと一緒にやっててそういう ケアマネージャーさんにいろいろ組織してもらってで 24時間体制にしたんですね。そうしていくと だんだんと こうケアを受け入れてくる中で気位の高い人でしたからかえって いろいろ ズバズバ物 言ったりするのが 好かれちゃって。例えば ヘルパーさんたちが自分の自宅に うちの親を連れていってパーティーやったり…。そうなんですか。そういうことをしてくれるようになったんですね。でも それから がんになってまあ 最期を看取るいう時にまあ だんだんと胃がんで食事が入らなくて水分だけで見ていってるわけですけども最期まで すごく機嫌がよくてニコニコしてヘルパーさんたちや 訪問看護の人たちにかわいがられる存在。で いよいよ最期だなっていう時がきてまあ 呼吸が 下顎呼吸になってちょっと乱れてきたと。これは もう 息子さんを呼ばなきゃいけないというふうに皆 思ったらしいんですね。僕としては すごく もう覚悟はしてたしみんなが これだけよくやってくれるんだからいつ 亡くなっても そりゃいいよねと。別に 死に目にあわなきゃいけないというような考え方 なかったからのんびりしてたんですよ。だけど ケアする方は気が気じゃないわけ。「息子さんが帰ってくるまで死ねないわよね」みたいな。よくある話ですけど。それで みんなで 「頑張れ お母さん頑張れ もうすぐ来るから」つって。「もうすぐ 息子さん来るよ」つって。で こっちは のんびり行ってまあ そろそろ もう駄目なのかなって思って パッて開けたら「ようやく来た~」っちゅうことになって。で 僕が 母の前に行くんですけどもまあ 母は こっち見たような見てないような 僕は よく分かんない。だけど そこでことっと 息が切れたんですね。僕には よく分かんないんだけどでも 周りから見たらやっぱり 「息子さんの顔を見て安心して逝かれました」つって「すごく穏やかに にっこりしました」。来るのを待ってた!「待ってましたよ お母さんは」って言うんですよ。どう見たって そうじゃなくて。たまたま?偶然 今 僕が…。でも それ ほんとに偶然なのかどうなのかって考えるんですよね。もしかしたら 周りの 緊張して「これは もう あなたは 息子さんに会わなきゃいけない 会うべきだ息子さんが間に合うように来てる」って。「頑張って 息子さんも 今 走ってるよ」みたいなそういう 何か場の力がですね彼女の… 母の命を生かしてきたんじゃないかと そこまで。ところが僕が パッと入っていった途端に周りの人たちの方が安心しちゃってその 命を支えてた力みたいなものがふっと緩んだんでしょうね。で 母も一緒に緩んでふっと 逝ったと。じゃあ その場に集った全員でその臨終の場を演出したっていう。そうでしょうね。 それには もう死んだ時刻まで関わってるっていうすごい偶然だと思います。偶然の力が そういう必然の物語を呼び込んだんだと思うんですね。♬~(ピアノ)高木さんたちが支援し続ける育子さんです。♬~(ピアノ)終わり? (育子)うん。終わりか そうか。ヘルパーの支援を受けながら1人暮らしを始めています。これまで面倒を見てきた父は3年前そして 母は5か月前に 病気で入院しました。重い症状を抱える育子さんが1人でも この家で暮らしていけるよう福祉分野の専門家も支援に加わりました。今 福祉制度を利用することでヘルパーが2人 24時間交代制で育子さんの暮らしを支えています。わ~… やややや~!高木さんたちが出会った 17年前には親しい人以外には心を閉ざしていた育子さん。地域とのつながりを持ちながら歩み始めています。偶然でしか うまく いかないんだけど偶然を待ってるだけではいけない。で 偶然は起きるんですよね。うまくいった時には必ず 偶然 いい結果をもたらす偶然。いい結果をもたらす偶然というのは僕は 奇跡と言っていいと思うんだけどそれは起きるけどもそれが起こった時にそれを ちゃんと次に また同じことを少しでも同じことをできるそういう見極めができる力がないといけない。♬~♬~ #統合失調症 #精神科医 #在宅医療 #ACT #こころの時代 #高木俊介 15 この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? サポート