アダムとイブの物語が伝えていること
(有)テンプルビューティフルの光田菜央子です。
今日のトピックは、ケイシーが紐解くアダムとイブ。
聖書を開いたことがない人でも知っている、旧約聖書の冒頭、創世記に書かれている物語です。
神は天地を創造し、6日目に自分を型どって、土で人(アダム)を作りました。その後、神は人が1人では寂しいだろうと、アダムの肋骨から女イブを造りました。
2人はエデンの園で暮らしていましたが、神は「この園にある全ての樹の実を食べても良いが、園の中央に植わっている、善悪の智慧の木の実だけは決して食べてはならない」と言っていました。
エデンの園の中央には2本の木がありました。
1本はいのちの木、1本は善悪を知る智慧の実のなる木。
いのちの木の実は食べていいけれど、智慧の木の実は食べてはいけない。
見るからに美味しそうな果実がたわわに実る木。これはリンゴであったというのが定説ですが、はて、では何故神様は、人が食べてはいけない『善悪の智慧の木』をわざわざ園の中央に植えたのでしょうか?
聖書学者や教会で、この部分がどのように解説されているのか私は知らないのですがケイシーリーディングに基づき紐解いていくと、このアダムとイブの有名なシーンは以下のような解釈になっていきます。
曰く、この智慧の木の実は、人間の自由意志を顕している。人間のみが神にすら逆らえる自由意志を持っている。
自由意志の象徴として、智慧の木はエデンの園に中央に植わっていた…。
エデンの園で幸せに暮らしていたアダムとイブですが、ある日、蛇が近づいてきて、イブは蛇からこの実を食べるようにと、そそのかされてしまいます。
聖書にはこのように書かれています。
『主なる神が造られた野の生き物で、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけないなどと神は言われたのか」 女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない。死んではいけないからと神様はおっしゃいました」
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」
女が見ると、その木はいかにも美味しそうで目を引き付け、賢くなるように思えた。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。2人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、2人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした…』
しかし蛇からそそのかされたイブは、神様から「食べてはいけない」と警告を受けていた智慧の木の実をもいで食べてしまいます。
イブが女性だったこともあり、我々女性は、聖書の冒頭から分が悪い。女性で生まれた時から、神様に逆らい、エデンの園から追い出される原因を作った側になってしまっています…。
でも、ここで疑問が沸きませんか?
なぜイブは蛇に容易に誘惑されてしまったのでしょう? 二者択一とはいえ、何故、蛇はイブの方を誘惑したのでしょう? 男性であるアダムは誘惑するには手ごわい相手だったのでしょうか?
ケイシーによると、アダム(男性)は私達の顕在意識、イブ(女性)は潜在意識を顕しているのだそうです。
つまり蛇は賢くも、無意識レベルを誘惑し、その無意識が顕在意識に影響を与えた。
言い換えれば、人間は無意識レベルから誘惑されやすい、無意識レベルのほうが人の影響を受けたり支配されやすいということになります。
そしてここが大切なのですが、ケイシーによると、アダムとイブが犯した過ちとは、神に逆らったことではなく、本来は自分の内側には深遠な智慧の部分があるにも関わらず、その内なる声ではなく、外側からの働きかけ、外からもたらされた情報や指示(この場合は蛇)に従ってしまったことなのです。
神はすでに人間に自由意志を与えられていました。でも、その自由意志を行使するときに、自分の内なる声ではなく、蛇に云われるがままに行動してしまった。外の情報や意見(蛇の誘惑)に自分の意志をまかせてしまった。
それが創世記の冒頭、アダムとイブの物語として語られているのだと ケイシーは述べています。
そして、残念ながら、私達はいまでも蛇に誘惑され続けている、ということでもありますね…。
誰もが知っている遠い遠い神話の世界、アダムとイブの物語。
ケイシー流に読み解いていくと、その神話が、今日生きている私たち自身の物語になっていきます。
面白いと思いませんか? 聖書をどこかの宗教書にしておくのはもったいない。
ケイシー流に読み解く聖書の話を聞くにつけ、そう思ってしまいます。
ケイシー流黙示録講座 3枚組
*創世記とヨハネの黙示録をケイシー流解釈で紐解いた10時間!
それでは、また!
(有)テンプルビューティフル メルマガ575号 2015年2月13日配信号を加筆修正しました。