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褒めるときも、貶すときも、自分の言葉で


https://twitter.com/cardinalate1964/status/1260443427369615362?s=20


まあ、この類の事はtwitterによくあることではあるけど、よくある事だからこそ、言っておかないと、ということで。

それに対する私の反応はこれである。


https://twitter.com/templa_3/status/1260447239480250368

読み返すと、まだまだ言葉が丁寧だなぁと言う気持ちと、まあでもこの手の言説、10年くらい前までは自分でもやっていたなぁという多少の後悔とが入り交じるわけだけど。

頼まれてもいないのに、誰かの”代理人”として正義の鉄槌を下すのって、ある意味楽しい。自分が”正義の側”に立つ機会なんてのは、実はそんなにない。しかも、それが自分のためではなく、誰か他人のためであれば、尚更それは快感である。

しかしながら、その”代理人”は、一度としてその本人から「代弁してくれ」という受けた事があるのだろうか?もちろん、そんなことはない。

発言者は、まず自分の感情(そこには意識的なものもあれば無意識のものもある)が先に立ち、その後で理屈を付ける。これが大抵の人の行動原理である。
「いや自分は常に是々非々の態度で」などと言う者がいるとしたら、よっぽど普段自分の心の中をちゃんとメンタライゼーションしてないか、「自分は理知的に全ての物事を判断している」という自己暗示を深く心に刻んでいるだけである。

頼まれてもいないのに、誰かの代理人になる事。
これは、法律的に言えば「無権代理」という事になる。
権利なくして代理人であるかのような行動をする。しかしそれは人間やりがちであると言うことを、民法という法分野を考えついた人々(恐らく、ローマ法の十二表法から続いているはず)は見逃さず、であるから、次のような法原理が編み出された。
即ち、「無権代理は、あくまでその表意をした者の言説として受け取られる。”代理”をされた者は、追認をしない限り、あるいは表見代理(他者から見ると代理権を与えられたように見える場合)のとき以外は、その責任を負わない」

つまり、こういう勝手な代理行為は、全くもってお節介以上に”よろしくない行為”という事が2千年以上前からの法的、そして社会的常識として、少なくとも”理屈の判る者”の共通認識となっているのである。

とまあここまでは、自分が普段から考える事であって、まあ大抵の人も考えつくことだろうなとはおもうわけだけど。

しかしながら、我々、もう一度自分の手を胸に当ててよく揉んで・・じゃなく、考えてみよう。

一体誰が、誰かの代理人として他人を褒める事があるだろうか?

そう、誰かが他人を褒める時、その褒めた人自身は、誰かの代理人としてなど立たずに、「素晴らしい行い/業績/性質だ」という事を、本人の言葉として発している。決して「老婆の立場からすると、あなたの発言で勇気づけられました」なんて事は言わない。

一見不思議なことである。なぜ怒りや悲しみ、憤りを感じたときは代理人を買って出る人が、悦びやうれしさの時、代理人であろうとしないのか。

まあもちろん、これはかなり無理矢理作った話である。まあもし「代理人としては喜ぶ」みたいな事をいうシチュエーションがあれば、その次に「でも私(或いは、逆の立場の”代理人”として)はそうは思わない」という話が続くしかないのである。

褒めると言う行為は、ある意味気楽である。その行為者/発意者/性質の保持者に対して、嫌味としてでなく褒める事をするという事を、褒められた者が(本質的に)否定する事はない。(謙遜とかそこら辺の話は別にする)となれば、褒めたら、基本は褒められた者から好意的な返答が来る事がほぼ確定している。

しかしながら、貶したり、注意したり、怒ったりした場合、大抵はその表意者/行為者/性質の保持者から反発が来る。当たり前だ。大抵の場合、行った本人はよいものだとおもうからそれを行うのだ。

でも、ここで「誰かの代理人」として、、そういうマイナスの感情を発露させると、発言者は「あくまで自分じゃない代理人の事を代弁したまで。もしそこに反発するなら”本人”に言ってほしい」という話に出来てしまう(と、勝手に思っている)

つまり、自分にプラスの反応が返ってくるときは自分のものにして、マイナスの反応が返ってくる時には他人のたにんの性に出来る(と勝手に考えている)事をやらかしている、と言う事である。

これを卑怯者の所業と言わずして、何がそうであろうか。

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