過去の周りにいた人たち②〜中学校編

私の通っていた中学校は、周囲の3つの小学校からきた生徒で構成されていた。
小学校の学区と中学校の学区が異なり、一部の仲良かった友達はもう一つの中学の方に行ってしまった。ちなみにもう2校からは全員そのまま中学に上がる。
そのうち1校がいわゆる少人数学級で、少ない割に、そこ出身者には私と同じ苗字の子がたしか5〜6人いて、一時期はクラスで名前を呼ぶと6人振り返る、なんて事態も起きた(これは田舎あるあるなのだが)。

中学入ってすぐ、その同じ苗字の女の子の1人と、それはもう相思相愛になった。恋愛じゃなかったけど、間違いなく愛情だった。ベッタリってやつですね。
毎年初雪が降ると家に電話して「いま何センチ?」と聞く、なんてロマンチックな風習もあった。(彼女の家はとんでもない山奥にあるので積雪量が違うのだ。一度泊めてもらった際、お風呂までの廊下が寒すぎて、冗談じゃなく命の危険を感じた)

その子とはクラスと吹奏楽部で一緒で、同じ楽器を吹いていた。
几帳面で、部屋がいつ行っても綺麗。凝り性で、本が好きで、チェシャ猫も好きで、たまに毒舌で、くすぐりに弱い。そんな子。

あとは、中学校の頃はもっぱら吹部の連中とつるんでいた。お祭りも行ったし、家が遠い子でもたまに家を行き来して遊んだ。
吹奏楽部って上手くできていて、いろんな学校からそれぞれの楽器担当が来るから、自然と違う学校から来た2人組とかが出来上がる寸法で、今思うと実にうまく人間関係がシャッフルされる仕組みだなぁこれは。
ダンス部とかにも言えるかもね、ジャンルごとでバラけるから。

女子中学生というとみんなオンナの顔を持ち始めて陰湿なイジメだったり恋愛のゴタゴタだったり、なんとなくギスギスしたりとかある年頃なんだけど、この吹部の仲間が実にいい感じにゆるくて自意識があんまりなくて自由人だったり、自由人じゃなければ保護者ポジで見守ってくれたりして、とっても居心地の良い人間関係だった。わたしのまわりだけ「優しい世界」広がってた。

学年の中ではなんか色々あったりしてたみたいだけど、ノータッチになるよう、うまく立ち回るすべに長けていたようだ。長けすぎて、あんまり意識してなかった。よく「AKY(あえて空気読まない人)」って言われてたけど、天然です。決してオトナなスルースキルとかあったわけじゃない笑
けど、今でもスルースキルや鈍感力を誉められることは多いのでヘルシーな精神の成熟の仕方をしてるのかもしれない。

一度、先生に結構ガチめに怒られた後、ふっつーに気軽にその先生に話しかけてて「すごいね」って言われたこともあるけど、なんも考えてない。まー後から思うと「先生も私が嫌いだから怒ったわけじゃなくて、いつまでも仲悪くしてたいわけでもない」というなかなか自己肯定感マックスな思想も通奏低音としてあった気がする。そんな自己肯定感を育んでくれた両親を褒め称えたい。

話は戻って、もう少し関わっていた人たちがいる。空手の面々だ。中学2年のころ、所属してたスポーツ少年団の空手道場(私の所属していた支部は物理道場はなく、小中学校の体育館や公民館の一室を借りて行っていた。)の、同じ中学のメンバーで「団体型」という種目で大会に出たのだが、なんと県予選を突破し、ついには全国で入賞してしまった。これにはカラクリがある。一つは予選通過枠を出場校が下回ってしまっていたこと。そしてもう一つが幼稚園から家族ぐるみの空手教育家庭で大会はいつも入賞、小5で観光気分で空手デビューした私みたいなペーペーがユニット組むには豪華すぎるサラブレッドのチームメイトたちがいたことに依る。
運動音痴の私が空手の全国大会入賞の肩書きを手に入れたのは運の力が強い。が、同時に、サラブレッドたちは気まぐれで、また歳下で、その実力についていくための私の努力と忍耐は並々ならないものであった。厚手の道着が絞れるんじゃないかと思うほどジャバジャバ滝のような汗(滝というか噴水)をかきながら、灼熱の体育館で、異様に低い姿勢と、それまでの人生で出したこともないような大声をだす訓練や、周りと息ぴったりの演舞をするため常に神経を尖らせ、胸を張り、入場から退場までいっときも集中が切れぬよう気を張り、肉体的にも、精神的にもかなり追い込んだ日々。

2年目である中学3年、周りが受験モードのエンジンが温まってくる9月に、私は長崎の体育館にいて、空手の大会に使われるマットレスの上で、ストレッチをして体を温めていた。
そんな過酷な状況で戦った、いわば特殊部隊の構成員同士みたいな人たちが2人いました。ほんとメンタルも実力もスーパーマンでした。ダメダメな私に付き合ってフォローして引き上げてくれた2人には感謝。気まぐれな2人と過ごす日々は退屈しなかった。今はだいぶ疎遠だけど、そのうち一緒に先生に挨拶行きたいな。