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はなす ということ

 ヒトは自分の考えを発信するとき、頭の中でイメージする言葉、ビジョン、感覚、イメージの全てのうち、限られたものしかアウトプットすることができない。そして、そのアウトプット情報を受ける受信側も、聞いた/見た内容のある程度の割合しかインプットすることができない。仮に発信/受信のどちらも50%ずつの効率だとすると、元の発信者が伝えたい全てのことのうち25%しか受信者には伝わらないこととなる。発信/受信の50%はかなり効率の良い見立てだろう。これが20%同士であれば、最終伝達率は4%だ。これら発信/受信の割合を測定する術はおそらくないが、私たちの日常生活の中で、言いたいことを言えている割合、聞いたことを理解できている割合は、せいぜい半分以下、下手をすると20%にも満たないのではないだろうか。私たちヒトのコミュニケーションでは、かなり多くのすれ違い、思い込み、誤認があり、それと同時に思い量り、勘ぐり、推量によってそのズレを補間している。

 動物は、伝達スキルや語彙の数は少ないが、誤認することは少なそうだ。鳥は視線によって規則正しい形で飛ぶ。他の動物たちは、いくつかの鳴き声で索敵や餌の在りかについて正確に意思の疎通を図る。ヒトは言葉の数が多いが想像力も優れているため、曖昧なことを想像力によって補間することでコミュニケーションを成立させようとする。ヒトは曖昧な認知と想像力による補間の元に組み立てられるコミュニケーション社会の中で生きている。

 ヒトの認知力は極めて低い。本来は同じ事象であっても、状況や立場が異なると、それの捉え方や思考、行動には一貫性がないことが多々ある。人間は平等と言いつつも、例えば近親者と遠方のヒトの命に対する悲しみや怒りの程度は同じではない。戦争反対のプラカードを掲げつつ、その考えを批判するヒトへの怒りを覚える。人種や地域、信仰や文化などのあらゆる差別や一方的な批判の感情や行動は、仮に一定のプログラムで規定された思考であるならば起こり得ないだろう。ヒトはその時々で、プログラムを書き換え、ルールブックを入れ替えて、曖昧で支離滅裂な思考や行動を取る。その原因は、ヒトが守るべきものが、「個」と「種」と「社会」のそれぞれにあり、それらのプログラム・ルールブックが異なるからではないだろうか。
 
 人は話すことを手に入れて、文化を発展させた。「話す」ことは、自分の知識・経験・思考を分離(離す)して、放出(放す)することである。これによって自分以外の他者へと情報を伝達し、また互いに受け取り合うようになった。情報の伝達は、世代を超えることも可能となり、遺伝子とは別の「ミーム」として働くようになった。ミームはヒトの社会を繁栄させ、社会は個のヒトを属させるものとして、相互の関係が確立された。ヒトにとって、動物的本能である「個」と「種」の存続とともに、ミームによって形作られた「社会」は、守るべきものとしての地位を確立したのだ。

 話すこと、つまり自身の思考や信念を含んだ情報を伝えるために他者に放つことは、守るべき「社会」を存続し続けるためにヒトに備わった本能的行動の一つと言える。情報を放つことは、他者と社会と自身をつなぐ糸を張る行為であり、同じ社会を生きるヒトに対して尊厳の意を込めた行動である。


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