『ここにも古典的条件づけ?!』からのその奥深さへ
ワクワクする記事を読みました。
Hayakawa Books & Magazinesさんのnote↓本の紹介記事です。
この本、面白そうです!
記事の中に自分の名前を覚えて、呼ばれた順にエサを食べに行くブタの話が出てきます。
ブタが「自分の名前を習わされた」というところ。さらりと書かれていますが、これって古典的条件づけで覚えさせたんじゃない?って思いません?
記憶しやすいのは『三音節の女性名(note中より)』だそうで、1週間のトレーニングをしたと。
それは、きっと、ある一頭の前で「ブルーンヒルデ」と呼んで、エサを与えるという手続きだったんじゃないだろうか?ベルが鳴って肉がもらえたパブロフの犬と同じ手続き。
もし、名前を覚えさせる手続きが古典的条件づけだったとすると、名前を呼ばれたブタだけがエサを食べに進んだ理由は…
「ブルーンヒルデ」という音の並びが聞こえたあとには、エサが食べられることをブタが学習したから。それで、スピーカーからその名前を呼びかけるとその名前の一頭がエサ箱に進んでいくというわけ。
この現象を著者は『ある特定の名前が自分自身と結びついていると知っている』と解釈しているようです。そして、そこから本の中での議論は自意識の存在に流れていくわけです。が、名前と何が結びついたのかについての解釈に疑義が生じるとその後の議論もムムム?と(^-^;
名前を覚えさえるプロセスについて本に詳しく書かれているかどうかはわからないのですが、そんな疑問が浮かんできたりするのもまた楽しいです。
ところで「学習」っていったいなんだろうなあ?
心理学的にはつぎのように定義されているようです。
学習とは、経験によって生じる比較的永続的な変化のことをいう。
(実森正子・中島定彦著「学習の心理ー行動のメカニズムを探るー」p.2より引用)
なるほど。名前のあとにえさが出てくるという「経験」によって生じた比較的永続的変化。
ちょっと話が飛びますが、先日こんな本を読みました。
マインドフルネスによって、ストレスとうまくつき合っていくことが書かれています。この本のみでなく、さまざまなストレス対処について書かれた本にはよく出てくるフレーズがあります。
「見方によってストレスは変わる」
つまり、過去にあった出来事そのものは変えられないが、その意味を変えることはできるということです。
たしかにそういう経験はあるし、そうなんだろうな。
そこで、ふと、学習というのは、意味を与えることなんじゃないかな?
心理学的な学習の定義は上記のとおりなんだけど、それってつまりある刺激(モノ、コトなどの対象)に意味が付与されること。個にとって意味が生まれることなんじゃないか?と。
古典的条件づけという学習プロセスは、条件づけされる動物や人はまったく受動的にそこにいるだけでいいんですよね。条件づけがうまくいけば、ブタと人の間で「名前」という音声サインを媒介として、「同じ意味を共有する」ことができる。そこで、人間とブタが「意味を共有すること」は、ひとつのコミュニケーションチャンネルが生まれたことにもなるのかな?素敵じゃないですか?
長々書きましたが、古典的条件づけでうちのパブロフにも名前とおやつをセットにして条件づけしています。毎日、いろんな時にいろんな場所で、時にサプライズ的に、いろんなパタンでやっています。
「パブロフ」と呼んでおやつをあげる。
「パブロフ」という意味のない音声に意味が生まれる。それは「その音はおいしいものが出てくる合図」という犬には嬉しい意味が。
あらら…ちょっと寄り道が過ぎました(^-^;
『動物たちの内なる生活 森林管理官が聴いた野生の声』は、来月には改題されて文庫本で登場するようです。
予約しようかどうしよう…?
9月から始まる新しいお仕事準備で、今月に入ってからちょっと余裕がなくて読みたい本がたまってます。読めるかな??と少し二の足踏んでしまう('ω')
どなたか読まれていらしたら感想お聞かせくださいませ(*^^*)
noteもごぶさたしておりますが、なんとか週末に時間見つけてみなさんのnoteを読みにいきたいよーぅ!
今日も読んでくださってありがとう。
今夜は早寝して明日からのWKDYSがんばらねばー。