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A bible for me

『もっと早く出会いたかった』
そう思う本のひとつ
レイチェル・カーソン著「センス・オブ・ワンダー」
すごく好きでつい原語版も買ってしまった。
英語苦手なのに…

レイチェルは、甥のロジャーが赤ちゃんの時から彼を連れて『自然界への探検』に出かけます。それは、ありきたりな遊ばせ方ではないが、ロジャーにとってよい影響をあたえているようだと言います。

わたしたちは、嵐の日も、おだやかな日も、夜も昼も探検にでかけていきます。それは、なにかを教えるためにではなく、いっしょに楽しむためなのです。

上遠恵子訳「センス・オブ・ワンダー」7頁より

どのように子どもを教育すべきか悩んでいる親にはこんな言葉も。

…「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。
 子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。

同23ページより

そして、レイチェルは、子どもの成長を見守る妖精がいてほしいけれど、妖精に頼らないとしたら…
この世界のよろこび、感激、神秘を子どもと分かち合う大人がひとりそばにいる必要があると言います。

自然を探検して一緒に楽しむバディのような存在。

センス・オブ・ワンダーでは、甥のロジャーとの探検を通して語られるので、子どもの成長を想定して描かれています。
でも、これは子どもだけじゃないのでは?

残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。

同21頁より

かなしいかな、私もきっと失ってしまっている。
子どもの頃は、冬になるとその季節で初めての雪が降ることを外に出たらキャッチできる瞬間があったのに。最近は感じない。

失ったものは二度と取り戻せないのだろうか?

もう人生のほとんどが過ぎてしまった今になって、森を歩く楽しみを覚えた。その前の数年間、犬と一緒に歩き回ることがもしかしたら、その呼び水になっていたかもしれないけれど、森に行くようになって自分の感覚に新しい何かを感じる。今からでも、失った何かを取り戻せるのではないかと希望を持っている。

森に行きたい。
行かないとどこか不全感が漂う日々。

はっきりと理由は説明できないので、とりあえず、通り一遍の理由を枕詞にして周りの人を誘って森に行く。
でも、森での私は言葉で説明しすぎていると自覚している。
レイチェルの言うように、知識ではなくそこで感じる情緒や感受性。
その土壌が肥沃なら、自然にその種は発芽するのだから。
言葉が多すぎるのはかえって邪魔になる。
大人にも良きバディがいたら。

大人にこそ、足りていないもの。
その土壌を耕すこと。
私が森に行きたい理由。
もっといろんな人を森に連れて行きたい理由。
それはおせっかいと言えばおせっかい

森を歩くようになって、いつも感じる。
言葉は不便だ。
今ここで私が感じているものを言葉にしようとしても、ちょうど良い言葉が見つからない。無理に言葉をあてがっても、自分が感じたものを到底言い表せてはいないからもどかしさが募る。
写真はどう?
そう思い、初めはなんだか無駄にたくさん写真を撮っていたが、それも違う。
むしろ、写真は私が見ているものとのずれが大きすぎてがっかりするから、最近は写真もあまり撮る気がしない。
まあ、スマホで撮っているだけの素人だから、技術的問題もあるかもしれない。

言葉に頼りすぎず
もっと感受性や情緒の翼を広げて
自由に楽しめる森とのつきあい

そういう時間をどうやったら作れるのか

できるなら、森のツリーテラスでセンス・オブ・ワンダー読みながら。
かたわらには犬。
犬はいつも自然への水先案内人だからね。


あなたが『もっと早く出会いたかった一冊』はなんですか?

今日も読んでくださってありがとう。



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