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愛についての記録、世界(太宰治の美男子と煙草)


 うさんくさい男だと思った。カメラを向けてくる無遠慮なマスコミどもにまぎれて、その男はうわっつらの笑みをこちらに投げかけてくるのだ。格好からして、社会のごみを撮りたがるやつらの一員ではないということはうかがえた。そいつが輪の中心にいるのは確かだったけれど。芸能人かといわれると華がないし、キャスターにしては品がない。
「きみ、煙草はよくないよ」
 煙を燻らせる、似たような連中がいるなか、男はおれだけに狙いを定めた。ピンポイントで攻撃される謂れはない。じとと睨みつけてやると大抵はひるむ。だけど男は「そうだ。焼き鳥でも奢ってやろう」と、ひるむわけでもなく、あわれむ眼差しでもなく、ただ飄々と、それが名案とでもいうように、おおげさに声をだした。
「おじさんテレビのひと?」
 男は打って変わって、まだおじさんといわれるとしじゃない、と、頑なにもみえるさまで、低く漏らす。そのあと、帽子のつばを気取ったようにいじり、ぼくは作家だよ、といった。
「へぇ、小説家?」
「そうともいう」
「なにを書いてるの」
「愛について」
 心底ほこらしく、断言する横顔。やっぱりこのおっさんうさんくせぇな、と思った。学もなければ家もないおれには、理解しがたいものだ。愛について、なんて、想像すらできないものだった。
「へぇ」
 そう相槌をうつよりほかならず、再び煙草にくちをつける。ジジ、と煙草の音が鳴る。瞬間、脳も音をたてる。痺れていく。愛について。言葉だけをめぐらせて脳におくりこむけれど、やっぱりうまく想像できなかった。愛についての記録がないから、どうにも、脳裏に再生することができない。
「こら。きみ、煙草はよくない」
「なんでおれだけ。ほかのやつにもいえよ」
「だってきみは未成年にみえる」
 としを指摘されるなんて思わなかった。こっち側にきてから、そんなものは剥奪された気分だった。まわりのみんなは煙草をすすめたし、恵んでくれた。だからおれはもう、自分がおとななんだと思っていた。そもそも正確なとしを知らない。でも、おとなだっていう証拠は、としで決まっていいのか。
「ひとをみかけで判断するのはよくないよ。それに、おれが未成年だったとしても、誰も困らないよ。気にもとめない、社会ってやつは。おじさんにも、なんの関係もない」
「おじさんじゃない」
 男はまたも断固否定し、「関係はある」といいきった。
「ぼくはおとなだ。社会だ。愛そのものだ。だからいう権利がある。そして凡人ではない、特別だ。ぼくは世界で、いや宇宙でたったひとり。愛についてを描く作家なのだから、おのれも愛で満たしていなければならないんだ。わかるか?」
「……変なひとだね、あんた」
 つっこみどころが満載なおとなだなぁ、と思った。全然、わからなかった。作家と名乗るのだからそれなりに利口なのだろうが、極論、真逆にもみえる。つまりはバカだ。頭のわるそうなしゃべりかただった。それが原因かもしれない。男はしゃべりかたで損をしている。おれがこの作家をあわれんでやろう。おれを捨てたおとなが愛そのものだなんて、なぜそんなことがいえるのか。おれをごみだと罵る社会が愛そのものだなんて、なぜ、そんなことがいいきれるのか。お前以外はくさそうな顔で、汚いものでもみるように、遠巻きにカメラを覗いているんだぜ。そうか。マスコミ用か。そうじゃなかったらやっぱりバカだ。特別? ぼくは世界でたったひとり? こいつのいう愛ってやつは、いったいどこの国の言葉だろう。日本をこえて、世界をこえて、宇宙にでもあるのだろうか。
「きみも個人だ。ホームレスの集団ではない。そもそも括れるものでないんだ、個人とは。きみも世界で、宇宙でたったひとり。特別だ。だからぼくはきみだけにいう。煙草はよしなさい」
 なんだか、呆気にとられて、素直に煙草を離してしまった。男は満足げな表情をして、おちた吸いさしの煙草を咥えた。
「あんたはいいのかよ」
「ぼくはおとなだからね」
 うまそうに吸いだすのが腹立たしい。だけどおれは笑っていた。芽生えた感情がなんなのかはわからない。うれしい、のかもしれなかった。
「さて。焼き鳥でも食いにいこう。ほら、そこの。きみたちもきなさい。今日は煙草をやめて、すこしは自分を甘やかしたらどうだろう」
「自分を甘やかす?」
「ああ。やっぱりおとなにも、煙草はよくないからね」
「自分が吸ってちゃ説得力ないよ」
「たまになら良薬だ。ぼくは普段は吸わない」
「めちゃくちゃだな」
 ほんとに、めちゃくちゃなおとなだ。ほんとに、おとななのかもあやしい。みためはおっさんなのに、まともじゃない。そもそもまともなおとななんているのか。めちゃくちゃじゃないおとななんて、この世にいたのだろうか。正しい、なんてあったんだろうか。むこう側が正しい世界なら、おれのいるこっち側の世界はまちがいで、おれがつるむおとなたちは正しくないことになる。社会はおれたちを正しくないという。でもおれはおれに接してくれるひとを正しくないと思ったことはない。この男はどういうつもりでおれたちに触れるのか。わからないけれど、正しい判断とはいえないような気がして、おれはこいつをあわれむ。焼き鳥につられて、素直に従うおれたちもおれたちだけれど。そりゃあ、腹がふくれるならばついていく。こんなごみみたいな世界でも、生きていたい。明日をみたい。
 作家を筆頭にまばらに歩く。おれたちは家鴨のように整列できない。でも、作家はたびたびうしろを気にして立ちどまる。笑みを浮かべている。あいかわらずのうわっつらで。だけど、正しくないおれたちを、待っている。ちがう世界に、触れようとしてくる。関係ないだろ、お前には。たぶんいってもおれの言葉は通じない。とてもとてもとおい世界の、宇宙の、ちがう星の「個人」だから、こいつにはわからない。
「おれはいくつにみえるの」
 となりに並ぶ。身長差はあまりなかった。ちいさくはないけれど、別段、おおきくもない。それでもこいつは自分のことを特別だっていうのか。おれのことも、特別だっていいきるのか。なにを知っているというのだろう。
「ぼくはみかけじゃ判断しないよ」
「は? おもいっきりしてるだろ」
「してない。宇宙レベルでみているんだ。きみはまだ生まれたてだ」
「意味わかんねー」
「まぁ、地球レベルでは十七そこらだな」
「最初からそういえよ。つか、もっと生きてるし」
「そうか。えらいな」
「なにが?」
 作家はしゃべりかたで損をしている。マジで頭がわるそうでおれはあわれむ。あわれんでやる。きっと、あわれんでやれるのはおれだけだから。だけどこいつはおれをあわれまない。なにがおかしいのか、愉快そうだ。作家はこたえなかった。なにがえらいのか、こたえなかった。ただ、愉快そうにとなりを歩いた。えらいのは、生きていること? たぶんきいてもわからない。とてもとてもとおい世界の、宇宙の、ちがう星の「個人」だから、こいつのことは一生、わからない。
「あんた売れてないだろ」
「失敬な。大ベストセラーだ。ちょう売れてるわ」
「ちょうとか無理して使うなって。余計に頭わるそうだから」
「きみ、発言には気をつけろ。こどもだからって許されると思うなよ」
「あんた別におとなじゃないだろ」
「まだ二十代だからな」
「……みえねー」
「ひとをみかけで判断するのは」
「はいはい。よくないですね」
「よろしい。きみは最初から知っていたじゃないか」
 おとなだけどおとなじゃない、特別なひと。おれよりは確かに、長く生きてはいるけれど、このひともおとなになっている途中なのかもしれない。としのことをいっているんじゃない。地球レベルじゃなく、宇宙レベルで。
「ちょっと本屋へ寄ろう。ぼくがちょう世界的大ベストセラー作家だということを証明してやろう」
「いいよ。おれ字読めないし」
「読まんでもいい。本に触れなさい」
「いいって。おれ、汚いし」
「自分をみかけで判断するのはよしなさい」
「は?」
「大丈夫。きみはきれいだ」
「……意味わかんねー」
「わからないのか?」
「わかんねーよ」
「ふふん。まだまだこどもだな」
 腹立たしい。なのに、なぜか憎めない。きっとしゃべりかたのせいだ。おれよりも頭がわるそうだから、おれはこいつをあわれむんだ。ひとを卑下していないと揺れてしまいそうになる。崩れおちてしまいそうになる。おれは汚い。だってそういう世界にいた。いる。これからも。


 そと側から本屋のうち側をのぞきこんだ。作家の背中がむこうへ吸いこまれていく。待って。思わず声をあげそうになった。実際にはできなかったけれど。だけど作家は気づいてしまうんだ。ふり返って名も知らぬおれを呼ぶ。きみ。どうした。躊躇う必要はない、と。
「やっぱりおれとは縁遠い世界だ」
 誰にきかせるでもなく呟いたのに、むこう側にいた男には届いたらしい。そんな粋な言いまわしができるのだから、きみの将来は安泰だよ。なんて答えが返ってきて、なぜだか一瞬だけ、染みをつくるようにぽつんと、記録なんてないのにそれは脳裏に再生された気がして、いや、不思議と、心臓のあるあたりに再生された気がして、おれは、この男のいう愛についての世界を、少しだけ、みてみたいと、思った。未知の世界はおそろしい。でも、きっと、想像をこえたすばらしい世界のような気がした。
 ねぇ、あんた作家ならさ、教えて。すばらしいよりうえの、もっと感情がおおきく動く言葉を、おれの胸が、最も、ぴたりとはまる言葉を、教えてよ。



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常世田美穂
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