愛猫のような彼女と…

青く綺麗な空の下、うんざりするほどの寒さを肌に届ける風に体を震わせながら彼は街中を歩いていた。

「う〜さむさむ。天気予報で聞いてたより寒くないかこれ」

黒いコートの守りを貫通する程の寒さ。
せっかくの学校のない休日。普段ならば温かい布団の中にいただろうが今日は違う。
寒さに苦しんでも、天気予報の裏切りに嘆いてでも、外に出たいと思う理由があった。

「お、いたいた。待たせちゃったかな」

駅前で彼はその理由を見つけた。
白いコートを着たその理由は駅の目印の一つ、時計台の前に立ってスマートフォンを見つめていた。

「お待たせ」

彼は近付いて声をかけると彼女はーエレオノール・ジョヴァンナ・ガションは顔を上げた。

「待った?」

「遅いよ。もう一時間はここにいて待ってたのに」

「そんなに!?時間指定したのエリーじゃん」

「嘘だよ。私もさっき来たばっかり」

「会っていきなりはやめてよ…焦ったぁ」

エリーはこういうところがある。
人をからかうのが好きな彼女はよくこういう風に嘘をつく。
この嘘にはたまに本当にヒヤヒヤさせられることもある。
ただよっぽど冗談の範囲には収まらないような嘘はつかないし、何より彼としてはこういうことを言ってくれる内は安心できる。
彼女が嘘を言う相手は限定されていて、その対象は彼の知る限りでは彼女の親友のアイラと自分の二人だけ。
嘘をつかれるということは彼女の中で自分はアイラと同じくらいの立ち位置にいるのだと勝手に判断している。

「じゃあ行こうか。お昼は、食べてこなくてよかったんだよね?」

「お昼一緒に食べたいからね」

嬉しい言葉を頂いて彼はエリーと電車に乗り込む。
隣に立つエリーのスマートフォンの画面にショッピングモールのホームページが表示されてるのを見えた。

「それ、今から行くところの?」

「うん。改めて何があるかちゃんと確認しておきたくて」

「結構大きなところなんだなぁ。お店いっぱいあるじゃん。トネールあるんだ。ここの服好きなんだよね」

「服もいいけど私は食べ物が気になるかなー」

「やっぱり?」

彼には目もくれずエリーは端末上に表示されている飲食店の情報を調べる。

「あ、これ!こないだテレビで言ってたやつだ。でもこっちのも気になるなぁ…う〜ん、どこから行こうか悩むね」

「行きたいところ行けばいいじゃん。行けなかったところはまた次にしてさ」

「そういう問題じゃないの。わかってないなぁ」

「ええ…」

相変わらず視線は寄越してくれない上に苦言を呈されてしまった。
でも彼にとってはそれでいいのだ。
エリーの横顔を見るのも、ちょっと頬を膨らませて一言言われるのも好きだから。

「でっかあ〜」

「大きいねー」

駅から直結している大型ショッピングモールの規模の大きさに彼とエリーは建物を見て呟いた。
構造は二棟に分かれて四階層。しかも隣にはもっと大きな駐車場が隣接している。

「どこから行く?エリー的にはやっぱり食べるところ?」

中に入った二人は入り口近くの案内図を見てこれからの目的地を相談する。

「そうだねぇ、あ!最初ここにしない?」

「どれ?」

「ここ、ここ」

「ペットショップ。ペットショップかぁ…」

施設の案内図に置かれたエリーの指の先を見て彼は何とも言えない苦い顔をする。

「嫌?」

「嫌、嫌じゃないんだけどなんて言うか…」

「そういえば動物苦手だったっけ?」

「動物っていうか猫がね。小学生くらいの時だったかさ、指を引っ掻かれて泣いたの」

今思い返してもその時からの光景が鮮明に蘇る。
友達の家に遊びに行った時のこと。その家の飼い猫が近付いてきて、愛くるしい動きと見た目に気を許した彼は猫に触れようと手を伸ばした。
しかし猫は彼の期待を裏切った。
伸ばした手を振り払うように引っ掻き、威嚇するように興奮した声を上げた。
それがきっかけとなって彼は猫に拒否反応を起こし、距離を置くようになった。

「でも見てみるだけ見てみようよ。見るだけだったら平気でしょ?」

「まあ、見るだけなら。それにちゃんとケース、でいいのかな?その中に入ってるでしょ?」

「だと思うけど、どうだろ」

「どうだろ?えっ、違うの?」

「私に聞かれてもわからないよ。お店の人じゃないんだから」

「そうだよね。ごめん」

彼としては本音を言うと『よし行こう!』と前のめりな気分にはなれないが、エリーが行きたいと言うのなら行こうではないか。
それに見ている分には一向に構わない。

「うわぁ〜。かわいい〜」

ショーケースの中で腕を舐めるイエネコにエリーは顔を近付けて興奮する。

「触ることもできますのでもしよろしければ言ってください」

「本当ですか?お願いします」

「かしこまりました。こちらの子でよろしいでしょうか?」

「はい、この子お願いします。一目惚れしちゃった」

許可を貰いリオ、という名前のイエネコを店員から受け取るエリー。

「可愛いぃ〜!」

甘えた声を出して自分を見つめるリオにエリーはますます魅了される。
鼻と鼻が触れそうになるくらいの間隔まで顔を近付けたエリーは一旦、リオから視線を切って離れた場所の棚に移す。

「そんな離れたところにいないでこっち来なよ」

「いい!ここでいいです!」

ペット用の食料品が陳列している棚の影に隠れてるようにして覗き見ている彼。
彼の頭の上にはモフィという鳥のような見た目の生物がいる。
相当そこが気に入ったのかモフィは座り込んでいるかのように彼の頭から動こうとしない。

「本当にダメなんだね」

頭に堂々と居座る鳥は平気なのに距離の遠い猫を怖がるとは。話は聞いていたとはいえ本当に過去にされたことがトラウマになっているようだ。

「嫌なお兄ちゃんだニャ〜。こんなに可愛いアナタのこと嫌いニャんだって」

「そこまでは言ってない。苦手って言っただけじゃん…」

猫に寄せた口調と表情でリオに言うエリーに彼は遠巻きながら異議を申し立てる。

「ちょっとだけでも触ってみなよ。せっかく来たんだし、あんまり動かないように私が持ってるから」

エリーとて嫌がらせのつもりで言っている訳ではない。ただ単に可愛いものを一緒に共有したいという純粋な思いから言っているのだ。
ならばなるべくその思いには応えたいし、何よりもいつまでも猫に拒否反応を起こす自分にも内心嫌気がさしてきたところだ。
彼は勇気を振り絞って棚の影から出るとエリーとリオの元に近寄る。

「はい」

エリーは腕の中にいるリオを自分の体ごと彼に向ける。
リオは無言でじっと彼を見つめていた。
恐る恐る彼は手をゆっくり伸ばす。
その指をリオは優しく舐めた。

(あっ…)

「ね?大丈夫でしょ?ちっとも怖くなんかないもんねー」

エリーの言葉に応じていると言っても差し支えない程にピッタリなタイミングでリオが鳴いた。

「抱いてみる?」

「あ、うん」

彼の承諾を得てからエリーは自分の腕にいるリオが自分で移動できるように腕と腕を密着させ、リオはエリーの意図した通りに二人の腕の間を移動した。

彼は自分の腕に収まったリオを見つめ、リオもまた彼を見つめる。
表情、触り心地、鳴き声…こうして間近で見て触ってみなければわからなかった情報が身体を通していっぺんに伝わってくる。
そこから彼が導き出した結論は

(か、可愛い〜〜!!)

ペットショップを後にした二人は食事のため近くの店に入った。
テーブル席に向かい合うように座り、エリーは二種類の色をしたカレーを、彼はナスとチーズのパスタを頼んだ。

「さっきの猫ちゃん凄く可愛かったね。どうだった?触って見た感想は?」

「気持ち良かったし可愛いかったです」

「でしょー。もっと褒めていいよ」

注文したカレーを食べながらエリーはまるで我が事のように誇らしげな態度をする。

「ご飯食べ終わったら次はどうする?」

「洋服見に行こうよ。さっき行きたそうにしてたでしょ。洋服見てその後プリクラ撮ろ」

「プリクラあるの?」

「あるよ。さっきゲームセンターの横通った時に見えたから」

「そうか、じゃあその方向でいこうよ」

カレーとパスタを食べ終えこの後の方針も決まった。
そこへ店員が食後のデザートとして頼んでいた二つのパフェを持って来る。

「お待たせしました。こちらストロベリーパフェとチョコレートパフェになります」

ストロベリーパフェをエリー、チョコレートパフェを彼の手元に置いて店員は一礼してから席を離れる。

「写真で見るより大きくない?」

「おっきいね。私は嬉しいけど」

メニュー表に記載されていた写真の1.5倍はありそうなサイズにたじろぐ彼。
食べ切れるだろうかと不安になるそんな彼とは違って、エリーはむしろかえって喜ばしいといった具合でパフェを食べ進める。

「んっ、美味しい」

「こっちも美味しい」

お互いにパフェに舌鼓を打っていると彼の携帯に着信が入った。

「あ、誰からだ?…ごめん、バイト先からだ。ちょっと出てくるね」

「はーい」

断りを入れて彼は通話ボタンを押すと同時に席を立った。

「もしもし、シルヴィ?どうしたの?…来週の水曜日?ああ、確か空いてたと思う。うんー」

電話口の相手と会話する彼の声が小さく聞こえなくなっていく。一度店の外に出たのだというのがエリーにはすぐわかった。
それ自体には何の気にも止めず、エリーの視線は彼が食べていたチョコレートパフェに注がれていた。

(こっちはどうなんだろ)

エリーは手を伸ばしてパフェに刺さっていた彼のスプーンを掴むと、ほんの一口分だけ取って口の中に入れる。
どこかで何か音がしたがエリーはチョコレートパフェの味の虜になっていた。

(うん、このチョコレートも美味しい。ちょっと大人向け、って感じかな。今度来た時はこっちにしてみようかなぁ。でもストロベリーもまた食べたいし、悩むなあ)

などと考えながらスプーンを元あった場所、すなわちチョコレートパフェに戻そうとした時エリーの手がピタリと止まる。

(あれ?)

何かがおかしい。自分のしている動きにどこか違和感がある。
その違和感の原因を追求するためエリーは一連の流れを頭の中で分析し整理する。
チョコレートパフェも食べてみたくなって一口貰おうと思った。ここまではいい。
実際に食べてみてその味を確かめた。これもいい。
実に素晴らしい味だった。
そしてそのために使って今自分が戻そうとしているスプーン。これは最初からチョコレートパフェに刺さっていた物、つまりはさっきまで食べていた彼が使っていたスプーンだ。
自分が使っていたスプーンはストロベリーパフェの方に刺さったまま。本来ならこれは自分の手元にあるべき物のはず。そのはずが何故か位置が逆転している。

(こ、こ、これって、間接キス!?私間接キスしちゃった!!?)

ようやく違和感の原因に気付いたエリー。彼女の顔は真っ赤に染め上がっていた。
完全に自分でも無意識のうちに取っていた行動だった故に襲いかかる恥ずかしさはとてつもなく大きい。

(私何やってるの!!?ど、ど、ど、どうしよう…!なんだか急に心臓がドキドキしてきたし、体も熱くなってきた気がする)

とりあえずスプーンを元に戻してエリーは恥ずかしさを誤魔化すため、熱くなってきた体を落ち着かせるためにストロベリーパフェに救いを求める。
けれどもストロベリーパフェの甘さも冷たさもまるで効き目はなく、ますますエリーの羞恥は加速する。
どこかの席で大きな音がしても気付かない程にパニックになっていた。

「ごめん、お待たせ」

そこに彼が帰って来る。
席についてスマートフォンをポケットにしまった彼は再びチョコレートパフェにありつけようとする。
その行動をエリーは声を上げて遮った。

「こっちも食べてみて!」

「え?でもそれエリーのじゃない?」

「いいから!こっちも美味しいから!ね、食べてみてよ!とっても美味しいから!」

いつになく早口で語気を強めて捲し立てるエリーの様子を彼は妙に思う。
ただここで断る理由もないので彼女の要求をすんなり受け入れる。

「あ、うん。じゃあ」

エリーは自分のスプーンでストロベリーパフェを掬って、彼の口元に近付ける。
彼は腰を少し上げてエリーのスプーンに乗っているパフェを口に含む。
その時遠くの方で何か物音がしたが、二人の意識と視線がそちらに向くことはなかった。

「どう?」

「うっま。このイチゴの感じ今まで食べた中だと一番好きかも」

「でしょ!すっごく美味しいよね!」

(エリーの様子、なんかさっきと違うような…)

パフェの味は満足だけれどもやはりエリーの態度がどうも引っかかる。
自分が席を離れている間に何かあったのかと彼は考えを巡らせる。

(えっ…あれ?…今、エリーのスプーンで食べた…?間接キス、した…?えっ、えーーーっ!?)

そこで彼は気付いた。自分がストロベリーパフェをエリーの使っていたスプーンで食べたことに、しかもそれが間接キスであり、いわゆる『あ〜ん』のそれであることに。

(まさかエリー、わざとこれを。狙ってたの!?)

さっきの異様な態度。それがこのための前振りであったのではと彼は疑う。

(でも、あれだな。わざとやったならもっと笑顔でからかってきてもおかしくないのに…全然そんな感じじゃないな)

そう、いつものエリーならばもっと何かこちらをいじめてきてもいいはず。余裕のある顔でこっちを見て『もっと他に感想ないの?』とか『急に黙っちゃってどうしたのかなー?』とかちょっと意地悪なことを言って来る。
しかし今回はどういうわけか追撃は来ず、エリーは視線を下にして俯いたまま。
パフェに手をつけることも、話しかけてくることも、顔を合わせることもなかった。


(なんでだ…?)

その理由がわからず悶々とする彼。どこか具合でも悪いのかと思い、ここは試しに聞いてみることにした。

「大丈夫?気分悪い?」

「えっ?ううん!どこも悪くないよ!」

質問を投げかけた瞬間エリーは素早く顔を上げた。

「本当に?」

「うん、本当本当。平気平気」

「なら、いいけど…」

とりあえず体調に問題がなさそうだ。
そのことには安堵した彼はまた別の質問をした。

「こっちのも食べる?」

「あっ……大丈夫、かな」

「こっちも美味しいよ?それに俺だけ貰うのもなんか違う気するし」

「ほ、本当に大丈夫。私はもう食べたから、私に遠慮せずに食べて…」

「そう……もう?」

「へっ?」

「いや、今もう食べたって…」

「…私そんなこと言ってないけど」

「うっそだあ」

「言ってない。うん、言ってないよ。信じて」

「…わかった。変なこと言ってごめん」

「ううん、こっちこそごめんね」

ー確かに言ったはずなのだが
腑に落ちない彼であったが長引かせてても空気が変な方向に行くだけと判断して、強引に自分を納得させることにした。

食事を済ませた二人は服を見に行った。
そこではお互いに合いそうな服を選んで試着して二人の意見が一致した物を購入した。
次なる目的地ゲームセンターへと向かっていると彼は背中…正確に言えばエリーの立っている側とは反対側の背中に何かがぶつかった衝撃を受ける。

「わっ」

「すみません。ごめんなさい」

「いえ、そちらこそ大丈…」

おそらくは人とぶつかったのだろうと目で確認するよりも先に聞こえてきた声で判断した彼は後ろを振り返った。
出かけていた謝罪の言葉が引っ込む程の驚きに襲われた。

(誰!?こわっ!!?)

ゴーグルで目を、口元を赤いマフラーで隠した如何にも不審者然とした金髪の長い髪の人物。
異彩を放つ格好を目の前にして彼はつい相手の心配よりも、驚愕の方が圧倒的に勝ってしまう。
そもそも何故室内でゴーグルをしているのか意味がわからない。
彼はただただ見ているしかできず、エリーはその隣で同じように様子を見守っていた。

「すみません。急いでるので失礼します」

随分と野太い声で、背格好からしておそらく女子であろう目の前の人物は足早に去って行く。

「何、あの…何?」

「さあ、なんなんだろうね。危ない人じゃなかったのは何よりだったけど。怪我とかしてないよね?」

「それは平気。ありがとう心配してくれて」

気遣ってくれるエリーに礼を言いながら彼はもう姿の見えない人物の去った場所に目をやった。

「もうこんな真っ暗なんだ。楽しい時間ってあっという間だね」

「そうだね」


気を取り直して二人はゲームセンターでプリクラを撮ってそれからショッピングモールを出た。
夜の道を歩きながらエリーはプリクラで撮った写真を一枚一枚眺める。
エリーは猫の耳を、彼は犬の耳を頭に生やした動物の加工ができる写真、加工なしに二人揃ってピースサインをした写真。
そのどれも全てエリーは気に入っているようでさっきから何度も見返している。

「いつまでいられるかな。こんな風に」

ふと突然神妙さを漂わせた声をエリーが出した。

「私たちってさ、ずっとこのままじゃいられないじゃない?学校卒業していつか大人になって、それぞれ自分の進路に向かって進んでいかなきゃいけないわけだし」

エリーは言うと天を見上げる。
夜空に輝く幾つもの星。その中の一つのすぐ近くには大きな雲が寄り添うように浮かんでいた。

「あの星の近くにある雲だっていつまでもあそこにいるわけじゃないでしょ?時間が経つと消えてあの星とは離れ離れになっちゃう。そう考えたらなんだかちょっとね」

星と雲に自分たちを重ね合わせているのだと彼は理解できた。
今はこうして側にいる時間もそれも学生の間だけ。
たまたま同じ学校にいるから成り立っている関係だ。
今後のお互いの進路次第ではもう二度と会えなくなるかもしれないと考えているのだろう。

「ちょっと違くない?」

ただ彼の考えはそんなエリーとは違った。

「違うって?」

「あの雲と星はもうこれっきりになっても人は違うじゃん。これからどんな道に行くにしても、どこか違う場所に行ったとしても会いたいって気持ちがあれば会える」

そりゃあ、と前置きしてから更に続ける。

「今みたいなままじゃいられないってのはもちろんそうだよ。そこはあの雲と一緒。でも雲みたいに形や場所が変わったとしても、同じ星の側にいられたらいいな、って思うよ」

雲のような高い場所に行けるような生き方でなくてもいい。
雲のように大きくて皆が見上げるような立派な存在になれなくてもいい。
ただ姿形、場所が変わっても、どんなに時が過ぎて行ってもずっと同じ星の側にいられたら、それでいい。
それができるならそれでいいと今は強く思う。

「そっか…」

彼の言葉を聞き届けたエリーはそっと自分の体を彼の体に預けるように寄りかかる。

「だったらこれからもずっと一緒にいられるためにもさ」

「えっ…!?」

そしてエリーは少しだけつま先を上げて顔を彼の顔に近付け、彼の耳元の付近と自分の口元を片手で覆い隠す。

(これって、もしかして…)

女子が自分の顔を男子の顔に近付けてすることと言えば…自らが脳内に導き出した答えは場の雰囲気も相まって彼に緊張をもたらした。
彼は大きく唾を飲み、エリーの行動に身を委ねた。

「もっと頑張らなくちゃね…35点くん」

ぼそっと小さな声で言ってエリーは彼から少し距離を置く。
彼は不意打ちを食らったのか魚の瞳を連想させる大きな瞳でエリーを直視する。

「なんで…それ知って…」

「アイラが教えてくれたんだ。あいつこの前の物理のテストの点数酷かったから次のテストまでには何とかしてやってくれないかって」

(アイラーー!!!)

同じクラスの友人の名前を彼は心の中で大きな声で叫ぶ。もしも実際に叫んでいたら周囲の人たちの視線を一身に受け、気まずい空気が流れていたことだろう。

「将来どういう道に進むにしても成績は良い方がいいでしょ?」

「はい。仰る通りでございます」

「ちなみに私この前のテスト、クラスで5番以内には入ってるよ。どうする?」

「教えてください。お願いします」

「正解、よく言えました。そういうわけだから…」

小さな子を褒める時の言い方をしたエリーは携帯を取り出して、手袋をつけた手で操作し耳元に当てる。

「何してんの?」

「もしもし?あ、私だよ。うん、そう。久しぶりー、お母さんいる?」

「エリー?エリーさん?どこにかけてるんですかねそれ?」

何となく嫌な予感がした彼は声をかけるがエリーには届いていない…というより聞き流しているようで会話は遮られることなく続く。

「今いないの?そうなんだ。あのね、お兄ちゃん今日は私の家に泊まることになったから家帰らないんだけど大丈夫?」

「はい?」

思いも寄らぬ発言がエリーから電話越しの相手に向かって飛び、何故か彼の方が仰天する。

「お母さんもうすぐ帰ってくるんだ。それならよかった。ありがとう。うん、また今度会った時いっぱい話そうね。そうだね、お買い物にも行こ。またねー」

エリーは電話を切ってポケットにしまう。
電話相手が誰なのかもうとっくに勘付いていたが、どうか間違っていてくれという祈りを込めて彼は聞いた。

「エリーさん?今のはどちらに?」

「家だよ、そっちの。おばさんもう少しで帰ってくるみたいだから心配しなくていいって。よかったね」

「よかった…いや良くはないよ!?なんであんなこと言ったのさ」

「善は急げって言うじゃない?次のテストまで時間もあんまりないし、できる時にやれることやっちゃおうかなって」

「いや、でもさあ…」

「それとも…嫌?」

顔を近付けてそう言うエリー。
それをやられた瞬間彼は自分の敗北を受け入れた。

言葉とは裏腹に表情は満面の笑み。自分が断ったり、不快な思いなどしないだろうという確かな自信が表れている表情だ。

「嫌じゃないよ」

「えへへ、そう?ならよかった。安心した」

ーわかっててやってる癖によく言うよ
彼はエリーを見て心の中でぼやく。
本当にこういうところがズルいし憎めないし可愛いと思える。
そう思っている時点で自分はもう彼女には勝てないのだろう。

「ねえ、手出して。手袋取って」

「手袋取るの?こんな寒いのに?」

「大丈夫、すぐあったかくなるから。片方だけでいいよ」

エリーの言葉に疑問が消えないままであったが彼は素直に言う通りにして、手袋を外した手を出す。

「さむっ」

季節柄、時間帯もあって風に吹かれた手が強烈な寒さに襲われる。
これで一体何をするつもりなのかと彼はエリーの動向を静観していると、彼女も片方の手から手袋を外していた。
そして彼女は手袋を外した手で同じく手袋を外した彼の手を握る。
彼はまたしても虚を突かれエリーと視線を交える。

「どう?あったかい?」

「あったかい、けどこれなら手袋付けたままでも良くない?」

「手袋ないからあったかさが伝わるんじゃん。こういうのは」

「…それもそうかも」

お互いにギュッと相手の手を握り合うと二人は駅を目指して歩き出す。
これから先どんなことがあってもこの温かさが側にいてくれたらいいな…と切に思いながら





「うおっ」

「きゃっ」


駅に向かって歩いている道中、曲がり角から駆け足で出てきた人影と彼はぶつかった。
幸いにも衝撃はさほど強くはなかったが、ぶつかってきた側の人物は彼の方に倒れかかってきた。
突然のことに驚きながらも彼は受け止めようとする。
しかし一方の手はエリーの手を握っていて逆の手は買い物袋を持っていて塞がっている。
だから彼は咄嗟の判断で買い物袋を落として空いた手で相手の腕を掴んで倒れないように体を支えた。

「びっくりした。大丈夫でしたか?」

「はあ、はあ、だ、大丈夫、なのであります…」

心配する彼に返答しながらその人物は体を起こした。
ピンク色のコートを着て、息を切らしているのか肩を激しく上下させ、首には白いマフラーを巻いている金色の長い髪の持ち主。
そこだけ見れば目の前の人物を可愛らしい少女と思えたが彼はそうはならなかった。
何故なら

(またゴーグル!!?)

その人物はゴーグルをしていた。先ほどショッピングモールの中で自分と接触してきた人物と同じように。

「はあ、はあ、はあ、怪我はないでありますか?」

「ない、ですけど…そっちこそ大丈夫ですか?だいぶ疲れてるみたいですけど」

「マリ、私は何も問題ないであります…はあ、はあ、で、ではお互いに何事もないようなので、これにて失礼します」

乱れた呼吸をどうにか落ち着かせるよう努力している様子の少女は律儀に一礼をして、二人が歩いて来た道へと走り去って行く。

「本当今日は色んな人とぶつかってるね。あのゴーグル流行ってるのかな」

地面に落ちた買い物袋を拾って彼に渡すエリー。
ところが彼はそんなエリーの行動に気付かないまま、少女の後を目で追いかけていた。

「どうしたの?」

「今の人、ありますって、あの口調。どっかで聞いたことあるんだよ」

「前にどっかで会ったとかじゃない?」

「そうだと思う。でもどこだ…?どこであったんだっけな」

過去の記憶の引き出しを開けて探してみるがちっとも思い出せない。
でも記憶違いではないのは確信が持てた。確実に会ってはいる。
ただどこで何時あったのかが出てこない。



「上手くいった?」

「ぜぇ、ぜえ…取ってきた、であります…」

「よくやったわマリア!」

今にも死にそうな程疲弊して必死な形相のマリア・マグダリーン・ディートリック…マリアを労って私は彼女からある物を受け取った。
呼吸のリズムが整わない彼女の横で私は周りに人がいないのを確認してその物のスイッチを押す。

『もうこんな真っ暗なんだ。楽しい時間ってあっという間だね』

ボイスレコーダーから声が流れ出す。
エリー先輩と彼氏だと思われるあの人の会話が正確にはっきりと。

「よかった。ちゃんと上手く録れてる」

「はぁ、はぁ、ぜぇ、ほ、ほん、とうよかったのでしょうか。こんなことして」

「今更言っても遅いわよ。あんただって気になるって言ってたじゃないの」

マリアの言い分もわかるし、私だって罪悪感がないと言ったら嘘になる。
でも気にならないと言ったらもっと嘘になるのだから仕方ない。

私ーリュドミラ・アンドレエヴナ・ルスラノヴァがどうしてあの二人の会話を録音するような真似をしたのか。
どうしてマリアと一緒にいるのか。
その理由を説明するためには今日一日の出来事を振り返らないといけない。


つづく

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