「選択できる」ということ、あるいは自由の本質について
おはようございます。月曜日の朝を元気に迎える「週刊noters〜奮闘編〜」今週は寺口がお送りします。
先日、「地獄絵図」というワードがTwitterでトレンド入りしていました。
メディアでも様々な考察がされていました。主に働き方の文脈において。
何を感じましたか?
この大行列の中にいた人も、いなかった人もいろんなことを感じたかと思います。
僕はなんかすごく悲しい気持ちになりました。
そこに意思がなかったから。
きっと、ほとんどの人は自分の意思で選択してあの大行列に並んでいたわけではなかったと思います。よく個人と法人の関係性や、対話について話すことがありますが、仮に、朝集合しようというのが個人同士の約束だとしたらどうでしょうか。きっとどちらかから、「明日は電車が大混雑するから昼から集まろうか」となると思います。
このシンプルな提案が、個人が集まった法人になるととたんに難しくなってしまう。なぜかみんな身動きを取れなくなってしまう。
きっとたくさんの人が文句を言っていたと思います。でもその行き先は「当事者の誰か」ではなく、信頼できる誰かや、匿名のネットの声として消えていきます。
だからきっと、次台風が来て同じことが起こっても、また同じ「地獄絵図」は生まれると思います。
とはいえ
上記は理想論ですね。僕が一社目にいた会社で同じ状況になったら、きっと僕はあの列に並んでいたと思います。きっと「明日は午前中は自宅待機にしませんか?」と提案することができないからです。最初にいった人が負けになるから。みんな望んでいるのに。
仲間と話していたときに「組織のリーダーってなんのためにいるんだろうね」という話になりました。
リーダーはたくさんお金をもらっています。そのお金は何に支払われているかと言うと「他の人ができない意思決定をする責任」に対して支払われていると思うのです。
だから
あの日に、自分の会社の従業員があの列に並ぶことを予想しながらも「まぁいっか」と気づかないふりをしていたリーダーはもはや仕事をしていないんじゃないかなと思うのです。
日本にはリーダーが少ない
だからこの仕事をしている。少しづつでもいいから、リーダーを増やしたい。
25歳くらいのときに、尊敬する人がポロッとこぼしていた言葉を今でも覚えています。リーダーシップってなんなのか、リーダーの責務ってなんなのか?リーダーってなんなのか?
それ以来、考えることが増えました。今は答えは2つです。
「決めること」
「選択肢を与えること」
前者は、そらそうだという感じなのですが、後者もあると思うのです。
選択肢を与えるということ
「自分で決めなさい」
この言葉を日々もらえる人は幸せだと思います。
選択肢を持てることになるから。
でも、たぶんきっと、多くの人は選択肢を持てる状態になることを嫌います。
「ほんとは、誰かに、決めて欲しい」
なぜなら、自分で選択してしまうと、誰かのせいにできる権利を失うからです。だから選択肢を自ら消しにいって、〇〇が〇〇だからと言い訳の予約をして安心します。
楽ですよね。
ただ、その人は「自由」を語る権利も失う
自由の正体について2ヶ月間ずっと考えてきました。自由に関するブランドキャンペーンのプロジェクトに関わってからというもの、毎日「自由ってなに?」という問いが頭から離れませんでした。
今の答えは
選択肢を持った状態で、自分で選択して、行動とその結果に対して責任をもつということ
なのかなと思います。
これから、自由についてたくさん話すことになると思うので、選択肢と自由について、改めて考えをまとめておきました。
今選択肢はあるか?
自分で決めているか?
その意思決定に対して、言い訳を予約していないか?
この問いをできれば、多くの人に持ってほしいな。リアルな空間での意思表示がすごく減ってしまった現在において、意思を示すことはすごく大事だと思うから。
今一度、自由というものの正体について考える機会になればいいなと思います。
それでは、今週も、自分で決めて、楽しんでいきましょう。
また一ヶ月後。
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