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カーテンのない部屋

 そのお婆さんは老人ホームでいつも一人でした。面会に来る人もあまりいません。遠方に住む娘さんが年に数回来るだけです。
 脚が悪く、トイレに立つのがやっとです。皆と食事をしたり、庭を散歩したりすることもできませんでした。
 お婆さんの部屋は南向きで日当たりが良く、見晴らしも悪くないのでお婆さんはいつも外を見つめてニコニコしていました。
 食事も自室に運ばれるものを一人で済ませ、一日中一人で過ごす暮らしがもう5年になっていると言います。
 新人介護士がそれを聞いて退屈しないのかなぁと思ってお婆さんの部屋に注意を向けるとお婆さんの部屋には何もありません。テレビもラジオも、本も雑誌もありません。ただ、赤いスマホがサイドテーブルの上にいつも置いてありました。
 ミニマリストがスマホ一台で全てを済ませて暮らしているというのは知っていましたのでそれに似た暮らしは可能だとわかるのですが、流石に高齢のお婆さんとミニマムな暮らしはイメージが合いません。それでもお婆さんはいつもニコニコしています。楽しそうにさえ見えました。認知症で、いろいろなことが分からなくなっているのかもしれないとその介護士は思いました。悪い印象はありません。口数は少ないのですが、手がかかるということもありません。何をするにも時間はかかりますが、時間さえかければ全て自分でできるようです。こういった入居者さんは転倒だけ気を付けてあげればいいので仕事としては楽です。
 或る時、新人介護士がこのお婆さんの部屋に入ったときなんだか明るいので、朝からの雨が上がったのかと窓の外を見るとまだ小雨が降り続いていた事があります。気のせいかと、その時は気に留めずすぐに意識を仕事に戻して忘れてしまいました。
 それから、似たことが何度かあり初めてお婆さんの部屋にはカーテンがないことに気が付きました。その老人ホームでは個室のカーテンは入居者が自分で好きなものを付けることになっていたので他の部屋にはあるカーテンがお婆さんの部屋には無かったのです。総務の話では希望があればホームで用意するカーテンもあるのですがレンタル扱いで料金がかかるので特に勧めることはしていないという事でした。
 ミニマリストの部屋にも流石にカーテンはあります。シンプルなロールカーテンやブラインドを好む人もいるのでしょうがないことはありません。一人暮らしを始めたばかりだった新人介護士は、自分の部屋に好みのカーテンを付けたときに賃貸のワンルームが初めて自分の部屋になったという印象を持ったことを思い出しました。
 新人介護士はお婆さんの部屋のカーテンが気になったのですが業務を超えて余計なことを言うのは失礼になる。まだ、そこまで親しくなったわけでもない。それから務めて、話しかけたり気にかけたりしてお婆さんと親しくなるようにしました。
 特別なことをしたわけではありませんが、そんなことをきっかけに、新人介護士は仕事全般に慣れていきました。お婆さんとも、親しく話すようになってみると特に痴呆の兆候はありません。窓については、朝、窓の左端から朝日が昇るのでそれを見るのが楽しみだということがわかりました。夜は窓の右端に点滅する明かりを灯している電波塔をぼんやり見ているのが好きなのだという事でした。足の悪いお婆さんにはカーテンを閉めたり開けたり簡単にはできません。そうかんがえるとカーテンの類は、ないならない方がいいのかもしれません。お婆さんは「空はまだまだ綺麗だよ」と言っていました。
 新人介護士は、仕事に慣れて少し余裕が出てくるようになると今度は、一人暮らしが寂しくなり業務が終わると帰る前に少しだけお婆さんの部屋に寄って話をするようになりました。話し相手になるつもりが、すっかり懐いて愚痴を聞いてもらっていることの方が多くなっていましたが、大好きだった自分のおばあちゃんのように甘えさせてもらっていました。
 或る時、お婆さんはスマホが使えないという事が分かり少し驚きました。時々かかってくる娘さんからの電話に出るのが出来るだけで、掛け方もわからないという事でした。新人介護師が「教えようか?」というと「いいのいいの必要ないから」と言われてまた、退屈しないのかという疑問がわいてきました。失礼にならないよう聞いてみると、お婆さんは毎日反省しているのだといいます。
 空を見ていると自然に昔を思い出すことができる。色々なことがあった。色々なことをしたり言ったりしてきたけどそれで良かったのか、他の方法はなかったのか一つずつ思い出している、それが楽しいのだという。ああ、ごめんなさいと思うこともあるし、ありがとうございましたと改めて思うこともある。ただただ懐かしいことも多い。そういうことを本当に小さな頃から一つずつ思い出しているとすごく嫌だったこともなんだかありがたくて、反省することがいっぱいあって次は、次に生まれ変わったらこうしようと今から反省している。そうすると結構楽しくてずいぶん時間がかかってしまった。でも、もうじき反省は終わる。頑張りましたと誉めてあげたいと思っているの。
 そんなことを話してくれてから、しばらくしてお婆さんは亡くなって逝きました。天気の良い日でした。
 お婆さんを送り出し、ベッドだけになった部屋はなんだか暗い感じがして、ふと窓の外を見ると良いお天気でした。
 カーテンのせいではなかったのかもしれない。そんなことに今更気が付くなんて、介護士は暫くうつむいて動けませんでした。
「私もいつか反省しょう」とそう小さく声に出すと、こらえていたものが溢れだしてしまいました。


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