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北海道縦断歩き旅 11日目 「弁慶岬」島牧村~

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始めのうちだけだと思っていた足の痛みが、

もう11日目にもなるのに痛みが消えない。

足の裏だけで、他はすこし筋肉痛ぐらいだ。

朝からマッサージとストレッチをして出発。



セイコーマートで楽しそうな家族連れを見かける。

自分も家族を持ったらああいう風に旅行するのだろうか。

想像がつかない。


これまで旅行をしなかった人生。

経済的にも時間的にも考えられなかった。


ノロマで下手くそながらに、「普通の幸せ」に周回差で追いついた気がした。

幸せは平等ではない。

ほとんど、机の前だけで死ぬところだった。

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弁慶岬へに着き、休憩。

弁慶岬の由来は、

弁慶の舎弟ともいうべき常陸坊海尊が、義経再挙の兵を募って蝦夷へ向かったという情報を得た弁慶は、毎日毎日この岬の先端に立ち海尊の到着を待っていたが、海尊軍団の船影を見ることはできなかった。そんな姿の弁慶を見ていたアイヌたちは、この岬のことをいつしか弁慶岬と呼ぶようになったという。

それと、

アイヌ語のベルケイ(裂けた土地の意)が訛ったという説。


後者な気がする。

前者であるならば、弁慶は海のほうに向かって立っていてほしかった。

土地の商品化宣伝部長のような気がしてしまう。


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この日は晴れていて日差しが強く、屋根付きのベンチで休ませてもらった。

灯台を眺めていると、ワゴンから降りてきた交通整理員のおじさんが話しかけてきた。

歩き旅をしていると話しかけられる事は多かった為、歩き旅の話をしていると答えると。

おじさんのこれまでの仕事を話はじめた。

旅人に興味があって話しかけたのではなくて、自分が話したくて話し相手を探して、話しかけたようだった。

元は工事関係者でスカイツリーの建設に携わった事や、海外の建設にも携わった話などを聞いた。今は北海道で道路工事の交通整理をしているようだった。

自分の祖父も人足で全国を移動していた事を思い出す。

知人や家族から離れ離れになって、話し相手が居ないのかもしれない。


話し相手がいるだけで、救われる人がこの世にたくさんいるのかもしれない。


おじさんは、責任者らしき人に呼び出され、小走りでワゴンに戻っていった。

この旅で、交通整理員を何度も挨拶する事になるが、落ち着いて会話したのはここだけだった。

この日からラジオを聞き始める。

ほとんどコロナの話を繰り返し聞き。すこし、気がめいった。

もし自分が感染していれば、大悪党になる。

当初、宿泊を少なく控える予定だったが、疲れてきて宿泊が増えてきていた。

野宿ならほとんど人と接触しないが、宿泊するとどうしても接触はある。


しかし、ここで旅を終わらせたくなかった。

手放しては満喫できない、息苦しい旅になりそうだった。


寿都町に着き民宿を探す。

平日の為か、3軒に満室と告げられる。

人通りの多い町でなんとなく野宿したくなかった。


宿をあきらめてとりあえず食事する事に。

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道の駅でカレーを食べる。

久しぶりのカレーは旨かった。


食べた後、旅館に泊まれるか聞くも満室といわれる。

街中で野宿は気が引けたので、民家のない所まで歩いて探すことした。


すこし歩いた所に、セイコーマートがあって、休憩していると店の裏手に民宿がみえ。頼んでみる。

工事関係者数名ちょうど宿泊していて”満室”は避けられそうだった。

頼むと食事は用意できないので”素泊まりなら”と承諾してくれた。


すごく丁寧な女将さんで、色々不足がないか尋ねてくれて。

コイン投入口がある洗濯機をタダで使わせて貰った。

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綺麗な部屋で泊まりやすく、窓から、となりの物置がみえ。

そこから猫が2,3匹こちらを見ていて癒された。

あとで尋ねたら、捨て猫をかくまっていて、中には十数匹いるらしかった。

北海道の野良猫は冬が越せないから少ないらしく、かわいそうな野良猫に物置を貸しているそうだ。

たしかに、歩いていて野良猫は少なかった。


夜は久しぶりにTVを長時間みる。

仕事をしていた時は時間の食うTVは見ないようにしていた。

カメラの位置やおおげさな演出が気になって素直に楽しめなかった。

今更、普通に生きられるのだろうか。


満面の笑顔のタレントに電源OFFボタンを押して寝た。


■10日目 歩いた距離 約18km


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