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「今後の木造建築と職人」堀部安嗣


木造建築の技術継承、ならびに職人の減少問題は、世の中のありとあらゆる問題が複雑に絡んでいるので一言で言うことは難しいと思う。原因を単純化できないということは対策も単純化できないということだと思う。

農業、林業、水産業といった一次産業においても、個人経営の小規模なところは後継もなく、また国が大規模化を推し進めているから評価も保証もなく、次第に姿を消してゆくことになっている。近年の“働き方改革”も大企業で働く人にはメリットがあるが、純粋にものづくりを楽しむ人たちには逆風以外のなにものでもない。

建築業界においても同じ状況にあって、個人的な“ものをつくる喜びの場”は急激に奪われている。今まで日本の木造建築の技術と良心を支えてきたのは決して大規模で組織的な人々ではなく、むしろ個人的にものを作ることに喜びを見出してきた人々だから、この方向は日本の木造技術や良心の崩壊につながることを意味する。

かつての日本をささえてきたのは“ものをつくる喜び”を皆が持っていて、そこにしっかりとした評価が与えられていた社会があったからだと思う。また中産階級がほとんど占めていて所得や価値観が共通していたので建築に対する庶民の“批評”ができていた。“あの家は趣味が悪い。”とか“とても良い材料を使った良い家だ。”あるいは“あの棟梁はすばらしい人柄だ。”など、庶民の間で真っ当な建築評価ができていた。つまりいい意味で“ものを言う面倒臭い人々”が存在していた。さらに上流階級者は建築や文化に対する造詣が深く建築文化や職人技術の存続に対してしっかりとした評価とお金を与えてきた。旦那に育てられた職人は、その技術を庶民に還元してゆくことができた。しかし今は格差が開き、富裕層と貧困層に真っ二つに別れてしまった。支配者と支配される者と言ってもよい。問題なのは泡銭で金持ちに成り上がった富裕層には建築文化や職人技術に対するリテラシーが決定的に欠如している場合が多いということだ。もちろん貧困層は住宅に対する夢や希望など持っていない。私たちの相手にする人々はわずかに生き残ったリテラシーの高い中産階級に限られてしまった。しかし支配する側はわずかに生き残ったリテラシーの高い層に対して理解を深めてゆくどころか、その層さえ必要ないと圧力をかけている。なぜか。その層を残しておくと面倒臭いからだ。

今、世の中は“思考する人”を避けている。思考しない人の方がとりあえず楽に生きてゆけるような仕組みを築いている。その方が大衆を圧倒的に支配しやすいからだ。議論を好まない人々が多くなったのもその表れである。


戦後私たちは根を切られ、そして自ら根を切った。根とは伝統であり、原風景であり、風土であり、風習であり、慣習であり、良識であり、宗教であり、一次産業である。根を切られ、根を切った私たちは“お金”がある時代には根がなくても生きれるという錯覚を抱けた。しかしお金がなくなった今、その根の無さに愕然としているのではないだろうか。
根のない状況に豊かな枝葉を茂らすことに絶望し、未来を抱けなくなったのではないだろうか。はたしてかすかに残っている根を今後強化し、あるいは根を再生することができるのだろうか。おそらく今がラストチャンスなのだと思う。このチャンスをものにできなければ100年後の人たちに負の遺産しか残せない。きわめて深刻で難しい状況であることは間違いないが、まだ抵抗する力は残されている。

できることはそれぞれの立場と役割を考えて、各自の経験の中で日常的に現実を丁寧に修復することなのではないか。
これはまさに“大海の一滴”のような行為だ。しかし私たちはその一滴を大海に垂らし続けるしかないのではないか。

それは先の読めない不安と満たされない気持ちを抱えながら苦行のような行為の連続かもしれないが、少数派であることに誇りをもって次世代にとにかく良いバトンを渡すことを心がけるべきなのではと思う。
思想をもって必死に質の高いものづくりを時代に抗いながらしていた人たちがいたという事実を示すことが次世代の人たちにとっての大きな財産と励みになるのではないか。

一つ、現実的に私にできることは富裕層をしっかり教育することではないか
と考えている。建築文化に対して、職人技術に対して理解してもらい、ものを作ること、文化や技術を継承させてゆくことに価値を見出し、お金を払うことを促すことが必要なのではないか。
これを効果的な第一歩として、同時に本当の建築システムを整えてゆくべきだと思う。建築士試験、大学教育の木造建築の本質的な復権を呼びかけたい。そしてできれば小学校から“木造建築教育”ができることを望んでいる。


日本のカメラメーカーは大衆に迎合して一気にフィルムからデジタルに移行した。時代に対抗するにはそれしかないと考えたのだろう。しかし移行した先にはスマホにそのシェアのほとんどを奪われるという皮肉な運命が待っていた。
一方で今若い人にフィルムカメラが人気がある。もちろん少数派だが、皆んなが多数派に傾けばいずれ人は少数の価値に気付く時が必ずくるのだ。
作り手がそれまで辛抱して、少数派だからできる質の高いものづくりを手放すことなく作り続けることができるのかが問われているように思う。

競争の激しい既存市場を「レッド・オーシャン(赤い海、血で血を洗う競争の激しい領域)」、競争のない市場を「ブルー・オーシャン(青い海、競合相手のいない領域)」と呼び、これからはブルーオーシャンを拓いてゆくことが求められるという見方だ。

大衆相手としたマーケティングから生まれるものは結局みんな同じになり、レッドオーシャンしか居場所はない。競い合いの末になにも得ることはできないだろう。
私たちの仕事はもう少し辛抱すれば、まさしくブルーオーシャンを生きられるのではないか。特にこれからの若い人にはブルーオーシャンを生きてほしい。

大規模な建築現場に従事する監督や職人から“生気”が消えている。ものをつくる、建築をつくる喜びなど得られず、歯車の一つとなり無表情で機械的に働いている。
それに比べれば、まだ木造住宅の世界はずっと恵まれている。木という自身の身体の延長にある物質と触れ合うことができ、身体と感情を伴った仕事ができるからだ。

なんとか良い形で次の世代へバトンを渡したい。 堀部安嗣


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