見出し画像

ひとりでできる。本質に近づく考え方

先日、娘の七五三をどうするか?という家族会議を妻としました。12月も中盤にさしかかろうかというこのタイミングでこんな話題をしているのがなんとも私達夫婦らしくのんびりした話です。

お子さんのいる方はよーーーくご存じのことかと思いますが、子ども用写真館で何かを撮影するというのは非常にお金がかかります。撮影料こそ数千円であったり無料であったりするのですが、やれデータを購入するとかアルバムを四つ切で購入するだとかフォトフレームを購入するだとかすると、気が付くといい旅館に一泊できそうな金額にまでなっていたりします。

私は仕事柄写真をよく撮ります。月に1000枚くらいは撮影していると思います。といっても写真家ではありませんので販売等をしているわけではありません。ただの撮影係ですので、あくまで素人の撮影です。

私が使用しているカメラはNikonのD5600という一眼レフです。レンズは色々検討して中望遠のタムロンというメーカーの比較的お求めやすいお値段のものを使っています。中望遠レンズというものはとても便利です。近くで絞って撮影するとポートレート写真のような仕上がりになりますし、遠くの被写体もある程度捉えることができます。一般的な写真撮影ならこれ一本で多分事足りるのではないでしょうか。

おそらくカメラを本気でやっている人からすると私の撮影環境はスターターキットみたいな装備だと思うのですが、それでも色々揃えた結果100,000円もかかりました。カメラの世界というものは、とにかくお金がかかるものなのなのでしょう。深入りせず、テキトーにやっていこうという鉄の意志をもって向き合っている次第です。

はい、脱線です。とにかく、写真と言うものはお金がかかる。お金がかかるということは、慎重にならざるを得ないわけです。その場の高揚した気分で契約をして、毎日もやしを食べなくてはいけない生活になってしまっては困ります。今はもやしだってそれなりの値段がします。そしてもやしは日持ちもしません。

というわけで、冒頭に戻ります。妻とは賛成意見、反対意見を交わし、結果的にアルバムを作成しないデータが沢山もらえるプランで行こうという結論になりました。経緯を全部書くと論文みたいな長さになってしまいそうなので、ここでは省略いたします。

今回テーマにしたいのは『会議の重要性』ということです。
人は意思や行動決定をする際、もちろんフィーリングでビビっときた!というケースはもちろんありますが、大体が自分の中で決定するに値する根拠をもって「よし、これで行こう」としています。今回例に挙げた七五三の写真館選びにおいても、こんな根拠が上がりました。

  • アルバムは安く買えるし、写真も割と高精細でコンビニで印刷ができる

  • データが多い方が、後々焼き増しができる。データそのもので送ることもできて便利

  • アルバムが多いといっても、もらえるデータが少ないのはお得感がない

色々話した結果、我が家は「データ重視派」だということがわかりました。データ重視という「大切なこと」が判明すれば、あとはデータの枚数が多くて料金が安くて距離がそう遠くないところを選ぶだけです。

こういった結論は会議や議論、ディベートといった儀式を経過しないと導き出せません。かつての昭和の日本男児のように、会話も経緯もそこそこに

「ワシがそう決めたのだからそうするのだ!」

というスタンスでは、周囲の人にとってはまるで納得感がありません。さらに言うならば、人は一人の頭の中で考えているだけでは十分な議論が出来ません。本当はもっとよい手段があったかもしれないにも関わらず、それに気づくことが出来ずに、最適ではない選択肢を選んでしまう可能性だって大いにあります。

「おおきな会社の経営者の仕事ぶりを見ると」いうコンテンツに触れたことがあります。どこの何を見たかはまるで憶えていないのですが、業務時間の9割が「会議」でした。規模が大きくなればなるほど、この「会議」というものの頻度と質は大切なものになってくるのでしょう。

会社というおおきな生命体を意志決定して進めていく、その意志決定はブレのない一貫性がなければいけない。なぜならば、意志決定が昭和の日本男児よろしく強硬的で独善的なものであっては、会社で生きるすべての人が迷ってしまうからです。

迷いというものはやっかいです。なぜならば、迷いは不信に直結する感情だからです。誰も信用できない会社では働きたいとは思いません。組織を大きく強くしていくためには、そこにいる人が十分に信用できるだけの環境を用意してあげる必要があるのです。

はい。いつもの通り、ここまでが前フリです。
意志決定において、会議が大切であるという私の言い分はここまでで理解して頂けたかと思います。では、個人レベルでこの会議ができればとってもハッピーですよね。なんせ人を集めるという労力が必要ありません。

自慢じゃありませんが、私は友人があまり多くありません。いわゆるコミュ障というやつです。大勢の人と話し合ったりすることや、大勢の前で発表することなどは特に苦手としています。他人とぶつかることも苦手です。

学生時代、柔道部に所属をしていました。日本男児たるもの武道のたしなみがあってもよいのではないかという理由から選んだ部活でしたが、もう苦痛でしかありませんでした。喧嘩や衝突が好きでない自分が本気で相手と向き合って勝利を求め戦う。本来、柔道などの格闘技をやる人は闘争心にあふれ、強さを求める人なのだと強く感じました。まるで向いていない。

ある県の大会に出場した際、私が寝技対策でうつぶせで耐えている時に相手が私の背中に覆いかぶさり、自分のひじを私のこめかみに押し当て、力いっぱい首をこじ開けて締め技をしてこようとしました。耳元では「ぶっ〇してやんよ…」というささやきのおまけつきです。私の人生におけるトップクラスの最悪の経験として記憶に残っています。一応黒帯を獲れるまで続けることができましたが、願わくば二度と道着に袖を通したくないと思っています。

本題に戻ります。そんな会議できる対人関係をあまり持たない自分にとって、会議ができる場所をどう担保するかという問題がありました。会議はしたい、でも人と会議するのも難しい。そして思いついたのが「自分会議」です。

この自分会議、誰かに教わったわけではないのですが、世の中的には割と知られているものらしいです。ただ、今回ご紹介するのは私が思いついて実践しているやり方なので「てきとぴあ流自分会議」となります。ひょっとしたら世間一般のものとは異なる部分があるかと思いますが、そこはご了承ください。

自分会議のルールは以下の通りです。

  1. テーマに対して「肯定・養護・否定」の3つの立場を立てる

  2. 肯定も否定も必ず遠慮なく全力で行う

  3. 養護は肯定・否定のどちらの意見も必ず等しく養護する

  4. 否定の意見が出なくなった場合は「実行してよい」

  5. 肯定の意見が出なくなった場合は「実行しない」

  6. 必ず議事録を取って見返す

出来る限りルールはシンプルにするのが私なりのポイントです。この自分会議のいいところは、肯定と否定を繰り返すことで、頭の中で思考するより本質に近づくことができるという点です。人は無秩序に思考を巡らせると、どうしても自分の考えたい方向や「そうあって欲しい方向」に思考が寄ってしまうものです。きちんとフラットに物事を考え、可視化することで、自分の中での本質に近づくことができるように思います。

というわけで、今回の「てきとぴあ流自分会議」で『お金を稼ぐという事』というテーマで自分会議をしてみた結果を画像として貼ってみます。よかったらご覧ください。

肯定・否定の横にある養護の意見が双方の肉付けとなる意見になる
これ以上否定や肯定することがなくなるまで議論します

いかがですか?頭の中でなんとなく「お金を稼ぐこと」を考えると「大金が欲しいな~」とか「たくさん働かないとな~」とか「なんか一攫千金できないかな~」とか、荒唐無稽な思考で終わってしまいがちです。
自分の中に3人の役割を持った人物を持たせて可視化しながら進めることで、あたかも会議をしているかのように思考が建設的になるのが分かるかと思います。

ちなみに、私が使用しているこの自分会議用のフォーマットは単なるWordの表機能を使用しただけのものです。なんならチラシの裏とかでも出来ると思いますので、よかったらぜひ皆さんもお試しください。「今日の夕飯をなににしよう?」とかそんな議題でやってみるのもある種のゲーム性があって面白いですよ。

ただ、あくまで自分会議で出来る内容は「自分の経験や記憶にある知識から出てくるもののみ」という制限があります。本当に自分の外にあるアイデア意見を欲する場合は、自分という殻の外に出て他者の知見を頼りにする必要があることは、必ず覚えておく必要があります。


今日はここまでにしておきます。
最後に、私が推奨する考え方の「テキトピア教」のご紹介をさせていただきますのでよかったらぜひ。

テキトピア教は「人生をテキトーに生きる」がテーマの架空の宗教です。肩の力を抜いて生きることで、心を軽やかに生きることを目標とした考え方です。noteで教典を販売しているので、よかったらご覧ください。
ランチ一回を自炊にするくらいのお値段でお読みいただけます。是非是非。

テキトピア教のホームページを作りました。全力でふざけている気持ちでとっても楽しかったのでよかったらこちらもご覧ください。

では、失礼いたします。
お読みいただきありがとうございました。

いいなと思ったら応援しよう!