わたしたちの東京五輪2020日記⑤
東京五輪期間中の社員の様子を日記にしたためる当企画。
第5回は、30代社員 安藤の7月23日~8月8日までの日記です。
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7月23日(金・祝)
家族とパフェづくり。娘が幼稚園でもらってきた絵本にパフェの作り方があったので、それを参照。今年の夏休みのレジャーは、やはりインドア的なものが多くなるのだろう。
7月24日(土)
近所でブルーベリー狩り。私と妻と息子がイラガに刺される。農園の人に借りたムヒを塗ると、うそのように痛みが消える。毛虫に刺されたのは初めての体験だった。
7月25日(日)
近所の公園を流れる用水路でザリガニをつかまえる。たも網を使ったガサガサという方法で、今の時期ならいくらでも取れる。
7月26日(月)
期限の迫っている仕事があって、どうにも落ち着かない。ネットフリックスでたぶん3周目くらいの『ベター・コール・ソウル』を見て、無理やり仕事を終えた気分を演出する。
7月27日(火)
東京都の新型コロナウイルスの新規感染者数が過去最高値を記録した。まだ火曜日でこれなので、木曜や土曜辺りはどうなっちゃうんだろう。
しかし今のところ、「想定外」の出来事はなにひとつ起きていない。何もかもが事前に指摘されていたことであり、事態は想定の通りに動いているだけ。つまりこの惨状は、指摘されたことを無視してきた結果なのであり、仕事をサボった結果に過ぎない。
「安全安心に五輪が開催できない場合は中止をする」と言っていた首相がいたが、安全と安心は違うということが理解されていないのではないか。安全には定量的な判断が必要になるが、感染者数や病床使用率がどれぐらいになったら五輪中止を検討する、というような指針は示されていない。ひたすら「安心ったら安心なんだ」と言い募ることで「安全安心な五輪」を開催するらしい。
危機的な状況に対して、悲観的に捉えすぎて過度に恐れるのもパニックだが、楽観的に捉えすぎて過度に大丈夫だと連呼することもパニックである。傍目には落ち着いているように見える分、後者の方が厄介なこともあるだろう。正常性バイアスがかかっているというのは、立派なパニック状態だ。
その意味で、定量的な判断を全く導入せずに「安心」という自己暗示をかけ続ける首相や都知事は明らかにパニックに陥っている。せめて私たちだけでも賢く、この事態を冷静に恐れなければならない。
7月28日(水)
とある国からは誹謗中傷ばかり来て、日本人はみないいメッセージをくれる、とか言った選手がいたらしい。心の底からスポーツ選手を軽蔑したい気持ちになったが、すぐに大坂なおみ選手のようなアスリートを思い出し、その考えをぐっと引っ込める。平然と差別をしているのは、その選手個人なのであり、彼個人の発言を批判し、それがいかに恥ずべき価値観であるかを伝えればいいだけの話だ。
それにしても、スポーツ選手がお題目のように唱える「勇気と感動を与える」というのはなんなのだろうかと思う。例の選手の差別ツイートは削除されたらしいけれど、そこに集まった賛同の言葉を見ていると、差別抜きでは「感動」できないし、差別抜きでは「勇気」も出ない人々の姿に愕然とする。これが五輪の姿なのだろうか。
7月29日(木)
「どうせ自分がなにやっても世界は変わらない」という、思春期のような恥ずかしい台詞がいい大人から聞こえてくるようになったのはいつからか。
先日、ある体操選手がインタビューで「自分たちが何をしても世界は変わらない」「自分にできることは感動を届けることだけ」といった主旨の発言をしていた。
私たちがアスリートのパフォーマンスに感動するのは、それが世界を変えることだからだ。記録だけの話ではない。彼彼女らのパフォーマンスのあとでは、世界に対する私たちの見方が変わる。そういうものに出会ったときの心の動きを、私たちは感動と呼んできた。そう考えると、内村航平選手はとても不思議なことを言っているように見えてしまう。
純粋に知りたいのだが、であるならば、大坂なおみ選手は彼らの目にはどのように映っているのだろうか。私たちが勇気と感動を受け取るのは、間違いなく大坂選手のパフォーマンスの方である。彼女の発言やプレーは、私の行動を変えさせる。
7月30日(金)
思えば、首相や都知事までもが、「どうせ自分には人を救うことなどできない」などと思ってしまっているのではないか。思いっきり直接的に人を救う施策を打ち出せるポジションにも関わらず、である。非常にまずい。わかりやすく言えば「無責任」だということである。
思春期の子供のように思い悩むのは結構だが、その立場でそれやられるとどんどん人が死ぬのでやめてほしい。外科医がオペ中に「この人を手術で救っても、ぼくは世界を救えるわけではないんだ」とメスを放り投げたら、端的に言ってヤバいだろう。
7月31日(土)
私たちは普段、正しいこともすれば、間違ったこともする。何度も間違って絶望的な気分になりながらも、少しでも間違いを減らし、少しでも正しくあろうとしながら、日々の生活を営んでいる。
思春期の子供であれば、間違えてしまう自分、間違いを犯さずにはいられない自分に思い悩み、まるで悲劇の主人公であるかのように過剰にエモーショナルになってしまうこともあるだろう。しかしある程度の大人になれば、間違いを犯す自分に落ち込みつつも、正しいこともできる自分を知っている。だからあとは、いかに間違いを減らし、いかに正しく行動できるかだけである。
今回の五輪は、明らかに安全に開催できないことが明白であり、多くの人の命や生活と引き換えに行われることになってしまった。そんななかで強行される「明らかに間違った五輪」と直接対峙した選手たちは、個人としての倫理観を問われる恰好になった。
心無い人々が、この五輪に出場する選手個人に誹謗中傷を行うこともあったようだ。「明らかに間違った五輪」との戦い方は人それぞれである。それぞれが自分の正しいと思うことをすればいい。
ただ、差別発言をした選手や「どうせ自分には何もできない」と安い自己憐憫に浸る選手、五輪が批判されているだけで自分たちが批判されたと思い込む選手などを見ていると、生まれてこのかた、正しいか間違っているかの判断を、誰かにしてもらってきたのだろうと思ってしまう。だから自分の頭で「正しい/間違っている」を考えられないのではないか。スポーツ選手すべてがそうだとは言わないが、やはり選手たちのチャイルディッシュな言動が相次ぐと、随分甘やかされて育ったのだな、という印象を受けてしまう。
島田紳助だったか、野球場で「〇〇がんばれー」とガナる酔っ払いのおっさんを見て、「絶対このおっさんの方ががんばってるやんけ」と突っ込んでいた気がする。
8月1日(日)
ジェイソン・ライトマン『マイレージ・マイライフ』を見る。
主人公は、リストラ宣告人である。企業の代わりに従業員に解雇を告げることを仕事にしている。仕事は明らかに倫理的に間違っていて、彼はそのことに葛藤を抱えるが、結局その仕事を辞めない。それどころか彼はその仕事に、より一層精を出す。リストラ宣告を受ける従業員の痛みを具に感じ取れる彼だからこそ、最もマシなリストラ宣告が可能だからだ。
「間違っていること」に対する戦い方には、いろいろな形があるなあと思う。
8月2日(月)
昨年の大阪市長による「雨合羽でもほしい」発言と、今年の五輪競技中の選手たちの嘔吐シーン。これらはそれぞれ別の出来事だが、私はこの二つを同じひとくくりとして見てしまった。なぜか。キャスリン・ビグロー『K-19』を連想するからである。
冷戦下の1961年、ソ連の原子力潜水艦内で起きた、原子炉事故という実際の出来事を扱った作品である。実は原子炉の事故というのはひとつのトリガーでしかなく、その周囲には極めてすっとこどっこいな事情が以前から張り巡らされていた、というのがこの作品の肝である。きっかけを得たが最後、ピタゴラ装置のように次々と連鎖する地獄のありように、乗組員たちは右往左往するばかりである。
ひびの入った冷却システムを修復するために、乗組員たちはものすごい高線量の放射線を浴びながら作業しなければならなくなる。いざというときのために用意していた防護服は、しかし実質的にはレインコートと変わらないレベルの代物。なぜこの程度のものしかないのかという問いかけに、返ってきたのは「経費削減のため」という身も蓋もない回答。
防護服あらため無意味なレインコートを着込んだ乗組員たちが、時間を測って交代制で作業をする。致死量の10倍以上ともいわれる放射線を浴びながらの作業である。自分の番を待つひとりの若い乗組員は、迫りくる死の恐怖にこらえきれず、大泣きして動けなくなってしまう。見かねた先輩が彼の代わりに高線量区域に入っていく。制限時間が来て、区域から出てきた先輩は、彼の前で盛大に嘔吐する。強烈な内部被曝によって、彼の内臓は焼けただれてしまったのである。
死の恐怖におびえる若い乗組員の前で、自分の身代わりになった先輩が嘔吐するという、このどこまでも意地の悪い演出に、極限状態の悲喜劇を感じてしまう。私たちはこのシーンに心の底から恐怖し、引きつり、そして最後に爆笑する。怖すぎて。笑いとは、身体の痙攣であると言っていたのは誰だったか。インプットした情報を処理して正しくアウトプットする、という通常の処理ができなくなったとき、人はエラーを起こして身体の痙攣をおこす。
熱中症か、汚染された東京湾か、過剰な身体負荷か、トライアスロンの選手が嘔吐した直接的な原因は定かではないが、少なくとも私は嘔吐のニュースを見た瞬間、あまりにも不幸なピタゴラ連鎖を連想して、引きつって笑ってしまったのを覚えている。
8月3日(火)
東京も医療崩壊の様子。
8月4日(水)
太陽肛門スパパーンの『東京おらんピック』のミュージックビデオを見て、ジャネール・モネイ『HELL YOU TALMBOUT』を思い浮かべた。
『HELL YOU TALMBOUT』は、BLMに連なる代表的な作品で、2015年に発表された。差別によって命を落とした人々の名前を歌詞に盛り込み、ひたすらそれを連呼していく。
ポピュラーミュージックの歌詞において、地名や人の名前がある種の記号として扱われることがある。しかしラップミュージックなどに顕著なネームドロップというのはそれらとは少し異なっていて、その曲を歌う者が変われば、内容も意味も変わってしまうことが前提になっている。だから全く歌詞を変えないカバーよりも、歌詞もすべて作り変えるリミックスの方がこの分野では一般的だ。ネームドロップというのは、言い換えれば固有名詞を記号化しない技術であるとも言える。
『HELL YOU TALMBOUT』はそんなネームドロップの技術を用いて、けして記号化されない個人をもう一度曲のなかに呼び出す。その曲を通じて、歌う者と、そこに呼び出される名前との間に、あらためて関係を切り結ぶ。
8月5日(木)
円谷幸吉があの遺書のなかに落とし込んだ固有名詞の数々は、基本的には、別の人間が朗読する限り、成り立たないものではある。ところが、円谷幸吉を蘇らせたこのミュージックビデオにおいては、「安倍元首相」「東京電力清水社長」「竹田元JOC会長」「森元会長」「バッハ会長」「小池都知事」「菅首相」などの名前たちが遺書のつづきに加えられている。彼らの名は、彼らと個人的な関係になくても知っている。
あの極めて個人的な名前や事情が出てくる遺書のつづきに、こうした名前を据えることが可能なのは、いずれにせよそれらはすべて個人の名前だからである。個人である以上、記号化されない生身の人間として接する余地はある。もちろん皮肉だが、10年前から現在までのパブリックエネミーたちに「ありがとうございました」と直接呼びかけるとき、松浦祐也演じる円谷幸吉と「安倍元首相」らとの間には、個人的な関係が築かれている。
「安倍元首相」らは私たちを個人ではなく記号だと思っているだろう。しかし私たちは彼らを記号化せず、まっとうに怒ることができる。「権力者」「偉い人」「上級国民」的に切り分けて「どうせ私たちの声は届かない」と諦めるのではなく、人としてまっとうに怒りをぶつけていく。
だからこれは、『HELL YOU TALMBOUT』と似ている。けして記号化できない個人をもう一度曲のなかに呼び出し、歌う者と、そこに呼び出される名前との間に、改めて関係を切り結ぼうとする。
8月6日(金)
子どもの頃、8月6日9日15日近辺は暗くなるから嫌だった。
テレビをつけても悲惨な話ばかりだったし、防災無線で黙祷を呼びかけてたし。楽しい夏休みのなかに闖入した、ある種の「冷や水」であった。ただ、それが暗く嫌な気分になる必要があることであり、「冷や水」は浴びながら暮らしていかなければならないということは、子どもながらにわかっていた。
地上波では今年、ついにNHKまでもが特番を組まないようになったらしい。平和の祭典である五輪でも、原爆投下時の黙祷はやらないのだと、わざわざアナウンスされていた。
五輪関係者からテレビ制作の人らに至るまで、子ども程度の倫理も持ち合わせていないのだろうと、残念ながら結論づけるしかない。
何が正しくて、何が間違っているか、自分の頭で考えることを忌み嫌うと、こういうことになってしまう。
8月7日(土)
小田急線内で刺傷事件を起こした男が逮捕された。自分より幸せそうに見える女性が憎いのだと語ったそうだ。
自分より力の弱い人間を襲うことで力の優越性を確かめるというのはこの手の犯罪の典型だが、このような形でしか力の優越性を確認できないほど、彼らは自分の「力」に不安を覚えているということでもある。
人を襲う暇があるのなら、人を救う時間に割くべきだが、彼らはそんなことはしない。人を救うためには、時間と労力と想像力が必要だからである。何もかもをサボり、手っ取り早く自分の力を確認するために、彼らは自分より力の弱そうな人間を襲う。
新型コロナウイルスに感染して入院調整中にある人の数が1万人を超えた。重傷者以外自宅待機論は猛反発を受けて若干の軌道修正はしたものの、中等症にあたる人でも入院できない可能性はまだ残るのだそうだ。
五輪を強行し、人々の命や暮らしを救おうと思わないのは、自分にはそんな力などないと思っているからなのだろう。そもそも彼らは「人を助ける」といったことを考えたことがあるのだろうか。
五輪を強行する暇があるのなら、新型コロナ対策に集中すべきだが、彼らはそんなことはしない。人を救うためには、時間と労力と想像力が必要だからである。何もかもをサボり、手っ取り早く自分の力を確認するために、彼らは自分より力の弱そうな人間を襲う。
ヘイトクライムのノリで政治をやった結果が、今なのだろう。
8月8日(日)
ひと月前のゾロ目の日、7月7日にFBに投稿したものをここに引用して、私なりの東京五輪日記を終わりにする。小中高の友人から元同僚・上司、仕事の取引先までもが見る可能性のあるところで、うざいやつと思われるだろうと承知で書いた投稿だったりする。「野球と政治と宗教のネタはご法度」という話は、私は聞いた覚えがない。
四度目の緊急事態宣言と東京五輪強行っていう、普通に考えるとなかなか理解が難しい状況になってきました。。。
数字で測るのもはばかられますが、新型コロナウイルスによる死者数が、現時点(※注:2021年7月7日時点)で東日本大震災の死者数に迫る勢いで、年内には2万人を超えるという試算も出ています。
新型コロナ感染症対策に全力を挙げなければならないなかで、東京五輪を強行するのはなぜなのか、ぜんぜんわかりません。
東京五輪を開催すれば、このパンデミックは何かいい方向に向かうというロジックでもあるのでしょうか。寡聞にして知りません。
東日本大震災のときの与党は、国会の会期を延長しました。当然、政治的思惑もあったでしょうし、民主党政権のやることなすこと諸手を挙げて肯定するつもりはありません。
しかし少なくとも国会で議論を続け、説明を続けることは政治家たちの最低限の義務です。
現与党は、国会の延長はせずに無理やり閉じ、東京五輪の予定日が閉会後となりました。パンデミックのなかで五輪を開催することの合理的説明は今もってまだなされていません。
この暗い状況を生み出してきたのは、「安倍さんしかいない」とか「菅さんのパンケーキかわいい」とか「悪夢のような民主党政権時代」みたいな空気に流されてきた有権者なのは間違いないわけですが、しかしこれを裏返せば、そのときの間違いに気づくチャンスでもある、と言うこともできます。
無理やりにでも明るい話をするならば、あのとき間違えた選択は、今からでも修正できるかもしれません。
最悪なのは、明らかに間違えているにも関わらず、今こうなってしまっているのは「仕方がないんだ」、と強弁することです。
そんな強弁をしている間に、事態はどんどん悪い方向に向かいます。
投票にせよ支持にせよ、政治的選択にベストチョイスはありません。
いつだって「まだマシ」を選ぶしかありません。
ただ、「まだマシ」という消去法で選んだにもかかわらず、いまの状況を「仕方なかった」と言い切ってしまうのは、なんであれいまを「ベストチョイス」なんだと自分に言い聞かせる行為です。「まだマシなのはどれか」と考える以上は、間違う可能性だってかなり高いです。
間違えたら、他を選べばいい。ただそれだけ。
現在の与党は、本当に「まだマシ」なのか。
他に「まだマシ」なことを言っている政党はないのか。
過去の自分の判断は合っていたのか。
いまからでも「まだマシ」な選択はできないのか。
諸外国ががんがん給付金やPCR検査拡充を行うなかで、マスク2枚を全国一律配布するのは「仕方ない」ことだったのでしょうか。
東京五輪の延期や中止ができないのは「仕方ない」ことなのでしょうか。
仕方なかったんだ、いまが一番マシなんだ、と言い募ることは、一見明るく見えますが、実は一番ネガティブな態度でしょう。少しでもポジティヴにーーつまり先の可能性を考えるならば、ほかにまだマシな選択肢はないかと、別の選択肢/別の可能性を探り続けなければいけません。
もちろん、本当に仕方がないことはあります。それは「もう取り返しがつかないこと」です。
そういう取り返しのつかないことと、今からでも取り返しのつくことをごっちゃにして、「仕方ない」を連呼するのは、単に考えることを怠け、自らの首を絞めているに過ぎません。
現状とは異なる「別の可能性」を考える、つまり「プランB」を用意すること。東日本大震災のとき、原発の安全設計において、もしもこんなことが起きたらどうするか、という「プランB」を考えられなかったことが、あの事故につながっていきました。
現在、一度決まった東京五輪なのだから、延期や中止という「プランB」を考えない、という事態に陥っています。プランBを考えなければならないのは、感染症対策のトップや原発の安全担当だけではありません。有権者である我々も、常に「今がダメだった場合」を考えなければならないはずです。
今を「仕方ない」「これしかないんだ」と言っていたら、「今がダメだった場合」なんて考えられないでしょう。
ときの与党なんて、ダメだと思ったら何度でも切ればいいじゃん、と思っています。
文/写真:安藤 賛
全7回公開中!
わたしたちの東京五輪2020日記① 小竹(前編)
わたしたちの東京五輪2020日記② 嘉陽
わたしたちの東京五輪2020日記③ 山﨑
わたしたちの東京五輪2020日記④ 友納
わたしたちの東京五輪2020日記⑤ 安藤←この記事
わたしたちの東京五輪2020日記⑥ 今西
わたしたちの東京五輪2020日記⑦ 小竹(後編)
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