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山に向かう -それとも羊文学の好きな10曲-

(文責:伏見瞬)


車の中で


好きな音楽を聴くことは、常に他人の夢を夢見ることだ。

同時に、他人の夢は自分の夢ではないと思い知ることだ。

君は僕みたいなのに、僕じゃない。それを受け入れることでしか、私は大人になることができなかった気がする。


この前、仕事で群馬県まで車で出かけた。よく晴れた冬晴れの日で、一月の群馬にしては寒さを覚えなかった。車のスピーカーのBLUETOOTHを繋げて、羊文学をかけていた。
以前に、彼女が「羊文学を聴くと全共闘と連合赤軍を思い出す」と言ってて、何故か納得したのを思い出した。そんな歌詞じゃないのに、森田童子の「ぼくたちの失敗」みたいな挫折感を覚える。車が群馬の山々に近づくにつれ、疼くものがある。1971年から72年にかけての連合赤軍集団リンチ殺人事件、いわゆる山岳ベース事件は、群馬県の山中で起きている。


中心のない気配

ふと思い立って、羊文学の好きな曲の10曲を考えた。こういうのは楽しいと同時に、遊びだとわかっているのに真剣に悩んでしまう。悩む自分のことが馬鹿みたいだと思いつつ、馬鹿な自分を甘やかしたくなる。

10.Addiction
9.人間だった
8.くだらない
7.永遠のブルー
6.ブレーメン
5.1999
4.砂漠のきみへ
3.光るとき
2.マフラー
1.踊らない


2023年の秋、くるりの岸田さんにインタビューした時に「羊文学はサビがないのがいい」という話になった。J-POP的な構築性がないのに、ポップの中心で戦えてるのが素晴らしい、みたいな話になったと記憶している。
それを思うと、明確なサビのある曲がない『感覚は道標』は随分と羊文学的なところがある。
私としては、ただ単に岸田さんと羊文学の話ができたことが嬉しくて仕方なかった。


だから、曲全体はキャッチーなのに明確なサビのない「Addiction」や「くだらない」や「砂漠のきみへ」に対する思い入れがある。中心のない、漂う気配だけで私に忍び込む感覚を、愛している。
最近の「Burning」や「声」には明らかなサビがある。音質の凶暴さや繊細さに喜びつつも微妙な気持ちの濁りを覚える。



好きなものは挫折

「砂漠のきみへ」において、淡々として律動の中で、轟音と思わせといて実は塗り潰すような音ではない、一音一音の隙間の長いギターのアルペジオが空間を揺らめく。「きみは砂漠の真ん中/ユーモアじゃ雨は降らない」とつぶやくように歌い出す塩塚モエカの声。歌は、誰かを救おうとして救う手立てのない、そんな状況を示しているようだ。

涙だけは命取り でも溢れた

それを掬って 瓶に集めて
いつか花に上げる日までとっておくよ

それしかできない
ごめんねと 書く

涙が溢れる。掬う。瓶に集める。花に上げる。示された行為の連なりが「書く」で閉じられる時、これは「手紙」だったのか!と意外な認識を私は得る。
「ごめんねと書く」と歌う塩塚さんの声は、静かな山々を連想させる。空気が澄んでいて、穏やかで、淋しい。そこには、一人の生を覆い尽くすような、大きな挫折が聞こえるように思う。挫折の後の、隙間だらけの人間が響いている。

私は、挫折が好きだ。「砂漠のきみへ」を陽射しに覆われた車の中で聴いた時、そう思った。村上春樹が好きなのもずっと挫折の物語を語っているからだし、子供の時に『幽遊白書』や『忍空』が好きだったのも、少年ジャンプの漫画の中で挫折を描いているように感受したからだ。そして山本直樹が『レッド』で描いたような連合赤軍の物語は、どこをどう切ってみても挫折の味がする

別に、自分の挫折と物語上の挫折を、簡単に重ねているわけでじゃない。それを言ったら、自分の今までの日々は、むしろ幸運に感じられることが多かった。辛い、暗い、重たい時間もあったけれど、それらはおおよそ報われているように感じている。自分自身を永遠に認めることができないような、そういう根深い挫折に追い付かれないように、必死に考えて、体を動かした。言葉を発した。他人の中に飛び込んだ。失敗もあった。だからこそたくさんの成功を得た。おおむね私は、ひどい挫折をせずに生き延びた。でも、なぜか挫折の物語が好きなのだ。
もしかしたら、「だから」好きなのかもしれないけど。

別に、羊文学は挫折の歌ばかりを歌っているわけじゃない。「手遅れと決めるにはちょっと早いね(more than words)」と歌ったりもするし、気楽さを歌うこともある。なのに、「僕が愛していたあの人を知らない神様が変えてしまった(1999)」や「ぼくたちはかつて人間だったのに/いつからか忘れてしまった(人間だった)」といった言葉が歌われる瞬間に、私は胸の苦しみを感知する。恋に似た高揚感と苦しさだな、と思う。

「ぼく」をものがたる

羊文学の曲には「ぼく」「ぼくたち」という一人称が多い。以前に数えたことがあったのだけど、およそ6割の楽曲で「ぼく」「ぼくたち」が歌われている。

最初のEP『トンネルを抜けたら』が出た時、「踊らない」という曲をひたすら繰り返し聴いた。塩塚さんの歌声は、あの「踊らない」の録音が一番好きだ。夜の暗闇の中で、高架線を電車が過ぎていく風景に、ひどくよく合う音楽だった。

ちょっと鋭い、残響のかかったギターの音。抑えめのところから、少しずつ緊張度を増す展開。低いところから高いところへ飛び回る声は、上下の激しい不安定な状態を伝えるかのようだ。君が、僕の教えたステップで誰かと踊っている。アルコール漬けで景色は濁り、息をするのも憚れる。歌われるのは、少年が恋人を失っていく過程の物語、少年の挫折の物語だ。塩塚モエカの詞は、往々にして少年の閉ざされた内側からの風景を擬態する。「くだらない」における「聞き飽きたラブソングを僕に歌わせないでよ」も同様だ。その歌声は、少年の声とは明らかに異なる、静かな山々の寂しさを保っている。

羊文学の音楽は、まるで私の中の少年が体験する物語のように響く。だけど、その声は自らの卑近な少年の記憶とは程遠い、届かない山の精霊の気配を纏っている。その物語と声のずれに、私はおそらくずっと惹かれている。

誰も聴かなくても

はじめて羊文学を知ったのは、2016年のフジロックフェスティバル、日曜日のルーキー・ア・ゴーゴーという新人発掘のステージにおいてだった。カマシ・ワシントンやバトルズが最高のパフォーマンスに興奮して、一緒に宿をとっている友人たちと談笑して、宿に帰る道すがらで寄ったルーキーのステージだった。
引き締まった演奏で、少し複雑な楽曲を、透明な声と共に響かせている。すごく好きなバンドだと思ったと同時に、売れそうにないバンドだと思った。当時は、薄暗い気配を纏った、「オルタナティブ」という形容の似つかわしいバンドは前線には出れそうにない時代だった。日本ではサチモスやD.A.Nが元気で、海外ではチャンス・ザ・ラッパーやフランク・オーシャンが人気者だった。ブラック・ミュージックを感じさせる音楽が強い時代だった。

2016年に、ふくろうずというバンドが『だって、あたしたちエヴァーグリーン』というアルバムを出して、当時私はこのアルバムがとても好きだった。可愛くて意地悪で胸が苦しくなる音楽だった。もっとずっと活動するのかと思いきや、翌年に解散してしまった。解散は、経済的な理由だったとどこかで読んだ。CDを買ったり、ライヴに行ったりしたら違ったかもしれないと、その時思った。

同じ年の秋に出たのが、『トンネルを抜ければ』だった。ストリーミングでも聴けたけど、私はCDを買った。羊文学が続くために、私にできることはしよう。解散したらまた悲しくなる。そう思ってCDを買った。誰も擁護しなくても、私だけは擁護しよう。そう思わせるバンドだった。

その7年後に、横浜アリーナを満員にするバンドになるとは、全く思いも寄らなかった。

君の夢が見える

名声を考えれば、羊文学の歩みは快進撃なんだと思う。ライヴで何度か見た塩塚さんは、自分の求めているものをよく知っている、自我の強い人に思えた。彼女の芯の強さを、高みへ向かっている歩みから想像する。
それとは別に、私はずっと羊文学に挫折の物語を見ている。本人たちの状況とは関係ない。作品から、挫折を思い描いてしまう。こうなるはずじゃなかったという声が、車の外の山々からこだましてくる。

私が挫折したかもしれない可能性は、常に隣にいるように思える。私自身を救えなかった可能性は、いくらでも転がっている。山岳ベース事件のように、世界を変えようとして自壊する可能性も十二分にあった。山本直樹の『レッド』を読むとなおさらそう思う。あんなに、失恋を思わせる漫画を、私を知らない。革命と恋が一緒だとは全く思わないが、『レッド』には紛れもない失恋の重みを覚える。


私はすべてを破壊するほどの挫折に出会わずに今まで生きてこれたけど、挫折の断片は、生活の中でこだましている。そうした挫折の断片が、羊文学の音楽から響いていくる。

挫折のこだまを耳にする中で、僕と君は同じだと思う。同時に、絶対に君は僕ではないと思う。羊文学が歌う「僕」には、そうした二律背反的な感覚が宿る。

私たちが誰かと出会い、二人の間で強い何かが発生する時、そこではいつも矛盾めいたざわめきが鳴り出す。奇跡と挫折が同時に響く瞬間が、羊文学を聴いているとある時ふと降りかかってくる。

僕が中には決して入れない、君の夢を見ている。車は山へと向かっている。





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