満月はまた溶ける | motoi
今日は満月かな…
スーパー銭湯からの帰り道、川に渡る橋の上で空を見上げる。
同じような形と色味の街灯が、月の隣に並んでて、双子みたいだと思う。
今日の月は街灯と同じくらい明るいな、と思った後に、この感想はどうも趣きが無いなと苦笑する。
深夜0時を回った道路は、昼間の賑やかさが嘘のよう。
夜の街は、ぼぅっとした切なさが漂う。久しぶりの感覚。
淡路島の家の周りは、街灯が無くて、夜は文字通り、真っ暗。
何にも見えない。運が良ければ月と星が見える。
近くで、遠くで、鳴く虫の声に耳を澄ませていると、大きな音楽ホールの中にいるみたい。
窓から差し込む満月の光は、手のひらで掬えるんじゃないかと思うほど明るい。
そんな淡路島の夜が大好きなんだけど、人によっては孤独そのものなのかもしれないな、と双子の月を見上げながら考える。
何故か、私には街の夜の方が孤独だ。
こんなに人の気配がするのに。
街灯やマンションの灯り、走り去る車、舗装された道、大きな看板、そんな‘人の気配’を、優しい、と私は思う。
ひとりじゃないことを教えてくれる。
この優しさに、幾度となく助けられてきた気がする。
それなのに、この独特な孤独感は何なんだろう。
街の灯りに埋もれそうな月を見ていると、月をもっと感じたい、と突き上げるように思った。
もっともっと、月を深く感じたい。
月を深く感じる時、何が起こっているのか。
感じてることを、感じてるのかもしれない。
対象は月でなくても、何でも良い。
味わう、のが私にとって心地良いことなのかもしれない。
味わうことで、対象を深く知れることは勿論、感じている自分を、自分自身で認知出来るから、心地良いのか…?
自分で自分を確認していれば、孤独ではない、ということ…?
街の灯りに埋もれそうなのは、月だけでは無いのかも。
淡路島の家に戻って、キッチンの丸机で、外の景色を見ながら、三ノ宮駅で買った御座候(関西の大判焼きみたいな和菓子)を頬張る。
包んでくれた店員の男性は新入りさんみたいで、周りの方から手解きを受けていた。
辿々しく手渡され、私はいつも通り「ありがとう」と言って受け取る。
ほぼ習慣のように発せられる ありがとう はどこかに着地するのだろうか、と思いながらバス停に向かう。
今回の帰省中、ずっとどこか切なかった。
定期検診の為に大阪に戻ったから、少なからず不安を携えての帰省ではあったのだけど、母や父の優しさも、高速道路で見た夏の雲も、賑やかな夜の街も、胸を締め付けた。
御座候をむしゃむしゃ頬張りながら、家の裏の竹藪に目をやる。
チラチラと葉の隙間から光が溢れる。
風に揺らされた竹が、かんかんと、音を立てる。
蝉の声が遠くで聴こえる。
あと少しで、陽が落ちる。
ふと、過ぎてゆくことが、切なかったのだと気付く。
全部、過ぎてゆく。
あの月も、家族と過ごす時間も、夏の雲も、ありがとうも。
それは別に悪いことではない。
通り過ぎるものを、胸いっぱいに吸い込んで、そして吐けばいい。
欠けてゆく月を見つめればいい。
夏の眩しさが、過ぎてゆくことを誇張させている。
そんなことを文字に残していたら、玄関先で私を呼ぶ声がする。
お隣さんが、「アイス買って来たから♡」と、ガツンとみかんをくれる。感謝の言葉と共に受け取った。
溶けかけのアイスが美味しい。
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