Dear | motoi
18日で個展終了。
裏舞台はいつもドタバタ。無事に終えれることが嬉しい。
個展に合わせて作った新作の指輪は‘ Dear ’と名付け、個展タイトルも同じものにした。
コンセプトが無いと作れないというのもあり、シリーズごとにコンセプトを掲げている。
Dearも同じく。
4月、南仏のMarseille。
Airbnbで見つけた宿は、アパートの最上階に住むカップルの家の一室。
セミダブルベッドと椅子、机、壁には世界地図と恐らく過去の宿泊者からの手紙が貼られた部屋に案内され、私は荷物を下ろした。
部屋の大きな窓から、屋上の小さな庭に出れる。
初めての海外は緊張が続く。クタクタな身体を、庭の端にあった木の椅子に凭せ掛ける。
はぁ…と一息。
庭を、空を、そして街並みを眺めた。
庭にはたくさんのプランター。
過保護にはされていないけど、大切にされている植物たち。
プランターの土の上には、野菜のヘタや皮が寝そべっている。
少し乾いて、周りを虫が飛んでいる。匂いはしない。不思議だ。
このヘタは、いつの食事の分だろうと思った。
2人分の小さな循環。
ふと、循環は繋がることだと感じた。
それは、土や水とだけではなく、ゴミで道が塞がるようなこの街とも。
酷く安心して、少し泣いた。
日本に帰ってきてから、はて、何故私はあのように感じたのだろう、と考えた。
何故、自然とだけでなく、ゴミと繋がることに安心したのだろう、と。
頭の中を、大量の文字と簡単なイラストで、整理する。
結論は、私たちが自然の一部であることは勿論、人工物(ゴミや循環の環を歪にするモノ)は私たちの派生物であり、気付かぬうちに、その人工物にも自己を感じていた、ということ。
人工物を否定することは、回り回って、私自身を否定することになる、ということ。
そんなことある?と、紙の上の文字を読み返しながら疑うけれど、
私自身と近い境遇の人、例えば同郷の人や同性の人、似た問題を抱える人など、共通点がある人を全くの他人だとは思えないその心境を想像すると、合点がいく。
ゴミや循環の環を歪にするモノは、生活を豊かにする為に、人間が奮闘してきたひとつの結果、足跡だと思う。
いつ頃からか、豊かさの意味が複雑になり、舵を取るのが難しくなって今に至るけれど、足跡を悪とすることは、足跡をつけた私たちを悪とすることで、それは川の流れを堰き止めるように、物事の在り方に不自然さと無理を感じる。
あの庭で見たのは、足跡を悪とせず、見つめ、共に進もうとする光景だった。
堰き止める大きな石は無かった。
私はあの庭で、石を動かし、足跡をつけた私に再会して、その手を取ったのだと思う。
水が在りのまま流れるように、それは自然な在り方であり、何よりも足跡をつけた私と会えたことに安心した。
今回に限らず、あらゆる状況に‘自分’はいるのだと想像する。
再会する毎に、繋がりに気付き、重なりが深く大きくなってゆくのだろう。
‘Dear’は、繋がることをコンセプトにした。
再会できることを望んで。
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