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こじらせないためにも書いていたい話 | ちろ

すっきりとした文章を書ける人が羨ましい。
ここで言う「すっきりとした文章」というのは、どこか淡々としていて、大概「〜だ」「〜である」で締めくくられていて、感情も多少露わになっていて、他者の目をあまり気に留めていないように思える、カラッとした文のことだ。なんとなくのびのびしていて読んでいて気持ちが良いと思う文。そういう文章が生まれるまでに、計り知れない苦悩も苛々も背景がたくさんあるとは重々分かっている。それらを経て綴られたすっきりした文章にあこがれる。
わたしはどちらかといえば他者の目を気にしすぎるほうだ。まず私自身、エッセイにしろ小説にしろ文章を読むときにあれこれ考えてしまう。責任から逃げるように「〜と思う」を連発するし、あまり意見を押し付けるような書き方をしたくないがゆえのくどい言い回しをしがちで、客観的に見てこの文章はおもしろいのか?と読む人のことを考えてついつい書き直す(そもそもおもしろい文章ってなんぞや、という話になるのですが)。自分の言い方・書き方ひとつでだれかが不快な思いをしたり、書かれた文で人柄を決めつけられたり、無知が浮き彫りになることがやけにこわい。世の中にあふれることばの半数ほどが、ああそうですか…と無関心に過ぎゆくものだと思っているけど、わたしの文章は常にそう思われていそうで身構える。身に入らない。いつまで経ってもどこか未熟だな、と思う。べつにだれかのためになる文章を書きたいわけでもないのだけど。

自分にとって、書くことはパンの成形に似ている。発酵かごから出した状態で自信を持ちサッと焼いてしまえばいいものの、その先にある焼き上がりの形を気にしてついつい手をくわえすぎて、そうしているうちに生地がだれ、結局焼き上がった形にも納得しないという。ここまで読まれている方はお気づきかと思いますが、厄介なタチです。形の定まらない粘土を、ひたすらぐにぐにこねくり回しているような感覚だ。

はじめて親のもとを離れて、京都に住みはじめてから今まで欠かさずつけている日記がある。だれに見せるわけでもない、ごくプライベートな日記(日記ってそういうものか)。およそ10年分なので、だいたい3650日の記録が手元に残っていることになる。もちろんサボってる日もあるので確実ではない。そうあまりないけど以前に自分が書いた文章を読むと、これは本当に自分か…?と思う。特に日記をつけはじめた当初の学生時代。いきいきとしていて、しっかり学業の面でも人間関係の面でも恋愛の面でも真摯で、空回りしてもなお勢いがあって、まるで別人のようだ。基本的に昨日の自分と今日の自分は別の人間だと思っているので、直近の日記でさえ読むことを躊躇する。日記本を出せる人はほんとうにすごい。

日記というものは本当に私的なもので、自分のむき出しの感情やあらゆる不満、だれにも打ち明けられない沈殿した何かをつらつら書いているうちに「おや、なんだかこのままでは…」となることが多い。たのしかったことも嬉しかったことももちろん書いているけど、何せ邪念のほうが大半を占めがちな世の中なので、自分の文はもちろん、思考が常に尖っているような気がしてならない。たまに、同居人に日記読んでみて!そんで感想きかせて!と無理矢理に見せることもあるがまあ読んでくれない。そら他人のプライベートな感情なんてあまり目にしたくないわな。

自分の主張に寄りすぎず、気持ちがゆがみすぎることなく、正気を保つためにも文を書いていられたらと思う。文を書くに限らず、作ったごはんを誰かに食べてもらう、とか、自分の好きな本を一冊薦める、とか身近なことでも全然良い。声の要らない対話を常に挟んでみること。日記を書いたり文を書くことは、自分自身への私心・言い聞かせであることがほとんどで、もう二度と見返さないかもしれないおまもりを細々と作り続けていることにも近い。頭では理解しているつもりでも思いがけずこうして婉曲的な文章を書いている。
素直においしかった、楽しかった、悲しかった、こうだった、終わり。だれもがそれぞれ好き勝手に生きているのだから、汲み取りすぎず自由自在に。うしろめたさを感じず、シャープで軽やかな文を紡げる日がいつか来ると良い。


ちろ
本を読んだり台所に立ったりする人

恵文社一乗寺店書籍部門の人。家での晩ごはんを楽しみに日々生きています。

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