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【本島南西部の局地的想像戦線】那覇と首里の違い①

 私は本島北部(山原)出身の両親のもとにうまれ、北部地域、南部・豊見城村を盥回しにされ3歳ぐらいから首里で育ちました。豊見城村(当時・現在豊見城市)のアパートベランダから、川向こうの豚小屋の火事を見たことを何となく覚えています。

 ちなみに私の名は、このアパートに住む好青年と同じにしたとのことですが、話としては時系列が合わないと思います。この真玉橋のアパートではない、別の集合住宅での話であったのかもしれません。

 今度確かめてみましょう。幸い、私の父らしき人と母はまだ存命ですから。

 首里の最初の記憶は、白い家、雨がふるとびちゃびちゃぐずぐずになる砂利道。流れる汚水。今はなき知念商店の前で、誰か(男の子)に「おまへ、なんさい?」と訊かれ、ゆびをみっつにして「さんさい」と答えたこと。

 隣家との間のブロック塀に登り、飛び降り。登り、飛び降り、登り飛び降りを繰り返していると、いつの間にか右か左の足の小指を骨折していたこと。母に歩き方が変だと指摘されて発覚しました。

 首里の辺境の町で、開発が日々進む中、一区画だけ取り残されたジャングル。ここに男、ずいぶん年を取った老人(子どもから見て相対的に)がひとり棲みけり。

「鎌おじい」

 と呼ばれていました。私たちの間では。恐ろしい老人で、このジャングルの葉を一枚でも盗ったら、その報いにひと一人を殺すと言われていました(鎌で)。

 私たちは生まれて間もなく、ろくに漢字読めず、性もまだ悪なのか善なのか定まっていませんでした。要するに残虐であったのです。

 JT小学校の帰りに、私や私の幼なじみたちは鎌おじいのジャングルの葉を千切りました。悪気とか良心とかとは全く違う衝動における行動です。肝試しという行動様式に近いと思います。

 私は生まれつきお調子乗りで囃し立てられると脳下垂体に血が一瞬で経めぐるたちであったので、あるとき、鎌おじいのジャングルのなかに入っていきました。薄暗いジャングルの中央には、木で作った小屋がありました。

 恐怖。好奇心。喝采。哄笑。

 小屋の中からあらわれました。黒い影。

「ぬーやが。やー!」

 くろいかげ。葉のあいだから零れおちる光。黒いヒルが全身を螺旋状に、縄文式土器式に蠢いていました。

 わー。

 と言って逃げました。

 三、四粒の胡麻が南東に、また南に、そして南西に散っていきました。

 これが当時の首里でした。この時、私は那覇という大都会のことは殆どしりませんでした。すめば都。ここ以外に人々が暮らしている場所があることなど知る由もありませんでした。

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